中井龍彦
冬の日の休日、薪ストーブの小屋で昼寝をするのが私の日課である。裏山の欅の隙間から木漏れ日が洩れ、雲もいつになく柔らかそうに漂っている。とても冬とは思えない陽気だ。昨日降った薄雪が溶けはじめ、水滴がスロータクトを打ちながら樋(とい)を垂る。阪神大震災から20年、祈りとともに一月が過ぎてゆく。
小正月前日の14日、例年どおりのとんど祭りが行われた。雪もなく、さほど寒くもなく、大きなとんど火が燃え上がった。見るかぎり穏やかな火だが、穂先では天宮への帰途につく正月神の姿がいくつも見える。少なくとも私にはそのように見える。
「今年の火は、あんじよう燃えたな。ええ歳になるで」と、皆が口にして帰って行った。確かに今年の火は勢いよく燃えた。日本にとっては景況回復の年になり、紀伊半島大水害での復旧工事が続いている私の集落では、安寧の一年になるだろうと予測して帰った。妻は火を持ち帰り、小豆粥を炊き始めている。
とんど火の大き炎に背を炙(あぶ)り尻を炙りて今年も生きむ
火を持ちて帰り来にけりガス台に届けるまでの神の時間を
とんどは「左義長」ともいう。さかのぼれば、平安時代の陰陽道に繋がり、その歳の吉凶を占う祭儀であったらしい。今でも、信心深い人はその燃え具合によって吉凶を占う。
毎年、とんど火を写真に撮り続けているうちに、私も火の燃え具合が気になるようになった。昨年の火は、まっすぐに立ちのぼり、紀伊半島での二次災害は免れたものの、日本中のあちこちで、さまざまな自然災害が起きた。どうやら、あまねく通じる占いとは言い難い。
とは思いつつ、今年の燃え具合を写真で確かめてみると、美しいと呼べるような写真が一枚もないことに気づいた。おおげさかもしれないが、火が叫び火が苦しんでいるように見える。実際に見た火と、写真がとらえた火とでは吉凶が違っていた。
年を経るにつれ、予測困難な時代が進みつつあるように思える。グローバル社会に潜む明暗と混沌、地球温暖化という環境破壊、世界規模で頻発する自然災害、無政府イスラム集団の台頭と殺人テロル、地方消滅という近未来予想図。そのようなことを考えながら写真に写ったとんど火を見ていると、正月神が帰ってゆく火姿ではなく神々を焼き滅ぼす火柱に見えた。イスラムの神も、キリストの神も、八百万の神々も・・・。
日が暮れて、長い昼寝から目覚め、薪ストーブの燠火をいじっていると、ふと昔の生活が想い出される。朝起きると竈(かまど)の前に母が座り、火が燃えていた。風呂を沸かすのは子供である私の役目で、薪を作るのは父の仕事というふうに、生活が「仕事」そのものだった。子供には子供の仕事があった。大人には大人の仕事と役目があり、必ずしもお金に結びつくようなことばかりではなかった。半分以上が「自足」の日常を保とうとしていた。そのなかには、なによりも「調和」があった。村の時間が調和のなかにあるとき、貧しいという現実は蚊帳の外に忘れられ、季節毎の仕事の段取りや、共同行事の運営などがもっぱらの関心事であった。それが変わり始めたのは、いつ頃からであろう。
1960年代半ばまで、とんど祭りは子供らの知恵と手で行われていた。それがしだい、に子供ではなく、子供会という親子の組織にとって変わり、やがて大人だけの行事になってしまう。子供たちは、いつの間にか居なくなっていた。
とんどの千切れ火は、田舎から都会に吸収され、ちりぢりになっていった「子供たち」の火姿なのかも知れない。