地の球 ―Tsuchi no mari―



私の好きなスタートレック・ヴォイジャーに、次の一話があります。

時空軸を自由にあやつる一種族がいます。宇宙船から時空兵器という武器で、ある一つの文明を滅ぼしたり、またある文明を蘇生させたりしながら、最終的に自分達が求めている時代に行き着こうというのが目的なのですが、タイムパラドックス――簡単に言えば頭が混乱状態――に陥ってしまい、何度も消したり蘇らせたりの愚行を繰り返しながら、時間の中を彷徨っています。

チャコティー副長がその宇宙船にとらわれ、共に暮らすうちに次第に時空観念に興味を覚え、ヴォイジャーの行く手を遮った小さな彗星をシュミレーションのボタンで消し去ります。すると、みるみる周辺何万光年にもおよぶ星々の文明が消え「お前はたった今8000もの文明を消し去った。」と異星人のリーダーに告げられます。その彗星が過去におよぼした時空への関与は、周辺8000もの星々の生命体におよんでいたからです。

これと同じようにあなたが今、つまり現在からいなくなるとします。死ぬのではなく時間を移動するかまたは時空の中から消去されてしまうのです。するとあなたの父・母・祖父・祖母、えんえんと時間をさかのぼりあなたと繋がりのある総ての人が消えてしまいます。中に野口英世や北里柴三郎がいたとして、彼らが成した偉業により救われた人々、またそれらの人々の親族、先祖。広がりはえんえんと続き、最終的に地球上の生命、生物と呼ばれる総てが消去されてしまうことでしょう。石器時代、白亜紀、カンブリア紀は言うに及ばず、私達には知識でしか知りえない35億年前のバクテリアや微生物の時代まで消去され、原始地球がそこに再現します。

私はなにも「人類はみな兄弟」という崇高な道徳を言おうというのではありません。けれども、科学的に人間を含む生命は総て何らかの関与、連鎖のもとに繋がりがある事は事実です。私達が今、地球という星に生きている事実は、無数の偶然の積み重ねによって創られた括弧たる一つの必然なのだと思うのですが、いかがでしょうか。

で、地球は・・・・・・・・・・あなたが消去された地球は、「原始地球」にタイムスリップしてまた無数の偶然の積み上げを繰り返す事で、あなたという固体を再生するかもしれません。

この事は、かのニーチェもトゥラトゥストラの永遠回帰説の中で唱えています。少し長くなりますがその文章を引用します。

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一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠にまわっている。一切は死んでゆく、一切はふたたび花咲く。存在の年は永遠にめぐっている。一切はこわれ、一切は新たにつぎ合わされる。存在という同一の家は永遠に再建される。一切は別れあい、一切はふたたび会う。存在の円環は、永遠に忠実におのれのありかたをまもっている。一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの『ここ』を中心として『かなた』の球はまわっている。中心は至るところにある。永遠の歩む道は曲線である。
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昨日の事、今日の事、一昔前の事、総ての過去は、また未来永劫に繰り返されるというのです。別れた人、また亡くなった人たちとも再びめぐり逢い、無限という曲線上で私達の時間と空間は「かなたの球」となって廻っているというのです。

なんだか目が廻ってきましたが、これはSF的に考えれば哲学的なタイムトラベルであり、また仏教の輪廻転生の思想とも酷似しています。類まれな哲学、宗教思想とSFを同一レベルで考えるのは不謹慎かもしれませんが、私達が経験している過去から現在、現在から未来という一連の時間の流れは、あくまで地球史の中で生まれたものであり、それに対し地球が経験してきた宇宙の時間は哲学か宗教、もしくはSFでしかとらえどころのない『永遠』という観念をはらんでいます。宇宙時計では一瞬一瞬の繰り返しが永遠であり、『永遠』はまた今の一瞬であるのかも知れません。

人間の認識をはるかに越えた悠久の時間、また人類のもっとも大切な『場』である地球、・・・・私達のとぼしい経験と知識では、地球が1回自転して一日、太陽を1周廻って一年、というぐらいが大切な事で、地球を含む太陽系も何百万年かけて銀河の中心をめぐり、またその銀河系すらも悠久の時間をかけて宇宙の中心を廻っているという、まさしく目が廻るような巨大な「時空の渦」をニーチェという人は観ることが出来たのかもしれません。

さて、自然の摂理というか、地球の生理を、他の動植物に曲げたり歪めたりする力はありませんが、人間にはどうやらその力があるようです。地球に無い物質を生成したり、地球が何十億年かけて創り出した多くの資源を,ふんだんに活用して、そして棄ててゆきます。要するに人間は、地球を『資産』または『資本』としてとらえ、何の頓着もなく消費しているのです。けれども、この驕慢な消費生活は、いつまでも長続きするものではありません。資源エネルギー問題、地球環境問題となって人類に跳ね返ってきたのです。それらの諸問題は、もはや局所的なものではなく世界中の空を覆うような地球規模の暗雲となって取りざたされるようになりました。地球温暖化問題を始めに、地球砂漠化、酸性雨、オゾン層破壊、大気海洋汚染、熱帯雨林の消失・・・そして、ただのゴミ問題ですら、いまや局所的なものではなく、日本を例にとりますと、ゴミそのものの原料は海外から持ち込まれ、消費された後に海を渡る例が少なくないのです。地球が生命の源であるための土と大気と水、人間にとって必要不可欠なこの三大ファクターを劣悪化させ、地球の生理を歪めることでますます自らの存続を危うくしているのです。

私達のとぼしい経験と知識でも、最近の異常気象や、生態系の異変を肌で感じ、見てとることが出来ます。多分この異常気象は毎年繰り返され、さらにこの先、過酷な思いもよらぬ試練に人類は立ち会わねばならないでしょう。――地球環境問題――戦争よりも深刻なこの問題を、私達は自分ひとりの問題ではなく、子々孫々に渡る問題としてとらえ、無関心という重たい腰を上げなければなりません。

長くなりましたが、生命の『場』である地球に、尊厳と愛しみを込めて、このHPを『つちのまり』と名づけました。

                           中井龍彦                

                          2004年9月19日