積み重なる木の時間


                中井龍彦

   代行ビジネスが流行りだそうである。犬の散歩、年賀状書き、洗濯に掃除、家人に代行して報酬を得る商売。首をひねるものに、墓参りを代行するビジネスもあるという。

   このように、あからさまに「時間」が売買される時代になった。自分が立ち会わねばならない時間を、他人の時間に置き換えてもらう。さらに言えば、消費することは他人の時間を買うことでもある。夕食の魚を獲ってくれた漁師の時間、それを届けてくれた宅配の人の時間、加工調理してくれたパート女性の時間。いちいち感謝しているわけでもないが、私たちの生活は、つねに多くの「他人の時間の消費」の上で成り立っている。したがって、時間を短縮することが経済活動、生産活動の命題になり、そこから、合理化、効率化、低コスト化などの、一方的な管理社会用語が生まれた。いつの時代にも、時間はお金というツールで計量されて来た歴史があり、それを突き詰めると人の命に期限があるから、その限りある時間に価格という値札が付けられた、と考えても不思議ではない。

   そこで「木の時間」について考えてみよう。

   木の年輪はその木が生きて来た時間を克明に記している。幹、枝を含め、年輪そのものが「木の時間」と言ってもまちがいではない。一方的な解釈だが、木には二度の生があるとされる。山に立っていた時間と、建築部材や紙などとして利用されている時間である。山に立っていた時間はさまざまに、人の生活に益をもたらす。水源を涵養し、酸素を供給し、炭素を取り入れる。この環境保全機能は人類の 生存と存続に深く関わりをもっている。利用されている時間もさまざまで、1,300年も第二の生を生きて来た法隆寺の柱や、古民家の部材、多くの古墳の中に眠っている柩などの時間がある。しかし、木は伐られてから燃料として利用されるのが大半を占め、建築材として利用される場合でも第二の生は永くとも数十年ほどである。

   年輪、いわゆる木目を際立たせて利用されるのは屋久杉や春日杉、秋田杉や吉野杉など杉の大径木が多く、そこまで太くなるには2百年以上の歳月を要する。林業は木を植えて育て、伐って売りさばくまでの労働と商売をいうのだが、製造業や農業とも違って、木を育てた人がその時間の価値価格を知ることはまずない。なぜなら、百年生の木を植えた人は百年前の人だからである。木を、あるいは森を仕立てるという仕事と、モノを作るという仕事では、時間価値において老人と赤ちゃんほどの違いがあるようだ。

   木の価値基準は複雑で、必ずしも年輪に刻まれた時間によって決められているばかりでもない。立っている所が山の頂上なら、雷に撃たれることもあるし、風に錐揉みにされることもある。年輪を重ねた木でも、二束三文になってしまうことすらある。真直ぐな木は良質だが、曲がった木や成長の止まった木は早々に伐り捨てられる。また一方で、良質で値打ちのある木でも所有者のつごうで伐られる場合もあり、「木の時間」はあくまでも人間の価値基準で決められるだけの、はかない経済時間である。

   とはいえ、建築部材として使われている柱や梁にも人の想い及ばない「第一の生」があったはずだ。雪の降る森の中に立っていた時間、半世紀前の風にそよいだ時間。縄文杉や吉野桜のように、名を馳せた名木にひとしく、評判のよくない「お山の杉の子」たちも、一年たてば一つの年輪をかさねてゆく。

   たとえ樹種や形状、立地条件は異なっていても、一本一本の木は同質・同等の時間をかさねながら佇んでいる。日をあびながら、影をおびながら。    

平成27年6月24日
平成28年12月26日更新