うすのろ 中井龍彦
朝つゆをいっぱい浮かべたすいせんの葉の上を、かたつむりがのそのそと這い上ってきました。
「やあ、今日はすがすがしゅうて良いお天気じゃのう。」
そういいながら、かたつむりは角をギュッと空に向けてのばし、大きなあくびをひとつ・・・・・・。すると、すいせんの葉が上下にしなんでいます。
「おっと、おっと!ここから先に進むと池に落っこちようというもの、池の水はさぞ冷たかろうて。のう緋鯉の諸君。先日はお前さん等にえろう可愛がってもろうて・・・・・おお、いてて!!!まだ腰のあたりがうずくんじゃよ。」
『そうだろう、いいかげんあんたも年だからね。』
と誰かよこから口を出した者がいます。みると、なめくじがすぐとなりのすいせんの葉先にたかってゆさゆさとやっています。
「あんたみたいに安物の家を引っこずって這い廻っている奴は、いずれ池の鯉のえさになっちまうだろうさ。まったく、どうしてあんたは、そんな不便な家をすてちまわないのかね。」
なめくじはまたいつもの調子でかたつむりをからかい始めました。かたつむりは、こりゃ嫌な奴に出くわしたものだ・・・と、いぶかしそうな顔つきで・・・
「わしはね、おまえさんのような怠け者とはわけが違うんじゃよ。先日わしが池に落ちたときのことを覚えとるじゃろ。そりゃむろん、この家のせいで落ちたには違いない。じゃがの、あの鯉の連中からわしを守ってくれたのは、わしのこの家なんじゃよ。わしがこの中深うはいりこんで、かとう扉をふさいでしもたからなんじゃよ。池に落ちたのがわしではなくて、もしもあんたじゃったらなんだね。今ごろは鯉の胃袋の中でさぞやつらい思いをしとることじゃろう。いやいや!もうクソになっちょる。」
そういいながらかたつむりは、大きな家を自慢げになぜさすっています。
「だからあんたはうすのろというものだ。世の中が自分の家ですべてだと思ってらっしゃる。世の中はね、あんたのその安物の家よりはもう少しだけ広いよ!!だいいち、そんなやっかいなお荷物を担いで、うろうろと這い廻っている馬鹿はあんたぐらいのものだ。」
なめくじはそういいながらも、ひとつだけ気がかりになっていたことがあります。それは、自分とこのかたつむりのうすのろとが、どこでどこかで似ているのではないかという疑いの念です。そして、池の面に映った自分の姿をじっくりとのぞき込んでから・・・・・
(やっぱり違う。だって俺は、こんな細い葉の先でも軽々と渡り歩くことができるし、それに見ろ!俺のからだはすんなりとして、だいたい、あいつのように気味の悪い家など俺には持ち合わせちゃいない・・・)
かたつむりはかたつむりで、
(うすのろにうすのろ呼ばわりされるところをみると、わしらは似通っているところがあるのかも知れん・・・・・ふむ。じゃがなめくじの若造は、このわしのような立派な家を持っとりゃせん。それになんじゃ、あの時池に落ちたのがなめくじの若造じゃったら、今ごろは間違いのう鯉のクソじゃろうて、うん、どこも似とりゃせん。)
かたつむりは思い直して言い返しました。
「おまえさん、わしのこの家を安物呼ばわりするのは、ほんとうはこの家がほしゅうてたまらんのじゃろう、え?どうじゃ、おまえさん、ねたんでいるのじゃろう。」
「馬鹿馬鹿しい!誰がそんな汚らしい家なんぞ欲しがるもんかい!だいたいその中で見られるものといえば、くだらん―夢―ぐらいのものだ。あっち向いても壁、こっち向いても壁、はらわた押さえつけられて、小便でもちびっちまうんじゃないのかい。あんたはじっさい、角を出して、やりを出して、ついでに小便でも出して、壁にぶち当たって死んじまうことだね。」
なめくじは口汚くののしっています。
「それじゃあ、なにかね。おまえさんはこのわしより、もっと立派な家を持っているといわれるのじゃな。こんな便利で住みよい家より、もっと広い立派な邸宅を、さて、おまえさんはどこのどこに持っているといわれるのじゃな。」
こういうとしょげ返るだろうと思っていたのに、
「そうとも、持っているよ。おまえなどは問題にもならないほど、立派な家をね。」
となめくじが胸を張って答えたので、さすがのかたつむりもこのときばかりは驚いてしまいました。目玉をギューッとななめに向けて伸ばし、
「ほおう、こりゃおどろいた。おまえさんの家なんぞ見たことがなかったので・・・・・ほおう、いやや、おどろいた。きっとあのこやぶの中にでも隠しておかれたのじゃな。さあさあ、見せて下され。ほおう。」
かたつむりは、そういうやいなや、もうせかせかとすいせんの葉を下りはじめました。
「ちょっとまちなよ!だからあんたは、どうしようもないうすのろというもんだ。まったく始末におえやしない。俺がいつあのこやぶの中に自分の家を隠したなんていった。」
「しかしじゃ、おまえさんの家があろうものなら、あのこやぶの中にしかない。」
そこは木々の枝葉がつもりにつもって、ちょうどこやぶのように薄暗くなっています。なめくじはいつも好んで、そのこやぶの中を枝から枝へ這いのぼったり腐った葉の上で寝ころんだりしている様子でしたから。
「では教えてやろう!俺の立派な家は、とうていあのようなところに入りきれるものではない。どうしてなら、俺の家はこの空のした全部なんだから。あんたのようなうすのろには分かりもしないことだけど、俺の家はこの空と地との間の全てなんだよ。」
それを聞いたかたつむりは、―なあんだ―とつまらなさそうな顔で、
「おまえさんは、すこぶる付きのホラ吹きじゃのう。腐った枯葉の上で、いつもごろごろ怠けてばかりいるくせに、よくもまあ、そんな大ボラがいえたものじゃ!いやや、あきれてしもうたわい。」
かたつむりはムウッとふくれながら、横目でなめくじをにらみつけました。
ところで、俺の家はこの空と地の間の、と大言したなめくじも、ほんとうにそのようなことを腹の底から考えていたわけではなく、ただかたつむりの家自慢をやりこめんがためにそういってみたまでのこと。
どうしようもないうすのろ同志の家自慢ということになって、ののしりあいはさらに続きます。
「おまえさん、さっきからわしのことばかりをうすのろ呼ばわりしておるが、わしだけを見て自分の身分をひけらかしておったら、そりゃ間違っとる。あすこの蝶や、この下の鯉とでもくらべてみい。なんなら、あのこうるさいアリとでもかけっこしてみい。アリにでも負けるような奴が、他人様のことをうすのろ呼ばわりするものじゃあない。」
かたつむりがこのように言うと、これはしてやられた、と思ったなめくじは、今にもとけてなくなりそうなあわてぶりで・・・、しかし、そんな様子は臆面にもみせず、
「空と地の間を家と考えているようなおれ様と、そんなうす汚い家を家だと自惚れているあんたと、それじゃあ、いったいどちらがうすのろだという。俺はただ、あんたのようなけったいな家を引きずり廻すデクノボウを −うすのろ− と称したまでのこと。そのようなことは世間での常識というもの。なんだったらその家を捨てて、俺のような身軽さでこのすいせんの葉先にまで登ってきてごらん。そしてこうやって、自分の重みでしならせているうちに、あんたも空と地の間を自分の家だと考えるようになる。家などは引きずり廻すものじゃない、とね。」
うまくやり込めた、と思ったなめくじはもううれしくてたまりません。やもたてもたまらず、すいせんの葉をゆさゆさとしならせました。かたつむりの方としても、これは負けておれません。
「いいかげんな負け惜しみを言う奴じゃ!ああいやこういう、こういやああいう。心の中にこれっぽっちもないことを、舌先三寸でペラペラペラペラ、まったく腹の立つ奴じゃ。いいか、よく聞け若造!このりっぱな家を捨てなくても、葉先にぐらい誰だって登れようというもの、今から登ってやるからようくみておれ!」
かたつむりは腹立ちまぎれに、先日池に落ちたあのときのことも忘れてわめき散らしました。
そうそう、先日池に落ちたのもちょうどおなじ葉の上からでした。
「ああ、いいともさ、でも池に落っこちたって俺知らないからね。うすのろはうすのろらしく、家の中にひっこもっていたらいいものを。全くあんたは、うすのろのうすのろの中のうすのろの馬鹿だよ。」
なめくじはそういいながら、ニタニタとうすら笑いを浮かべています。これは面白いことになったぞ、というふうに・・・。
しかし、なめくじがそういっている内に、すでにかたつむりはえんこらえんこらと葉の上を這い登ってゆきました。そして、何なく葉先にたどり着いて言うには、
「どうじゃい、若造!ここまで来たって、いったいおまえのいう空と地の間の家はどこにあるのじゃな、え、家なしの怠け者のくせして、あまりわしを馬鹿にするもんじゃないぞ!うっほん、うすのろのうすのろのための?、、いや違った、うすのろのうすのろの中のうすのろの馬鹿はおまえの方じゃよ!」
かたつむりはここぞとばかり、角も目玉もいっせいに伸ばし勝利の御印をかかげました。一方、なめくじは塩でもまかれたように、つまらぬ顔、さっきまでの意気込みは、何処吹く風。と、その時、すいせんの葉をくるくるとひるがえさんばかりに、何処からともなく強い風がふいてまいりました。そのせいで、自慢げに家をなぜさすっていたかたつむりはその家もろとも池の中にポッチャン――。さて、喜んだのはなめくじです。
「ヒャアーヒャアーギャアー、ざまみろざまみろ、やっぱりうすのろはうすのろじゃなか!正しい者はやっぱり正しい、おまえなんか、せいぜい池の鯉の玩具にでもされることだ。」
なめくじにいわれなくても、かたすむりのうすのろは池の中でさんざんなめに合っています。赤い鯉から白い鯉へ、白い鯉から金色の鯉へ、こずかれてつつかれて、大切な家を池の石べりにガチガチとこすり付けられています。鯉達にしてみたら、空から面白い物が降ってきた、ぐらいな調子なのでしょう。
一方、なめくじは水飛沫がかかるのも忘れ果て、鯉達の応援に懸命――。
「もっとやれ、もっとやれ!そこだ、そらそこだ!」
と暴れまわる鯉達を大声ではやしつけています。さらに勢いづいた鯉は、水面から高く飛びはね、なめくじが乗っているすいせんの葉を、その尻尾の先でパシッとはね上げました。むろんなめくじは、池めがけてポチャン――。それを見つけた鯉が、こりゃまた空からおいしそうな物が降って来た、とばかり、なめくじをみみずと間違えてゴクリ――。
「おや?おやおや??これはウスノロの味だ。」
やがて、鯉達がかたつむりの玩具にもあきたころ、池はもとの通り朝の静かな水面にかえりました。しかし、もうそのころにかたつむりの家はおしまいです。ひび割れた穴から冷たい水がしみ込んで来て、かたつむりは池の底にぶくぶくと沈んでいってしまいました。
もがこうとどうしようと、泥まじりの水はあとからあとに浸水して来ます。とうとうかたつむりはあきらめたかに見えて、
「やはり、なめくじの言った通りじゃった、こんな家さえなかったら、わしも天寿を全うできたろうに・・・、こうやってわしは、池の底の朽ち葉蒲団にうずくまって、やがて泥になってしまうのじゃろう・・・、ああ、わしが間違っていた。今度生まれ変わって来るときは、こんな家など捨てて、空と地の間を「家」と考える、あのなめくじのような心掛けで生きたいものじゃ・・・。」
かたつむりはそういったきり、長年付き合ってきた家の中でゆっくりとまぶたを下ろしました。なめくじの若造が、今ごろ鯉の胃袋の中だとはつゆも知る道理がありません。
さて、そのなめくじですが、こちらはこちらでかたつむりのことをじっと考えています。
「ああ、俺にもあのかたつむりの家があったらなあ・・・、まったくあいつの言った通りだった。今ごろは、あの家のおかげで岸に這い上がって、さぞや俺を笑っていることだろう。空と地の間の家などと大ボラを吹いてやったが、今となっては、あの家のありがたさがしみじみと解る。うすのろだなんていって本当に悪かった。今度生まれ変わって来るときは、ぶざまでもかしこい生き方をするあのかたつむりのような心掛けで生きたいものだ・・・。」
そう独り言を言いながら、なめくじは鯉の胃袋の中で深くまぶたを閉ざしました。
おわり
1976年12月20日 発表