吉野林業の行く末は    中井龍彦    

 

 私の祖父は山守(やまもり)であるとともに、筏師(いかだし)でもあった。筏流しは昭和三十年前後をさかいに急速にさびれ、トラックによる搬送が主役になり、現在に至っている。

 この筏流しや管流しの歴史は古く、たぶん古墳時代以前にまでさかのぼるものと推測される。と言うのは、朝鮮半島で発掘される歴代百済王の棺材に、日本でしか自生しないコウヤマキやクスノキが、はるばる海を渡り使用されているからだ。

 また法隆寺の樹齢二千年、直径2,5メートルというヒノキの大木も、「材質から見て吉野のヒノキではないか」と西岡棟梁が語っている。

 このような巨樹は、おそらく山中にて割られ、何年もかかって山を滑り降り、川から海へ、そしてまた海から陸へと運ばれたものあろう。

 奈良県の筏流しには、三つのルートがあり、ひとつは吉野・紀ノ川水系と十津川・熊野川水系。あとひとつは上北・下北山を舞台とした北山川から熊野川へと続くルートである。

 吉野林業は、この三つ川の歴史に支えられて発展してきたことは良く知られているが、それが古代の文化、大げさに言えば日本史の一翼を担ってきたことに改めて驚かされるのだ。

 ほんの五十年ほど前まで、どれほどの木材や木製品がこれらの川を筏と共に流れ下ったことであろう。秀吉の大阪城・伏見城の築城には吉野・紀ノ川水系である川上郷、小川郷、黒滝郷の吉野材が大量に使用されたようだ。また江戸城築城の際にも、紀州藩から三百五十本もの大径材が拠出されたとある。

これらの材は、熊野川水系を紀州木材市場へと流れ下った木材であったかもしれない。

 ところで吉野には「山守制度」というのが永く根付いてきた。

山守制度が何時ごろから始まったかはっきりしないが、 川上村の植林の歴史は四百五十年と言われ、黒滝村では四百年とされている。 山守制度はこの植林の歴史と共に始まったものと思われる。

山主と山守はお互いに信頼関係を築き 、より価値の高い山林を作ろうという面で目的を共有する立場にあった。山守は地域に住み、 常に山の状況を見て廻ることが出来たから、遠くに住む山主にとってはありがたい存在であったのだ。一方、山守にとっては仕事と収益、また社会的信用を与えてくれる 、いわゆるオーナー的な存在が山主であった。

この山守制度によって、今日の吉野林業が支えられて来たのであるが、しかしこの制度もおびただしい材価の下落につれ、しだいに破綻を来しつつある。

木材価格の下落は森林から生業(なりわい)を取り上げ、山主の立木収入もほとんど無きに等しいものにしてしまった。森林の荒廃はますます顕著になりつつある。山守制度が廃れると共に その制度のもとで働いて来た林業のプロたちも職を追われ、後継者、 継承者を生み出せなくなる。各森林組合のもとで作業班の若者たちが汗を流しているが 、彼らの立場も先の見えないものになりつつあるのが現状であろう。

根本的に林業のゆく末が危ぶまれている。今日の市場経済のもとでは、安い外材で家を建てればそれでいいことかも知れない。けれどもそれによって荒れて行く風土、森林、また地方の歴史や風景、といった有形無形の価値の存続すらも危ぶまれているのである。

『何とかしなければ』という私たちの声が、木霊のように反復され、様々な方面から、打ち戻って来ることを願ってやまない。


                             2006年8月