地域づくり団体ツチノコ共和国

ツチノコ共和国書籍で紹介されたツチノコ共和国

地域術(1992/6晶文社)パロディ国家

村はじまって以来の大騒ぎ
吉野熊野国立公園に含まれ、奈良県最南端の山深いところにある村が、吉野郡下北山村である。大阪に出るのに、バスで2時間半、さらに電車を乗り継いで、全行程約4時間、そのバスも一日三住復しかないという関西屈指の秘境だ。ここで1988年、全国のマスコミが押しかける、村の歴史始まって以来の騒ぎがあった。幻の生物といわれる「ツチノコ」を発見する探検隊を全国から募集。100人もの隊員が集まったのだ。野崎和生氏は、その仕掛人であった。

奈良県の南側は桜で有名な吉野で、その先は三重県か和歌山県と思われていますからね。もともと3000人くらいの人口があったんですが、辺鄙なところの例にもれず、過疎が進んで現在の人ロは1500人余り。奈良県の人口調査によると、65歳以上の老人が3〇%で約450人。平均年齢が49歳と、県内でもっとも高齢化が進んだ自治体になっています。若い人は、中学を出ると高校は寮か下宿暮らしになって、村を出て行く。毎年、こういう子どもたちが10人ほどいます。平均余命と若者の流出を考えると、20年後には650人がいなくなる。もう1000人を切ってしまいます。そうなると、村民を相手にしているお店などの仕事も続けることができなくなる。生産年齢の人口が少なく、しかも減り続けている過疎の典型なんです。とにかく過疎対策、村の活性化を図らないといけないのですが、村でもっとも条件がいいといわれる役場職員さえ応募者が少ない。それなら今のうちに村を出て行って、新しい仕事を見つけたほうがいいと勧めるべきじゃないか、と考えるほど過疎は深刻なんです。

野崎氏は、関西電力に勤め、大阪で十数年を過ごした。その間、故郷を持たない同僚にうらやましがられたこともあり、子どものためにも故郷を残したいと考えた。幸い会社の出張所が下北山村にあったこともあって、異動を願い出た。村に骨を埋める覚悟であったが、組織の中ではいつまでも村にある出張所に勤務できるとは限らない。それなら「村会議員になってやれ、議員になったら、少なくとも任期中は転勤させるわけにも行かなくなるだろう」と考え、なんのバックもないまま、村の活性化を訴えて、昭和62年の村議選に打って出た。そして、下位から3番目で無事当選。当初の目的を果たすことができた。もっとも、次の選挙では落選し、現在は議員の職にない。

選挙で村の活性化を訴えたものの、具体的にどうするかって難しいんですよね。村の産業といえば林業なんですけど、慢性的な不況で、林業に携わっている人でも、子供にはこんな仕事をするなと言うくらい。実際、林業に従事している人で20代は一人もいないし、30代で一人いるかな、それくらいのもんなんです。そんなことで、あれやこれや思い悩んでいるときに聞きつけたのが、ツチノコの噂でした。10年以上も前に、第一次のツチノコ・ブームがあったのを知っていて、この村にもツチノコを見たという人はけっこういる。村史にも記載がある。これを、なんとか生かせないかと考えたんです。でも、普段ならちょっとしたことでも、すぐに村中の話題になるところなのに、ツチノコの噂だけはなかなか伝わってこない。あとで知ったんですが、目撃した人はみんな怖がって、なかなか話したがらなかったんです。つい、このあいだもある食堂の奥さんが、十歳くらいの子どものころ、山菜を採りに吉野山に行ってツチノコを見たという話をしてくれたんですが、その体験は本当に怖くて、以来ツチノコを見た山には入らなくなったし、「見たことは親兄弟にも言わなかった、いま、初めて話すんや」というんですね。そういう情報不足のなかでも、何かやらにゃしょうがないやろうということで、同級生と協力して、62年秋の文化祭に、目撃談や資料をもとに模型などを作って展示したツチノコ・コーナーを設けました。あわせて、ツチノコ探検隊員募集、野生生物研究会会員募集のチラシを置いて、翌年の春にはツチノコ捜索をしようやないかと呼びかけたんです。

ツチノコとは、ヘビの一種といわれ、各地に目撃者は多いものの、未だに確認されていない生物である。身の丈は30センチから70センチ、胴体はへん平なビールビン大で、尾は細く短い、目つきがきつく気味が悪い、いびきをかく、コロコロ転がる、などの点が特徴と伝えられている。第一次のブームは、ツチノコの話を取り上げたマンガが少年誌に掲載されて始まった。むしろ、このときにツチノコの存在が全国に知れわたったと言っていい。最初は、ツチノコ探しは村の人間だけでやろうと思ってました。ところが、その話をNHKが聞きつけ、地域の話題としてテレビで流されたんです。それなら、もう一歩踏み込もうかといぅことで、「目撃証言を聞く会」を開きました。参加者は20人くらいだったものの、証言者が村で正直者で通っている人が多く、その人たちが目を輝かせて話してくれたもので、ツチノコの存在を確信。村の人間だけでなく、外部の人も入れたら面白くなるなと、構想をふくらませたんです。 だけど、お金がない。お金がなくてもできることをしようと、村内に向けて手配書を出しました。「このもの村内において昔より目撃者多数なるも、その実態不明。幻とされていたが、昨今、巷を騒がす不届き千万のやから、この際徹底的にすみかを改め生け捕りせんがため、広く世間に手配する…」という具合です。さらに、外に知らせるにはマスコミを利用するしかない。で、いやがる村の広報担当者をむりやり「ツチノコ係」にしました。そして、村長に「ツチノコが発見されたら村はいっべんに有名になる、発見者には賞金を出そう」と持ちかけたんです。そしたら村長は「わかった、1000万円だす」というんですよ。いや、そんなにいらない、1000万円も出したら、かえって嘘っばくなるから、100万でいい。こうして、賞金も確保できたし、あとは村外からわざわざ人に来てもらうんだから、ツチノコ探検だけでは能がない、ツチノコの専門家も呼んで、「ツチノコ・シンポジウム」を開き、夜に特産のマムシ酒と山菜なんかを出してもてなせば、仮にツチノコが発見できなくても文句は出ないだろうとプランを決めました。

賞金100万円のツチノコ探検隊の募集記事は、昭和63年元旦の新聞・奈良県版に載った。さっそく、3日の日に18歳の女の子から最初の申し込みがあり、一同は幸先の良さに喜んだが、あとが続かない。どうなるかと思っていたら、男性週刊誌が取り上げ、さらに全国紙が記事にしてくれた。そのため、50人くらいと予想していたのが、たちまち応募が殺到。朝から、どっと参加申し込みの電話が役場にかかってきた。「ここは新聞の配達が遅いんで、どんな記事が載ったのかわからず、何事かいなと思いました。電話は2,3日鳴りっばなし。僕もまったく仕事ができませんでしたよ」。結局、外部の申し込みは100人で打ち切るほどの大盛況。4月16、7日の開催日には、マスコ陣も28社80人が押し寄せ、文字通り村がはじまって以来の大騒ぎとなった。しかし残念ながらというか、やっぱりというか、ツチノコは発見されずじまいだった。発見できなくても、外部の人たちはけっこう満足してくれたようです。「こんな楽しいことは初め」といってくれた人もいて、嬉しかったですょ。その余韻で、5月中旬まで頭がボーっとしていました。だけど、何かやらなければ、これだけではまた下北山村は忘れ去られてしまう。秋にもう一度、ツチノコ探検隊をやったんですが、案の定、参加者は半減、マスコミも大きくは取り上げてくれません。当然ですょね。ツチノコはおろか、いつもいるアオダイショウやマムシさえ見つからないんですから。ただ、二回やってわかったことがあります。ツチノコを探そうとして、たくさんの人が山に入ったら、絶対にツチノコは出て釆ない。目撃者の話でも、山菜採りや山の手入れに行ったときに突然現れたといいます。人の気配を感じると、隠れてしまうらしい。僕自身、ツチノコの存在は信じてますが、見たわけではないですからね。それなら、ツチノコ探検にこだわるより、山の自然を楽しんでもらったほうがいい。ツチノコをダシにして、都会の人にここに来て良かったなと思ってもらえるようなことをした方がいいということです。で、思いついたのが「ツチノコ共和国」なんです。ツチノコをきっかけに村に釆てくれた人を「国民」にして、つながりを持てば、マスコミに頼らずに情報を発信できるし、情報を得ることもできる。また、そこからいろいろなことができる可能怯も生まれるのではないかと考えました。まず、探検に参加してくれた人に、「国民」になりませんかと呼びかけたら、すぐに何人かから反応がありました。

ツチノコ共和国の建国祭は、平成元年4月22日に村の体育館で開催された。役職は、ほとんどシャレで決められた。ツチ国王は、貫禄があることから、建設会社員の西岡忠男さん、ノコ王女は探検に参加してくれた女性、むろん、共和国に王がいることについては、ゴチャゴチャ言わない。爽里大臣は村議の下村菊男氏、大喰大臣は大食漢の玉中謙次収入役、自然エネルギー庁長官はガソリンスタソドの主人、奮歌庁長官はカラオケ大会の優勝者、運遊大臣は自動車整備工場の主人という具合である。野崎氏は、自民党の賢人会議をもじった愚人会議の議長に就任。「ツチノコ共和国の金丸信だと言っています」。村外の人は、千円を払って「国民」になるとパスポートが交付される。そして、さまざまなイベントに招待され、民家を改造した「宮殿」も利用できるなどの特典がある。対外的な窓口になる領事館も考えました。「国民」のなかから、いつも来てくれる五人を領事に任命したんです。領事になると、ヒノキの看板が与えられます。この看板は、ツチノコ共和国がなくなっても、まな板に使えますからと、軒先にかけてもらうように頼んでいます。領事が「国民」を50人集めたら、大使館になります。今では、領事館は20を越え、全国に広がつています。看板をかけてくれるだけで、宣伝になりますから、それでいいんです。すぐまな板にされたら、困りますけどね。ツチノコ共和国の目的は、こういうクチコミでもいいから、下北山村を知ってもらうこと、そして、少しでも多くの人に釆てもらうことです。そのため、イベントはいろいろ開催しています。平成元年には「螢の源平合戦と平家物語の集い」を行ないました。村に螢はいっぱいいるし、一の谷というところもある。平家の落人伝説もあるんです。で、平家琵琶の演奏もしてもらいました。冬には、「炭焼きとサンマの干物作りの集い」、また、青森の下北半島と下北山村を引っかけて、「螢と津軽三味線の集い」もやりました。今も、年に数回のイベントを続けています。でも、村からはとくに資金的な援助は受けていないんですよ。勤務時間内にツチノコ共和国の仕事を、職員がやるのを大目に見てもらっているくらいです。パスポートをつくるのにも、一枠1万円で広告を取ったり、「国民」にカンパをしてもらって続けています。共和国のシンボルに、可愛いツチノコのイラストがあるんですけど、プロのイラスーライターの「国民」が、無料で描いてくれたれたものなんです。これを、Tシャツにプリントしたら、奈良県でデザインがいいと表彰されたりもしました。こんな台所事情でも、県内では、村おこしの代表例みたいに言われていますから、一応、それらしいことはやって続けていかないと。確かに、パスポートや閣僚の人たちはパロディで、「国民」というのも遊び半分ですが、それでも村に関係ない人たちがいろいろ協力してくれる。これが嬉しいやないですか。 イベントも、しんどいことも多いけど、楽しいこともある。もちろん、外の人たちだけを楽しませるのでは、長続きしません。最終的な目的は、外部の人にも村のことを知ってもらって、村の人間や出身者が、村に誇りが持てるようになることなんです。いつか、村が.バランスのとれた人口構成になってほしいと思っています。過疎化は、まだ続くだろうし、その流れは止められません。でも僕は、いつかは都会がパンクして、過疎地に向かって人が移動すると考えています。そのときに、村に人がいない、文化も何もない、仕事もないというのでは、どうしようもありませんから。今後も、知恵を絞って、いろいろ活性化の役に立ちたいと思っています。

月刊SENBA(平成3/4潟qューマガジン)

大阪から、パスと電車を乗りついで約4時間。吉野熊野国立公園の中に、奈良県最南端の村、吉野郡下北山村がある。関西でも屈指の秘境で、数年前までここを訪れる人はほとんどいなかった。ところが、である。ここに”ツチノコ”が出るとマスコミに報じられてから一転。下北山ツチノコ共和国まで出現するに至って、一躍、無名の村は全国区の知名度を誇るまでになってしまったのだ。

このままでは村の危機!
ツチノコ共和国の存在を知ったのは、ごく最近。フリーライターの池本健治さんが30ウン歳にもなって、うれしそうにパスポートらしきものをみんなに見せ回っている。
パスポートはパスポートでも、日本国発行のものと似ているようで違う。聞けばなんと、ツチノコ共和国のパスポートで、この1月に国籍をたった1000円で取得したという。そして、そのツチノコ共和国を訪れて以来、彼はその国のよさをアピールして回る。夢は国民50人を集めたら大使になれ、大使館の看板をもらって家にはり出すことなのだそうだ。
下北山村はもともと3千人ぐらいの人口の村。ところがである。過疎が進み現在の人口は千5百人余り。村の産業といえば林業ぐらい。 このままでは村の危機と考えたのは下北山村村会議員の野崎和生さん(44)だ。
「昭和62年、村の活性化を訴えて村議選に出、当選しました。活性化を訴えたものの、具体的にはどうしていいのか頭を抱え込んでしまいました。そんな時、聞きつけたのがツチノコの噂でした。
ツチノコとはモノの本によれば、身の丈30センチから70センチ。胴体は扁平でビール瓶大、尾は細くて短い。ヘビの一種らしく、各地に目撃者は多いが、実物はまだ捕獲されていない。そして、この村でもツチノコを見たという人が結講いるし、村史にも記載がある。
「まずは62年の秋の文化祭で、目撃談や資料をもとにツチノココーナーを作りました。そして、ツチノコ探検隊募集のチラシを置いて村民にツチノコ探しをしようと訴えたのです」
その話をNHKが聞きつけ、地域の話題としで紹介。これで、ツチノコ探しに拍車がかかり、ついに賞金100万円つきのツチノコ探検隊募集にまで発展していく。 昭和63年の元旦にはこの話が新聞に載り、週間誌などにも取り上げられたことから、4月に開催された「第1回ツチノコ探検」は外部の参加申し込みを100人で締め切るほどの大盛況。そして押しよせたマスコ陣はなんと28社80人にも。村はじまって以来の大騒ぎとなってしまったのである。
残念だったのは、この騒ぎでツチノコが出づらくなったこと。 只いま領事館は全国に20。「ツチノコ探検もいいが、ツチノコをもとに大自然に触れられる下北山村のよさを都会人にアピールし、多くの人が遊びに来れる村づくりをしたらどうかと考えるまでになりました」と野埼さん。
発展ていく。平成元年4月、村の体育館でついに建国祭が開かれるまでに。
ツチ国王は見るからに貫禄がある森林組合職員の西岡忠男さん、ノコ王女はツチノコ探検に参加していた女性。爽里(そうり)大臣は村会議員の下村菊男氏、大喰(おおくら)大臣は大食漢の玉中謙次収入役、自然(しげん)エネルギー庁長官はガソリンスタンドの主人、運遊大臣は自動車整備工場の主人。奮歌(ぶんか)庁長官にはカラオケ大会の優勝者など人事面もユニーク。そして同国提案者の野崎議員は共和国愚人会議議長に。
そして、ただ今、パスポートをもっている国民は1000人弱。千円払って国民になるとパスポートがもらえた上、実に多くの特典がある。4月の建国記念日や6月のほたる鑑賞のタベ、2月のシシ肉のすき焼である”突進鍋”などの催しに参加できるほか、民家を改造した”宮殿”の利用、村内の喫茶店でコーヒーの割引きなどいろいろ。
行くには時間がかかるが、それを差し引いても、魅力あふれる村ですよ」と池本さん。この夏は再びツチノコ共和国に行く計画とか。ツチノコ”宮殿”が実に安く使えるからだという。聞けば、1軒を1日借りても7千円。何人泊まろうといいらしい。フトンは実費で1組500円。
ところで、今、ツチノコ共和国の領事館は全国に20。「大使館がまだないんですが、野崎さんがいうには、国民を50人集めたら大使になれるらしい。で、大使館の看板がもらえる。がんばってみても面白いナ…」と国民、池本さんの弁。
幻の生物”ツチノコ”からスタートした村おこし。ついには共和国もできて、下北山村の夢は大きく広がっていく。
あなたも、そんな村”国の”国民”になりませんか!

(八木純子) まちづくり紀行 (平成3/10鰍ャょうせい)

王宮の譜

亀地 宏

パトカーにいのししがぶつかった
いつかは村に戻りたかった。自分の生まれた村に帰って、そこで生活がしたかった。学校を出てから関西電力に入社、大阪市内で勤務、奈良市に近い田原本町に住みながら、野崎和生さんはそのことが、いつも、頭から離れなかった。そして、昭和54年、32歳のときに、そういう願いがようやくかなって、村内の池原出張所長として、野崎さんは故郷に帰った。だが、帰った村はあまりにもさみしかった。昭和35年には4千人を超えていた人口も50年には2,051人と、半分くらいに減り、さらに、いまでこそ「奈良の南の玄関口」と言うものの、三重県と和歌山県の飛地・北山村に隣接、かつては紀伊国牟婁郡に属し、新宮代官所の支配を受けた歴史を持つだけに、県内では最も奥地、訪れる人も少なかった。

「私がショックを受けたのは長女が小学校に入学するときでした。娘の同級生が男女二人ずつしかいなかったんです。当時、村には3つの小学校がありましたが、児童は3校合わせて数十人。しかも、3年後に次女が入学するときは、各学校に女の子が一人ずつになりました。このままではどうなるのかな、と思ったのが、私が村の再生に目を向けるきっかけになったんです」。野崎さんは村の社会体育指導委員や若者定住圏構想推進委員を引き受けながら、村とのかかわり合いを持ち始めたが、なかなか展望は開けなかった。人口もますます減って、昭和60年には1,589人になった。

吉野警察署のパトカーに野生のいのししが衝突し、ボディをへこませたということがニュースになったりするほどで、活気とかにぎわいなどとは、およそ、縁遠い状能だった。「60年に自宅を新築したんですが、棟上げ式のとき、この村に未来はあるのだろうか、このまま家を建て続けていいのだろうかと、本気で考えたのを覚えています」。 62年になって野崎さんは村議選に出馬した。村に対する深刻な危機感からと、それに、村議になれば転勤しなくていい、つまり、いつまでも村にとどまれると考えたからだった。関西電力は在職のまま立候補するのを認めていたし、むしろ、社員がそういう形で地域社会に溶け込むことを推奨するようなところもあった。だが、村の選挙は容易でなかった。定数十人で立候補者は11人。しかし、主義主張は二の次で、地縁血縁がモノを言った。同級生でも選挙になると別だった。票はほとんど読めたから、表立った運動はだれもあまりしなかった。「11人の候補者のうち、選挙カーを走らせたのは私のほかにもう一人。期間中、自宅の事務所にきてくれたのは親せきを除くと3人でした」。そういうなかで野崎さんはがんばった。「街頭演説ももちろんしました。それも最初は人の少ない集落で、こだまが帰ってくるのにむなしさを感しながらも大声を張り上げ、だんだん自信がついてくると、人の集まるところに出ました」。演説では「放っておけば村から人がいなくなる。なんとかしなければ」。そのように必死になって訴えた。そして野崎さんは91票を獲得し、8位で村議に当選した。

村史にみつけたツチノコの記述

村議に当選してからも、野崎さんは手がかりを探し続けた。たとえ住む人は少なくなっても、よそから人が訪ねてくれば、村はそれでにぎわうし、活気も生まれてくると思う。だが、人びとは簡単にはきてくれない。自然に恵まれているとは言っても、それは山村ならみな同じ。切り札にはなりにくい。この村にしかない、それならみんなが行ってみたい、出かけてみたいと思うような、なにかネタがないものだろうか。寝てもさめてもそのことが、頭のなかから離れなかった。野崎さんが地元紙の吉野熊野新聞でツチノコの記事に目をとめたのはそのようなときだった。62年10月9日付の紙面で、村内に住む西岡留雄さんが自宅裏の畑でツチノコを見たという記事を読んだとき、野崎さんはすぐガソリンスタンドを営む友人の橋本道明さんに、「いるかいないかたしかめないか」と相談した。ただ、探すにしても、ツチノコがいったいどのようなものかを知らなくてはならないし、また、探すときには村民といっしょの方がいい。そう考えて、二人は11月初旬に開く村の文化祭にツチノココーナーを出展し、村民に呼びかけることにして、まず、そのための資料集めと、そのほかの目撃者探しから手をつけることにした。調べてみると、いろいろなことがわかった。特に48年に発刊した村史にも11行にわたってツチノコの記述があった。「白蛇と同様にむしろ怪異に属するかもしれないが、見たという人が何人もいる。太さのわりにうんと短いのが特徴で、上からマクレて(転がり落ちて)来るという」といったような具合だった。目撃者も6人見つかった。古い人は39年、ごく最近は62年に見たという中正夫さん。中さんは日本でもただ一つといわれるこの村の村営ゴルフ場の近くで、三角形の頭をした太いヘビと出会い、あとでそれがツチノコではないかと気付き、絵に措いて役場に持ち込んでいたことも、二人の調査のなかでわかった。

野崎さんは集めた資料とツチノコの模型を文化祭に出展することにして、模型づくりを手先の器用な仲間に頼んだ。ところが頭が三角、胴体はビールびんぐらいの大きさ、ねずみのような尾と言ったまではよかったが、「扁平な胴体」とつけ加えるのを忘れたため、でき上がった模型はネッシーみたいな形になった。「しまった」と思ったが、文化祭まで時間もないので、そのまま出した。案の定、村民の評判はよくなかった。模型はあとでつくり直した。文化祭では会場でツチノコ探検隊員と野生生物研究会の会員を募集した。しかし、村民の反応は皆無に近い状態で、探検隊員はたった二人、野生生物研究会の応募者はゼロだった。野崎さんはやはり文化祭の期間中に、ツチノコの目撃者から「証言を聞く会」を開き、集まった20人を口説いて、研究会のメンバーになってもらい、自分が面倒を見るからと言って、ツチノコが冬眠から目覚める翌年春に、研究会で探検をすることにした。

捕らえたら賞金は100万円

野崎さんは村長のところへ行って、「ツチノコを捕らえたら、村で賞金を出してほしい」と頼んだ。すると村長もおもしろがって、「1000万円でも出してあげる」という返事。しかし、それでは少し仰々しいので、100万円ということで了解をとりつけた。ただ、村長は出してくれるとは言ったものの、予算に計上したわけではなく、議会にはかったわけでもない。あくまで野崎さんとの口約束。でも、野崎さんはみんなに話してしまったし、マスコミもとり上げて、テレビの画面や新聞にも出たので、本当につかまった場合には、村長は「知らない」とはもう言えない。野崎さんはツチノコ探検に向けて準備を重ねた。手配書もこしらえた。手配書ではツチノコの特徴として次の十ヶ条を書いた。 一、いびきをかく 二、薄気味悪い自つさ 三、垂直に立つ 四、コロコロ転がる 五、ジャンプする 六、うろこ状の模様がある 七、のびちぢみする 八、背の色は黒からこげ茶色 九、春から秋に出没する 十、毒があるとうわさされている。 そして、生け獲り100万円、死体30万円、写真は10万円の賞金を、最初の持参者にかぎって出すとし、野生生物研究会と下北山村役場ツチノコ係を連絡先にした。

「ツチノコ係は役場の広報担当の職員を、私が勝手に任命したんです。ツチノコ係になってくれ、頼むよ、と言って、マスコミに発表したんです。村長もあとになって知ったはずです」と野崎さんは笑って言った。また、百万円の賞金は村長との口約束だが、ツチノコ探検と、それに合わせて開くつもりのツチノコシンポジウムにも応援をしてもらおうと、63年度の予算のなかに50万円を計上してほしいといったところ、担当課長も興味を示し、要求に入れてくれたが、しかし、査定の段階で、「幻を追うようなものに公金は使えない」ということになって削除、ただ、野生生物研究会に対する活動補助金として20万円を認めてくれた。しかし、それでも議会で、ほかの議員の追及するところとなった。「いるはずのないものに賞金をかけて、そのうえ、役場のなかにツチノコ係をおくとはどういうことか」。でも、村長はそれを上手にかわしてくれた。「いるはずのないもの」については、「いるかいないかはつかまえてみないとわからない」、ツチノコ係は「職員がたとえば民謡保存会のお世話をするのと同じように、担当外の仕事をこなしていると思えばいい」といった具合の答弁だった。

探検隊は総勢230人

ツチノコ探検の集いとツチノコシンポジウムは63年4月16、17日に開催することになった。初日の16日は前夜祭を兼ねたツチノコシンポジウムで、目撃者の話をインタビューの形で聞いたあと、タラノメ、サワガニ、ブラックバスなどを肴にマムシ酒やマタタビ酒を味わい、翌17日に目撃地点周辺の雑木林のなかを探検、参加者は一泊三食、かまれたときの傷害保険、木彫りのツチノコのおみやげ付きで一万円とし、50人を募集することにした。50人に限ったのは、そのおみやげのツチノコを、当日までに制作でさるのが50個くらいとみたからだった。ところが、思いがけないことが起きた。県内では大手の旅行会社がツアーの形で50人参加したいと申し込んできたのである。野崎さんもそれにはちょつと考え込んだ。「私たちが参加者を50人と決めたのは、一つはおみやげの、、ミニチュアツチノコの制作能力からでしたが、それと同時に、たとえツチノコはみつからなくても、みなさんにきてよかった、楽しかった、またきたいと思ってもらえるようなもてなしをするには、それくらいが限度ではないかと考えたからなんです。ですから実行委員一人ひとりの役割を相談し、だれだれはサワガニを何匹、ブラックバスは、タラノメはと決めて準備にかかったんです。そこへ新たに50人ふえるとなると、これは大変なことなんです。サワガニは冷たい谷川のなかにはいって、石を起こしてとらなければならないし、ブラックバスは釣らなければならなかった。しかし、せっかくきたいと言っているのを断るのもどうかということになって、受け入れる準備をしていたところ、また、その旅行会社から連絡がはいった。「募集をしてみたけれど、最小催行人員に満たないのでキャンセルします」。野崎さんは二度びっくりした。「みんなの努力は、余ったミニチュアのツチノコはいったいどうしてくれるんだ」。言いようもなく腹が立った。だが、新聞、テレビが報道してくれたことで、一般の参知者の数がふえ、結局、最後は100人になった。

探検当日の63年4月17日、蛇伝説を持つ明神池をご神体とする池神社の前に、100人の村外からの参加者と、役場職員、地元住民が50人,それに報道関係者80人の合わせて230人が集合した。それぞれ長靴、地下足袋、ゲートル巻きのスタイルで、手には捕虫網やこん棒を持っての参加。まず、探検の安全とツチノコ捕獲を神社に祈願、次いで探検隊長の橋本さんが「穴をみつけてもすぐ手を入れないように」、「見つけたときは班長に連絡すること」などとマイクで注意、賞金の100万円は探検隊本部に用意していることを伝え、五班に分かれて出発した。探検はおよそ4時間。しかし、この日見つかったのはトカゲとヤマカガシ(ヘビ)一匹ずつだけで、ツチノコを見つけることはできずに終わった。でも、参加者たちはそれぞれに「楽しかった」、「おもしろかった」と言って帰った。野崎さんはハードルを一つ越えた思いにひたった。

来村者を講師に学ぶ

さて、野崎さんたちのツチノコ探検もその後、63年9月23、24日に「パート2」、平成元年4月22、23日には「バート3」を実施、同時にこのとき「ツチノコ共和国」の建国を宣言した。共和国の国民には一人年間千円の税金(会費)を払えばだれでもなれることにしてパスポートを発行した。一年ほどの問に700人以上が国民となった。共和国をこしらえたのは、一人でも多くの人たちに村を訪れてもらうのがねらいだったから、国民を対象に共和国へのツァーも組んだ。最初が建国の年の6月、「ツチノコ共和国夏の旅 蛍の源平合戦と平家物語の集い」で、村には平家の落ち武者伝説が残ることから、昼平家琵琶を聞き、夜はゲンジ・ヘイケボタルの観賞会にみんなを誘った。さらに平成2年2月10、11日は「ツチノコ共和国冬の旅 サンマの干物づくりと突進鍋の集い」、4月21、22日には、「ツチノコ共和国春の旅 建国祭とツチノコ探検パート4」というように、とにかく国民にきてもらう機会をつくった。

野崎さんはきてくれた国民にはでさるだけ村内のようすを見てもらった。「村の割箸工場にも案内をするんです。いま、都会では割箸を資源の無駄使いのように言うでしょう。でも、私の村では製材所で出た吉野杉のくずを使って、割箸をつくっているんです。そういうところも見てほしい、モノゴトを一面だけから見ないでほしい。そう考えて案内をするんです」。 また、建国と同時に王宮もこしらえた。といっても、村で林業を営む山口高久さんが隠居所として使っていた家を提供してもらったものである。3部屋と台所、それに木製の風呂を備える。国民ならだれでも一晩7000円とそのほかに貸しふとんの代金で何人泊ってもかまわない。だれかが泊まっているとさは、ツチノコ共和国の国旗を揚げることにした。 その王宮で野崎さんは「ツチノコ大学」を開講した。「泊っていただくお客さんに講師をお願いするんです。それを受けていただければ、私たちが王宮へお邪魔をし、話をうかがい、そのあと、交流をするんです。ええ、そう考えて接してみると、本当にいろいろな人間がいるものです。もう、何人もの人たちに講師になってもらっていますが、それは私たちには大変な刺激です」。

村民の一割以上がゴルファー

村のなかのよどんだ空気が、こうして少しずつ動き始めた。一つの活動が別の活動に結びついて、新しいプロジェクトを生み出すことも多くなった。平成2年6月の「桜鼓会」の和太鼓と東京の津軽三味線の演者との共演もそういうなかの一つだった。「桜鼓会」はツチノコ探検隊長の橋本さんが村の教育委員会といっしょに63年につくった若者たちの太鼓のグループ。はじめは音がうるさいということで、体育館の戸や窓を閉め切って練習をしていたが、最近はまわりの人たちも、だんだんと理解を示すようになった。 一方、野崎さんは平成2年の「ツチノコ共和国 夏の旅」として、「蛍の涙平合戦と下北で津軽三味線の集い」を企画、東京から津軽三味線の奏者、岡田修さんを招いた。津軽三味線の生まれた青森県下北半島と村名の下北山村にちなんだもので、橋本さんは、その岡田さんに「桜鼓会」の和鼓会とのドッキングを持ちかけ、岡田さんがそれに応えて共演が実現した。

ところで、下北山村は村営のゴルフ場を持つ。全部で9ホール、パー30。1783ヤードのミニコースだが、村民のゴルフクラブもできていて、ゴルフをたしなむ村民も少なくない。クラブは「北山ゴルフクラブ」で、ふつうは「KGC」という。村民であることが入会の条件で、それに年会費12,000円、プレーをするごとに200円を払えばいい。メンバーは130人、奥村さんもメンバーで、ハンディは11、野崎さんはゴルフをしない。クラブはそれに高齢者向けのTGC(大正ゴルフクラブ)が20人、女性のためのLGC(レディスゴルフクラブ)が15人。結局、村の総人口の一割以上がメンバーということになるのである。 ゴルフ場は村外の人も利用でき、利用料は平日3050円、日曜・祭日が3550円。いまのところ、一年間に延べ5000人くらいが利用をしているという。今後、ツチノコ共和国や山の音楽祭がより深く、広く根をおろし、下北山村のファンがふえれば、このゴルフ場もまた、みんなの活動の格好の拠点となるにちがいない。(中略)

でも、野崎さんも奥村さんもまだ、村の将来に対する危機感をぬぐい去ったわけではない。むしろ、なお厳しい状況だと思う。事実、林業はたずさわる人がいなくなり、これまで村の経済を支えてきた公共事業でさえ、村内ではこなし切れなくなった。 野崎さんによると、いま、30代から40代で林業にたずさわっているのは4人、また、7億円にのぼる公共工事予算のうち、地元金融機関に残るのは二割くらいなものだという。「あとははとんど熊野市などの建設会社(村内業者の下請け)がもっていってしまいます。村内で、と思っても引き受けるところがないんです」。現在、村内の土木工事の指名企業は30数社、ところが、その関連従業員は50人ほどにすぎない。それでは公共事業も経済力の浮揚にはつながらない。役場の体質も、最近はかなり変わったとはいうものの、まだ古い。第一、役場の職員になりたいという人がいない。若干名といって募集をしても二人くらいしか応募をしない。やはり、役場にはいっても、なにか目立つことをしようとすると、すぐつぷされるのがわかっているから、どうしても村外へ出たがるらしい。議会も同じ。野崎さんは議員になって、議案書が議席についてからはじめて配られるのを知ってびっくりした。それでは議案を検討する時間がない。しかも会期は予算、決算のときだけは一週間だが、あとは一日。だが、だれもそれに異を唱えない。