奈良歴史漫歩 No.010  行基も造営を担った恭仁京   橋川紀夫   

                      

     波乱の幕開けとなった行幸

 聖武天皇が3年間、都をおいた恭仁京の発掘調査は、京都府教育委員会によって昭和48年(1973年)から行われている。平成13年度の発掘調査現地説明会が、11月24日開かれた。最新の発掘成果も加えて、これまでに分かっている恭仁京のアウトラインを描いてみよう。

 恭仁宮の所在する京都府相楽郡加茂町の木津川北岸の地は、背後の小高い山を北にして東西も山で囲まれながら、南側は木津川の流れをはさんで小盆地が広がる。彼方には笠置の山々が畳畳と連なる。日当たりよく、水はけもよさそうで、眺望もきく。風水が理想とするのが、なるほどこのような場所かと思う。

 まず、恭仁京への遷都のあった天平12年(740年)の動きを見ておこう。
 九州で勃発した藤原広嗣の反乱もまだ完全に鎮圧されていない10月の末に、聖武天皇は伊勢へ行幸する。河口頓宮に滞在した天皇は、神宮に使者を派遣して奉幣する。この間、広嗣の捕獲、斬殺の報告を受けた。しかし、京へは戻らず、伊勢平野を北上、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)が行軍したルートをたどり、不破頓宮に着く。
 不破頓宮から近江に入った12月6日、行幸に従う右大臣、橘諸兄が一行に別れて恭仁へ向かう。この時点で初めて恭仁遷都の決定が記録に現れることになる。天皇が恭仁へ入ったのは15日。明けて天平13年1月1日、聖武は恭仁宮で元旦朝賀の儀を受けるが、宮の垣もなく幕をめぐらしたとある。

 恭仁の地は聖武にも見知った土地であったようだ。恭仁宮に隣接して甕原(みかのはら)離宮があり、聖武はここに何度も行幸している。また、山背(やましろ)相楽郡は橘諸兄の本拠地であり、天平12年2月には諸兄の別荘に行幸している。恭仁遷都の舞台裏を整えたのは、したがって橘諸兄であると思われる。

     平城宮より移築した大極殿

 廃絶された恭仁宮は山城国分寺に作り替えられた。現在、塔跡や金堂跡の基壇と礎石が残って史跡となっているが、金堂跡の基壇(東西約60m、南北約30m)からは、東西9間、南北4間の建物の跡が確認されて、「続日本紀」にあるとおり平城宮の第一次大極殿の移築が裏付けられた。余談だが、平城宮跡で、この第一次大極殿の復元建築工事が、「平城京遷都1300年」にあたる2010年の完成をめざして開始された。

 大極殿跡の南側にある朝堂院地区の範囲も確認されている。掘立柱塀の跡が東西および南の各辺に出土して、東西幅は約125mである。しかし南端部が東側に約9m張り出して、方形の区画としてはいびつである。
 朝堂院南門と朝集殿院南門に相当する掘立柱の門の一部が検出されているが、朝堂院内の建物はまだ確認されていない。


恭仁大橋から見下ろした木津川、上流の笠置方面を望む


調査地発掘遺構平面図、内裏東地区南辺築地の基壇

     2カ所にあった内裏(?)

 大極殿の北側に内裏と見られる建物と区画も検出されている。東西2つの区画があって、「内裏西地区」と「内裏東地区」と仮に名付けられる。
 「内裏西地区」は掘立柱塀で囲まれて、東西98m、南北128mを測る。区画内には掘立柱の建物が数棟確認されているが、全体の配置構成は不明である。     

 今年、発掘調査の行われたのが、「内裏東地区」である。その範囲と区画施設の構造を調べるために2カ所選んで調査された。
 その結果、南辺と西辺の築地塀の基壇が検出された。特に南辺の基壇は良好な状態で残り、その幅は約5mだった。さらに基壇の下部に地盤をかためるための掘り込み地業の痕跡があった。幅約3.5mの範囲を20cm程の深さで掘りくぼめ、土を入れて固く締める。基壇の南側には溝があった。

 「内裏東地区」の東西は約110m、南北は138mあり、「内裏西地区」よりも一回り大きい。
 「内裏西地区」は区画塀が四辺とも掘立柱塀なのに対して、「内裏東地区」は南と東西が築地塀、北辺が掘立柱塀という造りであり、大きな外観の相違がある。
 「内裏東地区」の区画中心部には、四面庇付の掘立柱の建物が2棟、南北に並んでいた。いずれも東西7間、南北4間ある。



手前の白線内が掘込み地業、奥の白線内が築地基壇跡を示す。上が東

     平城宮よりかなり狭かった恭仁宮

 宮域を囲む大垣は築地塀で、規底幅は2.1m、基壇幅は約4.5mある。宮域は東西約560m、南北750mであることが平成8年までに判明している。平城宮の1km四方に比べるとかなり狭い。南端東側が張り出しているのは、朝堂院地区とよく似ている。
 大垣に開く門は、東面の南に1つ確認される。南北3間、東西2間の礎石づくりの八脚門である。
 宮域からは建物跡がいくつか出土しているが、具体的な官庁の配置はまだ分かっていない。

 「続日本紀」に「賀世(かせ)山の西の道の東を左京、西を右京とした」とあるが、これをヒントに歴史地理学の故足利健亮京都大学教授は、9条8坊の平城京並の都城プランを推定した。「足利説」としていろんなところで紹介参考にされることも多いが、宮域が平城京の3分の1以下の面積であることから、改めて京域の規模・範囲が検討課題にのぼっている。しかし、京域の条坊遺構の存在は考古学的にまだ確認できるところまでにも至らず、恭仁京の復元については手づかずの状態ということだ。

 恭仁宮のスペースでは、平城宮にあった官庁はすべて移すことは出来ない。恭仁への移住を強制されたのは「続日本紀」に記されたように5位以上の貴族であり、政府の現業部門は平城宮に残っていたのではないかと、奈良文化財研究所の渡辺晃宏氏は推測する。恭仁と平城は一体として機能していたという。

 そう言えば、恭仁の正式な宮号が「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」名づけられたことも何か意味がありそうだ。これより前に「大倭国」は「大養徳国」と改名されていた。「大養徳国」にある平城宮と山背(やましろ)にあるはずの恭仁宮が、いつの間にか同一の国に所在することになったのである。



恭仁宮跡の範囲


 恭仁宮はその狭さのみならず、出土した建物の類からも急場こしらえの印象がある。朝堂院地区や内裏地区を囲む塀が掘立柱塀であること。宮域と朝堂院地区の区画がキレイな方形をなさず一部歪んでいることなどである。また朝堂院地区と内裏地区の南北の塀柵列の方位もそろっていない。

 「続日本紀」天平14年(742年)8月5日の記事に、1人の造営役人が大垣を築いた功績により、正8位下から従4位下に14階級特進した上、姓や多大な褒美を賜ったという。足利氏は、これは私財を投じて行った功績の報奨であると推測する。国家が財政窮乏だったのか、それとも予算を割く気がなかったのか。おそらく後者だろう。政権中枢は造営に乗り気でなかったのだろうか。
 この記事のすぐ後に、紫香楽宮の造離宮司を任命したことが続く。紫香楽宮への第1回の行幸もこの月であった。

     行基の舞台表への登場

 恭仁京で注目されるのは、行基が造営に積極的な役割を果たしていることだ。
 天平13年7月から宮正面の木津川に架橋工事が始まり10月に完成した。これには、機内と諸国の在家の仏教徒である優婆塞(うばそく)が工事に従い、この功績で705人が得度している。優婆塞は行基の率いる集団と見られる。
 行基の集団は各地で私的な土木工事や布教活動を行ってきたが、律令政府は彼らを危険視して弾圧してきた。しかしここに来て劇的な変化が起きる。以降の大仏建立での行基の活躍と厚い待遇はよく知られているとおりである。

 天平12年10月の伊勢行幸に始まり、天平17年5月の平城京還都で終わる5年間の聖武と政府のめまぐるしい動きは、今となればまことに不可解で迷走にも映る。小春日和の恭仁宮跡は懐かしくのどかな里である。この穏やかな風景の裏に歴史の激動の記憶を探ることはスリリングで楽しい。 



恭仁京周辺マップ

●参考 「続日本紀」岩波書店 「平成13年度恭仁宮跡発掘調査現地説明会資料」京都府教育委員会 「紫香楽宮シンポジウム'01/11/25配付資料」信楽町教育委員会 渡辺晃宏著「平城京と木簡の世紀」講談社 足利健亮著「考証・日本古代の空間」大明堂

恭仁宮跡・恭仁小学校木造校舎パノラマ
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