奈良歴史漫歩 No.011   吉備池廃寺は百済大寺か?    橋川紀夫   


       
巨大な堂塔跡が出現

 奈良県桜井市吉備の吉備池堤防で7世紀半ばの巨大な寺院金堂跡と見られる基壇が出土したのは、今から5年前の1997年の冬であった。東西約37m、南北約27mの広がりがあり、地盤改良のための掘り込み地業を約1mの深さで行った上に、厚さ約5cmの土を何枚も重ねてつき固める版築を施す。高さは約2mに復元できた。
 吉備池廃寺と称されるこの遺跡が、舒明天皇11年(639年)に造営が始まった百済大寺ではないかと言われて、俄然注目を集めることになったのである。

 この後も、奈良文化財研究所と桜井市教育委員会によって発掘調査は続けられ、昨年度で調査は一応終えた。これまでに、塔基壇、回廊、中門、僧房と見られる遺跡が見つかっている。
 塔基壇は、金堂基壇の西に位置して一辺約30m の正方形をなし、高さは約2.8mで版築が見られた。基壇中央には東西6mの心礎抜き取り穴が残る。

 回廊は西面、南面、東面部分の跡が見つかり、基壇幅は約5.6mあった。内、外の両側に雨落ち溝が走る。
 金堂と塔が東西に並ぶため法隆寺式の伽藍配置と最初考えられて中門も調査されたが、金堂と塔の中軸線上の想定の位置には見つからなかった。金堂の南側の回廊両側に張り出しが残っていて、これが中門跡と推定される。東西約12m、南北約9.8mで、桁行3間、梁行2間に復元される。

 金堂の北側に掘立柱建物跡が2棟、南北に隣接して見つかっている。そのうち南側の1棟は東西11間(28m)、南北2間(5.4m)の規模になる。建物の形状や位置から僧房ではないかと見られる。
 講堂跡は見つかっていない。或いは、吉備池をつくるにあたって講堂の跡も掘削された可能性がある。
 出土物では7世紀半ばの土器があり、水瓶風の細首壺は寺院で使用されたと思われる。瓦も多量に出土して、木之本廃寺出土品と型が同一(同笵)の単弁蓮華文軒丸瓦も含まれる。

 吉備池廃寺の特長は、同時代の他の寺院に比較して基壇が突出して大きいことである。
 金堂基壇は面積が山田寺の3倍以上、元薬師寺の2倍となる。塔基壇は山田寺や元薬師寺の4倍以上の面積である。金堂、塔を囲む回廊の規模も他を圧倒している。
 解釈困難な事実も明らかになった。中門は金堂南側に見つかったが、金堂中軸線上に中門はなく、西側に少しずれる。そして基壇の大きさに比べてスケールが著しく小さい。同時代の寺と比べても小規模の部類に属する。伽藍全体の中に置いた中門のアンバランスな存在をどう解釈するか、難しいところである。

吉備池廃寺の堂塔復元図
2001年3月20日説明会資料に加筆

     史上初の勅願寺 百済大寺

 吉備池廃寺が百済大寺である可能性が高いとされる理由について触れる前に、百済大寺の歴史を見ておきたい。
 百済大寺は最初の勅願寺である。舒明紀11年7月条に次のように記される。
 「秋7月に詔して曰わく、『今年、大宮及び大寺を造作らしむ』とのたまふ。すなわち百済川のほとりをもって宮処とす。ここをもって、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。すでに書直県(ふみのあたひあがた)をもって大匠とす。」
 同年12月には「百済川のほとりに、九重の塔を建つ。」とある。
 舒明天皇は2年後に亡くなったが、あとを継いだ皇后の皇極天皇が寺の造営を続けて、皇極紀元年(742年)9月に、百済大寺を建てるために近江と越の人夫を動員したことが見える。

 天武紀2年(763年)には、美濃王と紀臣訶多麻呂を造高市大寺司に任命した記事が見えるが、これは百済大寺が移建されて高市大寺になったことを意味する。
 高市大寺はまもなく大官大寺に改称された。天武天皇の病気平癒を祈願して、しきりにこの寺で行事が行われたことが「書紀」には見える。

 文武天皇の時代になると、大官大寺の造営記事が「続日本紀」に頻出する。藤原京の時代に斎会がよく営まれた官営の4大寺の筆頭が大官大寺であった。ちなみにあとに薬師寺、元興寺(飛鳥寺)、弘福寺(川原寺)と続く。
 平城京に遷都すると共に大官大寺も移転して大安寺となる。
 これらをまとめると、百済大寺→高市大寺→大官大寺→大安寺と系譜がたどれ、舒明以後の歴代の天皇によって発願建立されてきた国家第一の寺であったことが分かる。すべて大寺という名前がついているのも特別扱いされていた証だろう。

吉備池廃寺の中門跡発掘現場 奥の土壇が金堂跡
2001年3月20日説明会にて

     百済大寺所在地をめぐる論争

 当然、この最初の勅願寺の実態について大きな関心が寄せられてきたが、百済大寺の所在地については古くから奈良県北葛城郡広陵町の百済寺のある地だと考えられてきた。百済大寺の創建を伝える「大安寺縁起并流記資材帳」に「百済川のほとりの子部社を切り開き百済大寺を造営した」と記されるため、式内大社の子部社が近くにあるこの場所に白羽の矢が立ったと思われる。しかし、同じく「縁起」には百済大寺が十市郡に所在するとあるのに対し、広陵町の百済寺のある地は一貫して広瀬郡であるという矛盾がある。
 さらに近年、百済寺のある付辺からは飛鳥時代の遺跡や瓦が見つからないという指摘があり、百済寺=百済大寺の所在地説は疑問とされてきた。

 代わって注目されるようになったのが、香具山西北に位置する橿原市木之本町の木之本廃寺である。これは、付近から百済大寺造営の時期にあたる瓦(単弁蓮華文軒丸瓦と型押し忍冬文軒平瓦)が出土することにより、廃寺の存在が想定されるようになったことによる。しかし、寺の遺構は見つかっておらず、仮説を越えるものではなかった。

 吉備池廃寺の発見は、百済大寺の所在地をめぐって論争中の学界に大きな反響を呼んだ。
 造営時期は百済大寺の時期と一致する。同時代の他の寺院を圧倒する基壇の規模は、国家が総力をあげて取り組む勅願寺にふさわしく、実際に『書紀』には「九重の塔を建つ」とある記述からもその規模の大きさが想像できる。礎石は発見されておらず、出土物が少ないのは、高市大寺へ移建される際に転用されたと考えられないこともない。
 強いて難点をあげれば、『縁起』に出てくる「子部社」の存在や「百済川のほとり」とされる川を近在に求められないことである。しかし、付近に「コヲベ」「高部」という小字名が残り、また遺跡のすぐ南に旧河川の跡が見つかっており、これをもって「子部社」や「百済川」の存在を推定する論もある。

   大官大寺の発掘

 ところで、香具山南方の田んぼの中で巨大な寺院跡が発掘されたが、これは文武朝に造営された大官大寺であることが分かっている。伽藍配置は、中軸線上に南から中門、金堂、講堂と並び、金堂の東南方向に塔が建つ。これらの堂塔を回廊が囲み、その範囲は東西144m、南北197mにおよぶ。
 金堂基壇は東西53m、南北28.5m、高さ1.7mの規模があり、そこに建つ金堂は東西45.2m(桁行9間)、南北20.7m(梁行4間)もある。藤原宮大極殿に匹敵する大型建物である。
 塔基壇は一辺35mの正方形状である。塔の初重は方5間で一辺15mにもなり、これは高さ100mと言われる東大寺七重塔のスケ−ルに近く、九重塔と言われる大官大寺のこの塔もおそらく100m近い高さがあっただろう。
 吉備池廃寺が百済大寺であるとして、その巨大な規模はまさに大官大寺に引き継がれたことが分かる。

 今後関心がさらに高まるのは、天武・持統朝の高市大寺=大官大寺の所在地である。木之本廃寺をはじめとして2、3の候補地があがっているが、いずれも決め手に欠く。周辺での発掘調査の進展により、ある日突然、巨大な寺院跡が出土する時がくるかも知れない。

 吉備池廃寺のある地域はいわゆる磐余(いわれ)である。磐余は5、6世紀のヤマト王権が宮を集中して置いた地域である。推古天皇の豊浦宮から飛鳥を中心とする地域に宮は移るが、舒明天皇が百済大寺とともに百済宮をふたたび磐余に営んだことが事実だとすると興味深い。

 舒明天皇と言えば『万葉集』に名高い国見の歌がある。
 「大和には 群山あれど とりよろふ 雨の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は
煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」(巻1─2)
 香具山から吉備池は東北方向に指呼の間に望める。鳥が群れ立つ磐余の池や百済川の川面もおそらく見えたことだろう。天皇は国見をしつつ大寺と宮の地を定めたのだろうか。空想に過ぎないが、1300年以上も昔の情景が少し近づいてきそうだ。

 発掘も破壊でありし寺跡の一期一会の説明会聞く
 幻といはば言ふべし吉備池の大寺跡に土筆芽ぶけり
 雲薄く湧きて流れる多武峰風は冷えれど春の気配す

磐余周辺図

吉備池廃寺出土軒丸瓦

吉備池全景、西から。右手堤防に金堂と塔の基壇が出土した


●参考 『日本書紀』岩波文庫 『万葉集』角川文庫 『まぼろしの大寺』飛鳥資料館 『シンポジウム吉備池廃寺をめぐって─百済大寺はどこか─』帝塚山大学考古学研究所 『吉備池廃寺第5次調査現地説明会資料』奈良文化財研究所
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