奈良歴史漫歩 No.012 石の文化の花開いた明日香 橋川紀夫 |
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石敷きが多いのは、明日香が湿地であるからという説がある。飛鳥川が浸食した渓谷の出口にあたり、山からの伏流水がたえず地表を濡らす。石を敷きつめなければとても歩けたものではないというわけである。 この実用的な理由に間違いはないだろうが、明日香の敷石から私が連想するのは、古墳の墳丘を覆う石である。現状の古墳の姿からは想像しにくいが、復元した前方後円墳を見ると墳丘斜面を人頭大の自然石で覆い尽くしているのにであう。いわゆる石垣とは違って一種の舗装のような印象を与える。石葺きとでも呼ぶべく、建造物の外装に石を敷きつめたという感じである。 古墳は当時としては最大の人工建造物であり、その大きさ、形と共に人工性を際だたせる意匠として埴輪の林立や石による外装があった。もちろんこれらにはシンボリックな意味があっただろうが、もう一面から見れば、王の権威を視覚化する装置として 石の集積は有力な手段であったのだろう。たしかに膨大な石の集積や巨石による石室の構築には、多数の人間の動員と高度な技術を要する。石の数と大きさは権力の大きさのバロメーターにちがいない。 明日香に宮が置かれたのは終末期古墳の時代であり、古墳の大きさを競ったり石で葺いたりするようなことはなかった。切石を精緻に積み上げた石室や高松塚古墳のような壁画は、古墳が支配者の権威をあからさまに顕示するものとして用をなさなくなったことを示す。 |
飛鳥の新名物!亀型石 |
しかし、何時の時代でも支配者は自らの権威を目に見える形であらわそうとする。7世紀になると、巨大寺院の建造がこの役目を果たした。そして、この頃から定着した明日香の宮が建造物として支配者の権威を象徴するものになりだしたのではないか。 斉明天皇が「興事(おこしつくること)」を好んだことは、日本書紀に記されるとおりである。運河を掘って天理の石上山から石を運び、宮の東に石垣を築いて「両槻宮(ふたつきみや)」を作ったという記述も最近の発掘により確証された。これが如何に大工事であったかということは、当時の人が運河を「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」と誹り怨んだことからも想像がつく。 明日香岡地区に、舒明天皇の岡本宮、皇極天皇の板葺宮、斉明天皇の後岡本宮、天武天皇の浄御原宮が置かれたということはほぼ定説化されているが、たび重なる造成改築により、宮殿は規模を拡大し壮麗なものになっていっただろう。しかし、当時の宮殿は掘建柱に板葺きである。礎石や瓦が宮殿建築に取り入れられるのは藤原宮以降になる。竪穴住居がまだ残っていたという民衆のレベルからすれば、格段の差はあっただろうが、地方豪族の館と比べると建物としてはあまり差はなかったと思える。 大王或いは天皇の超越性を示すには、宮域を他所から隔絶したスケールと外観で装うことであるが、飛鳥京においてそれを担ったのが石造物であった。宮域全面に敷きつめられた石、広大な庭園や池は大小の石によって形づくられ、不思議な彫刻が施された石造物がならび、水が流れ噴き出ている。このような庭園で外国の使節や辺境の民を迎えて供宴したことが記録に頻出するが、訪問者たちは石と木と水で作られた都の常ことなる景観に強い印象を植えつけられたことだろう。明日香の石にはすぐれて政治的な意味が込められている。 |
猿石の女、山王権現(左から) |
「謎の石造物」を解明する 考古学的な知見が増えて、「謎」もかなり解き明かされているが、すべてが解明されているわけではない。でも、謎が消えると「明日香のロマン」もなくなるように感じて、このあたり気持ちは複雑である。これまでの謎解きでは、謎をよけい深めるとしか思えない説が輩出した。それが、石造物の魅力を高めてきた面があったから、いろいろな説がいろいろな方面から出るのは大いに歓迎されるべきだろう。 最近では、橿原考古学研究所副所長の河上邦彦氏が、謎解きで積極的に発言されている。これまでの事例とは異なって、その展開には説得性があるように思える。2、3紹介してみよう。 猿石はこれまで石造の埴輪、道祖神といった説が出ていた。吉備姫王墓に並んでいるのは4体であり、それぞれの特長から「男」「山王権現」「僧」「女」と名づけられる。河上氏は、僧が実は力士像であり、他の像が伎楽の人物と共通する印象が強いことから、これらの石像は芸能者を表現しているとする。 猿石が出土したのは、欽明陵梅山塚の南の田んぼからであったが、その南側を発掘したところ、石敷きと石垣が見つかった。平田キタガワ遺跡と名づけられるが、広場と苑池の跡と見られる。この地は飛鳥京の南であり、京の入り口にあたるという。各国の使節はまずこの場所で迎えられたので、遺跡は迎賓館のようなものであったと推定される。 「飛鳥に来て、天皇に拝謁しようとした各国の使者はすぐには天皇に会えない。長ければ、1カ月も2カ月も待たねばならない。その間ここに泊まる。使者をもてなすためには相撲や伎楽がなされたのであろう。しかし、毎日あったわけではないので、普段はこのような石像を見て楽しんでいたのではなかろうか」(河上邦彦『古代の石造物覚え書き』季刊明日香風81号) |
猿石の僧、男(左から) |
岡の酒船石は、ユニークな形状の細工が鮮烈な好奇心を呼び覚ます。大石に穿った円形の池とそれらをつなぐ直線上の溝は幾何学的な図形をなして、猿石や亀石にあったような情緒的な共感が拒まれる故にいっそう謎めいている。 酒船石は東西に伸びる尾根に沿って位置し、東側が高い。見学者は自然に東に回って、石を眺めることになる。池と溝を穿った形状から、それに水を流したのだろうとまず想像がいく。昔の人は、濁り酒を流して漉し清酒にしたと考え、酒船石のネーミングの由来となった。同工異曲で、燈油精製機、辰砂精製機などの説も出ている。 これらの説の提唱者が、どの位置から液体を流したと考えていたのかまでは分からないが、水は高きから低きに流れるから、当然考えるまでもなく東端の半円形の池が起点になっているものだと誰もが思いこんでいたのではないだろうか。 河上氏は、水を流したのは西からだとする。なぜなら、中央の池と西に伸びる溝は底が同一平面にあるから、東から水を流したのでは池に水がたまらない。しかし、西から流れた水は中央の池にたまり、溝にあふれて東の池に流れ込む。東の池がいっぱいになると、水は左右の溝にあふれて次の池に流れ込んでいく。石の南西端の一段低くなった部分に不整形な細長い池があるが、池をめぐった水は大部分ここに戻ってきたと考える。 今、石が東から西に低く傾いているのは地盤沈下したためで、かつては水平を保っていたというわけである。 それでは、何に使われたのかというと、「水を循環させてその流れに小さなものを浮かせて、水の流れと微風によって流れるルートから吉凶を占う一種の遊びの施設ではなかったかと考えられる。おそらく、この石造物を中心に小さな建物があり、石造物の周りに人々が集まって遊んだものであろう。」(同上) |
岡の酒船石 東側から見る |
●参考 『古代大和の石造物』橿原考古学研究所 河上邦彦『古代の石造物覚え書き』季刊明日香風81号 | |
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