奈良歴史漫歩 No.014  夢いまだ幻の高安城   橋川紀夫   

      市民グループが建物跡発見       

 古代高安城の在処をもとめて、25年の長きにわたって調査を続ける市民グループがある。地元大阪府八尾市の住人を中心に結成された「高安城を探る会」で、1976年の3月、「八尾郷土史講座」の受講生が呼びかけて発足した会は、歴史学や考古学の専門家の指導を受けながら、学習と探索を並行させて精力的な活動を続けてきた。

 会が誕生して間もなく、1978年4月の探索会で、地元の老人から信貴山の寺の鐘が出てきたという山中の場所を聞き出した。そこは高安山頂に近く、東南東の信貴山へと向かう尾根筋のハイキングコースから少し北へ入った場所である。土が盛り上がって大きな穴ができていたが、付近が平坦地であることに興味を持った会員が持参のトレンチ棒で地面をつつきまわった。このような場所には建物跡のある可能性が高いことを、他の山城のケースを学んで知っていたからだ。予感は的中した。トレンチ棒は甲高い音とともに石を探り当てた。落ち葉をかき分けると、1m四方の上面が平たい石が出てきた。これが、この会を有名にして、さらに歴史の本に1行を付け加える発見をもたらした「事件」の発端である。

 この石がきっかけとなって、周囲に規則的に並んだ石が次々と確認された。縦に5列、横に4列、2石は抜き取られていたので、合計18個の石が約210cmの等間隔で整列し現れたのだ。この時の会員たちの驚きと興奮はいかばかりであっただろうか。発見から半年経った頃に発行された会誌「夢ふくらむ幻の高安城第3号」には、会員たちのまだ興奮冷めやらない体験記で埋まっている。私もこの記録をもとに当時の状況を再現している。

 この日のうちに、建物跡であることは誰の目にも明らかになったが、役所への遺跡発見届は1カ月以上先になった。この間、会員は休日ごとに現場に駆けつけて調査を続けた。6棟の礎石群が発見できた。そのうちの1棟については、地主さんの立ち会いのもと「発掘調査」まで行っている。測量して現地の地形を図面にした。石の寸法を1つ1つ記録して、写真に撮った。もっとも発掘は礎石の表面を出すだけにとどめたという。ここまでの調査は学習の成果でもあるが、様々な職業の会員たちの特技もフルに発揮された。測量では、会員の建築士さんや大工さんの技術と道具が役に立った。礎石を見つけるのに役立ったトレンチ棒も、会員の鉄工場主が自前の材料で工夫して作り会に寄付したものであった。

 このような調査を行って届が遅れたことについて、会長さんは「届けても果たして信用してもらえるか不安があったので役人を説得できる材料を集めた」という旨の弁明をされている。それもうなずけるのであるが、「幻の高安城」が幻でなくなる、まさかと思えた夢がかなえらるかもしれない場面に遭遇して、自分たちの手で夢を現実のものにしたいという衝動があったのではないだろうか。一生に一度あるかないかの体験、まさに1カ月は夢のような時間であっただろう。

高安山周辺地図

    唐・新羅の侵攻に備える山城

 さて、ここで高安城についてその歴史をあらためてたどってみよう。
 朝鮮半島は長らく高句麗、新羅、百済の三国が覇権を争う時代が続いていたが、大陸での唐帝国の成立によって、三国の均衡は崩れ始める。唐と組んだ新羅が百済と高句麗を圧迫するようになる。
 663年(天智2年)、百済の救援に向かった日本軍は、唐・新羅の連合軍と白村江(はくすきのえ)の河口で激突する。しかし、戦術に長じた唐の水軍を相手にして、日本軍は大敗を喫する。百済復興の企てが潰えたのはもちろん、唐・新羅の日本侵攻のおそれにも備えなければならなくなった。

 664年、対馬と壱岐に防人と烽火台を置き、太宰府の北西に人造湖を造った。今も巨大な堤防が残る「水城」である。
 665年、長門の国に1城、筑紫国の太宰府を防衛するために2城(大野城と椽(き)城)を築いている。侵攻経路の玄関となる九州と関門海峡にまず防衛ラインを敷いたのである。これの築城には、百済から亡命したと思われる者が指揮したことが記録される。

 2年後の667年11月、倭国の高安城、讃吉国の屋島城、対馬国の金田城が築かれる。瀬戸内海沿岸と大和盆地を守る布陣が整えられていった。同年の3月、近江大津京に遷都されたが、これも外的侵入に備えてであろうか。

 もしも瀬戸内海を抜けた敵が難波津に上陸して飛鳥京をめざすとする。その最短コースは、大和川の川筋をたどる滝田越え、二上山の北を迂回する大坂越え、二上山の南を通る竹之内越えなどのコースがある。これらの重要な地点を固める策がこうじられた。
 高安山は滝田越えルートから北へ数キロの地点にあって、標高400m以上の山頂部がいくつもの谷を抱えて複雑な地形をなす。河内に面する西側山麓は急峻な斜面をなし、敵の攻撃は防ぎやすい。眺望は抜群によい。今も山頂に立てば、大阪平野はもちろん淡路島、明石海峡以東の大阪湾が一望のもとに見渡せる。敵の動向を監視しつつ、いざというときに味方を必要な地点に急派する拠点がこの山中に置かれたのも納得できるだろう。

 669年には、天智天皇みずから高安城に行幸して城の修築を図ったことが見える。畿内の田税として収納した米を蓄え、翌年には「穀と塩」も倉庫に収めている。もちろん兵糧にもなるが、国の食糧貯蔵庫がここに設けられたということだろうか。

高安山頂遠望 近鉄大阪線高安駅から

     壬申の乱で戦場となる

 幸にも高安城は本来の目的に使用されずにすんだが、一度だけ戦場になったことがある。772年に壬申の乱が勃発したとき高安城は近江方の兵が駐屯していたが、それを知った大海人皇子側の坂本臣財の一隊が急襲した。近江方は税倉に火をつけて逃亡。翌朝山頂から河内方面を見た坂本臣財らは、近江方の大群が押し寄せてくるのを認めて果敢にも山を下りて討ってでている。

 以降30年にわたって高安城は維持された。天武天皇、持統天皇の高安城への行幸の記事が出てくる。文武天皇の時代になって高安城の修理の記事も続日本紀に2度あらわれる。
 しかし、701年に至って高安城は廃城となる。倉庫とその貯蔵物も倭と河内に移される。この年、大宝律令がなり、翌年には遣唐使の派遣が再開される。明らかに時代は変わっていた。

 高安城が廃されたあとも、烽火台の機能は継続されていた。これも、平城京への遷都があった後の712年には停止されている。しかし同年のすぐ後に元明天皇の高安城への行幸の記事が見えるのはどうしてだろう。

 『日本書紀』と『続日本紀』に頻出する高安城は、7世紀後半の日本と東アジアの緊迫した関係を反映しているが、危機感は当時の為政者にはあっても一般庶民には遠い出来事だったのではないだろうか。
 天智8年(669年)8月条に、天皇が行幸して城を改修しようとしたが、人民の疲弊をあわれんで中止した。人々は「天皇は仁愛の徳がゆたかである」と賞賛したとある。もっともこれに続いて「この冬、高安城を修りて、畿内の田税を収む」とあるのだが。海の向こうの遠い敵に備えるために、兵士や役夫として動員され、税を搾り取られる。庶民にとっては大きな受難であっただろう。

高安城跡2号倉庫礎石

    建物は奈良時代前期に建造

 高安城の遺跡もいつしか山中に埋もれ、文献に記録を残すのみとなった。
 高安城の位置と範囲について始めて本格的に取りあげ論じたのは、建築史家の関野貞であった。大正7年、現地踏査による地形と地名を根拠に、高安山頂を北限に三郷町を中心にした範囲を比定した。これに刺激されいくつもの案がその後出ているが、いずれも確証となる遺物に基づくものではないので、「幻の高安城」であることに変わりなかった。

 「探る会」の礎石群の発見は、すべてのマスコミに報じられてビッグニュースとなり、多くの専門家が現地を尋ねることになった。特に森浩一氏からは、「高安城の遺跡にちがいない」という太鼓判を押されて、「高安城発見」はほぼ確定したかのように見えたのだが…。

 遺跡発見届を受けた奈良県は「高安城跡調査委員会」を結成。1982年から83年にかけて奈良県立橿原考古学研究所によって礎石群の発掘調査が行われた。
 調査されたのは、6棟あるうちの2号と3号の建物跡である。
 桁行4間、8.8m、梁行3間、6.3mの同一の規模を持つ総柱の礎石建物でカヤ葺き・高床式の倉庫と見られる。
 土器が多量に出土した。皿、鉢、杯、羽釜などで、いずれも奈良時代前期の土器である。
これらは、建物を建てる際の地鎮、鎮壇に用いられたとされる。したがって、建物の建設時期は奈良時代前期となり、701年に廃城になる前の高安城の遺構とは考えられない。元明天皇が行幸した時期に近いので、それに関係した建物であろうか。
 3号建物の礎石外側周囲から建物を囲むような形で計18個の掘立柱据付穴が出土した。2号建物にも同じく掘立柱据付穴があったと推定される。この穴の性格について、橿原考古学研究所は、礎石建物の庇を伸ばして柱で支えたか、覆い屋のようなものを造って、湿気を防いだのではないかと推測する。

 この倉庫跡群を歴史的に解釈する有力な説はまだあらわれていないようだ。
 高安山と信貴山一帯は発掘調査が随時継続的に行われていて、7世紀後半の横穴式古墳や奈良時代の火葬墓地とせん槨墓など古代の注目すべき遺跡も見つかっている。しかし、天智朝の高安城に直接つながる遺物は依然として出土していない。

 「高安城を探る会」の探索もまだまだ続きそうだ。

       (2月10日、高安山の倉庫跡を尋ねる)
 いしずえの岩肌黒し雪払ひひとつまたひとつ石たどり踏む
 雪舞いて見通しきかず足下を見つめ歩くに山深きなり
 高安の倉跡踏みぬそれのみに高ぶる心山降り鎮まる

高安城跡3号倉庫実測図 「調査概蓬2」より

●参考 「高安城と烽 基本資料集」高安城を探る会 「夢ふくらむ幻の高安城」高安城を探る会 「近畿文化627号 高安城と千塚」来村多加史 「高安城跡調査概報1・2」橿原考古学研究所
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