奈良歴史漫歩 No.019   描き直される藤原京    橋川紀夫   

  ●発掘されて70年になる藤原宮

  春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(巻1─28)

 持統天皇の御製であるこの有名な歌は、天皇という高位な身分と「衣干す」という卑俗なシーンとのギャップもあって、私には何となく全体が作りモノじみた印象があった。初めて藤原宮の大極殿跡に立って東南の方向を見晴らしたとき、低い丘陵の香具山が思いのほかの近さで鎮座していた。三山の中でも香具山が歌われたのは、特別に聖別視される存在であったからだろうが、この時、地理的な意味からも理由のあることに思いいたった。香具山の麓に白い衣がもし翻っていたとして、天皇が住まわれる内裏からも見えたにちがいない。それ以来、この歌は私にも身近に感じられるようになった。

 藤原宮は、東に香具山、西に畝傍山、北に耳成山、南に明日香・吉野の山と万葉にも歌われるように盆地に所在するが、明日香のように山が迫った閉じた空間ではなく、むしろ開放的なスペースである。狭隘な明日香から都を移して、律令国家のスタートを切るためにこの地が選ばれたことに、時の為政者の前向きな姿勢と大いなる意欲まで感じる。

 藤原宮跡は橿原市高殿町に所在する。所在不明になっていた宮の位置を現在地に最初に特定したのは、江戸時代中期の国学者、賀茂真淵だという。それが確定するのは、1934年(昭和9年)から開始された日本古文化研究所の発掘調査を待たなければならなかった。建築史家の安達康が中心となり行われた発掘で、大極殿や朝堂院の跡が次々と突きとめられていった。

 1966年(昭和41年)から奈良県教育委員会によって発掘調査は再開され、宮全体の範囲が判明した。発掘は69年に奈良国立文化財研究所に引き継がれ、宮域のみならず京域に拡大した面的な調査が進められている。

  ●大幅に描き直された大極殿院

 藤原宮の概要について述べよう。

 宮域は約1km四方の広がりをもつ。四周を高さ約5.5mの大垣(瓦葺きの土壁)がめぐり、大垣の東西南北各面に各々3門(桁行5間、梁行2間)が開く。

 宮の中央には、北側から内裏、大極殿、朝堂、朝集殿が並ぶ。
 天皇が臨席して儀式の執り行われた大極殿は、桁行9間(44m)、梁行4間(19m)であり、これは平城宮の第1次大極殿に匹敵する。大極殿を囲む回廊が周囲をめぐっていた。
 朝堂は、儀式や朝政に際して臣下が集う場である。12棟の長大な建物が整然と並び、周囲には回廊が取り巻く。
 朝集殿は、官人が朝堂に入る前に準備を行う場であり、東西に2棟向き合って建つ。
 宮域の東西のエリアには、役所が建ち並んでいた。

 宮中枢のこのような構成の基本は、平城宮に引き継がれた。
 
 ところで、従来の大極殿院復元平面図を見ると、ややいびつでバランスを欠いていることに気づく。

 日本古文化研究所の調査によると、東西回廊の南半分は梁行2間の復廊であるのに対し、北半分と北回廊は梁行1間の単廊ということになる。大極殿の左右には桁行7間、梁行4間の東殿、西殿が回廊にとりついている。しかも回廊の東殿、西殿にとりつく位置がバラバラなのである。



東楼跡、円柱でその規模を示す。手前の穴が礎石抜き取り穴、
根石が残る。遠方の低い山が香具山。


東門跡、円柱が柱跡。手前の瓦の散乱する溝が回廊の雨落溝。
南方向を望む。

 奈良文化財研究所は、この問題の解決の手がかりを得るために発掘調査を実施、新たな事実が明らかになった。その現地説明会が2002年3月23日に行われた。

 調査場所は、東回廊の2カ所であり「東殿」を含む。

 東回廊の南半は、日本古文化研究所の調査の通り復廊であることが確認された。回廊の北半は礎石や据付掘形は失われていたが、回廊の基壇土が南半の延長線上に同じ約10mの幅で残っていた。これにより、東回廊は南北共に復廊で延長線上につながっていることが判明した。

 東殿は、日本古文化研究所の調査によっても礎石等の確実な証拠が見つかったわけではなかった。今回の調査では、東殿想定地に回廊の基壇土とよく似た基壇土が約11mの幅で確認され、その東に雨落溝と見られる南北溝が検出された。従って、この場所にあった建物は、7間×4間の東殿ではなく、7間×2間の総柱建物であり、梁行が回廊よりもやや広いことから門だと考えられる。

 これらの結果から、奈良文化財研究所は、大極殿院を次のように復元する。
 大極殿を囲んで、朝堂院と同じ規模(桁行柱間約4.2m、梁行柱間約3m)の復廊の回廊がめぐり、朝堂院に通じる南門、内裏地区に通じる東門、西門、北門が回廊と棟通りを揃えて設けられていた。東西回廊間は棟通りで約118m、南北回廊間は同じく約159mとなる。東西の中心は大極殿の中心を通り、朱雀大路の中軸線に揃って、左右均等になる。

 大極殿院回廊の東、朝堂院回廊の北に大型の礎石建物があることがこれまでの調査でわかっていたが、建物の北西隅にあたる礎石据付掘形・抜き取り穴が今回検出された。掘形は一辺3〜4mもあって、礎石は抜き取られていたが、人頭大の根石が残っていた。

 これにより、建物は桁行9間(約42m)、梁行4間(約18m)に復元できる。これは大極殿に次ぐ規模であり、記録にある「東楼」だと見られる。「続日本紀」の慶雲4年(707年)、元明天皇が即位の直前に亡き文武天皇の遺詔に従って自ら天皇の地位につくことを高官たちに告げたのが、この東楼においてである。

  ●平城京よりも大きかった大藤原京

 藤原宮という言葉は正史にも登場するが、藤原京は当時の史料にはまったく出てこない。それにあたる言葉は、「新益京(あらましのみやこ)」である。歴史学者の間で便宜的に使用されるようになった藤原京であるが、その復元案は長らく古代史学者の岸俊男氏が唱えたプランが通説となっていた。しかし、発掘による新事実の発見が相次ぎ、現在全面的に見直されている。

 岸俊男氏の京域復元案は、東京極を中ツ道、西京極を下ツ道に置き、北は横大路、南は阿倍山田道をもって限る。東西4里(約2.1km)、南北6里(約3.2km)の規模となり、大和三山が囲む平地にすっぽり入るおさまりのいいものとなる。ここを東西8坊、、南北12条の碁盤目に道を通す。碁盤目の1マスである1坊は半里(約265m)四方となる。宮域は中央北側を占めて、16坊分の広さとなる。

 しかし、発掘事例が増えるにつれ、復元案京域の外側で条坊道路と見られる遺構が次々に発見されるようになった。そこで、京域を拡大した「大藤原京」が提唱されるようになる。

 1996年に、橿原市の土橋遺跡と桜井市の上之庄遺跡の発掘調査で、大藤原京の東西京極の位置が判明した。条坊道路の側溝の終端が検出されたのである。藤原京の中軸からの距離は東西共に約2.65km(5里)、東西幅は5.3kmとなり、外京を除く平城京の4.2kmよりも大きくなる。


藤原宮復元平面図


日本古文化研究所の大極殿院の復元


奈良文化財研究所が今回の調査で修正した大極殿院の復元

 南北の京極はまだ判明していないが、南北幅は東西幅に等しいという説が有力である。5.3km四方の京域の中心に1km四方の宮が置かれたことになる。大和三山はすべて京域の中に含まれる。

 このような都城のプランは、唐長安城以前の中国の伝統的な都の設計理念とも一致するという。

 藤原京建設の時期についても、発掘成果をもとに、より具体的な検討が可能になった。

 日本書紀に藤原宮が初出するのは、690年(持統3年)の「高市皇子、藤原宮の地を観る。公卿百寮みな従う」の記事である。翌年には「新益京の鎮祭」も載る。そして、694年に遷宮された。しかし、新都の建設は天武天皇の時代から課題であったようで、676年の「この年、新城に都せむとす」を始めとして、晩年に至るまでたびたび新都関連の記事が出る。このため、藤原京の建設は天武天皇の治世にさかのぼることが、以前から推測はされていた。

 藤原宮朝堂院の発掘調査で、宮の遺構とともに、宮に先行する条坊道路が発見された。また、680年に建立が開始された本薬師寺の跡から、お堂の建築に先行する条坊道路も見つかっている。

 これらの事実から、天武天皇の治世の初期から藤原京の建設が始まっていたことは間違いないと考えられるようになった。


藤原京復元図。中央小さい碁盤目の範囲が岸俊男案、
赤で囲った範囲が有力な大藤原京案。
赤丸が判明した東西の京極地点。
●参考 「飛鳥藤原第117次調査現地説明会資料」奈良文化財研究所 寺崎保広著「藤原京の形成」山川出版社
奈良歴史漫歩トップマガジン奈良歴史漫歩テーマ別・時代別・地域別索引ブックハウス・トップ

Copyright(c) ブックハウス 2004 Tel/Fax 0742-45-2046