奈良歴史漫歩 No.025   平城京羅城門と来世墓の鳥居   

  ●鑑真も仰ぎ見た羅城門

 平城京羅城門は、京の南北を貫くメインストリート、朱雀大路の南端に位置して京の正門にあたる。約3.7kmの朱雀大路の北端には、平城宮の正門である朱雀門が建つ。

 「続日本紀」によれば、和銅7年(714)、新羅の朝貢使を迎えるに羅城門外の「三椅(みはし)」に騎兵170人が整列した。「三椅」は羅城門外の堀にかかった橋と推測される。同じく、宝亀10年(779)の唐客の入京では、「三椅」に騎兵200人、蝦夷20人の出迎えが記録される。外国の使節は、羅城門をくぐり朱雀大路を騎兵に先導され、パレードのように北上して朱雀門に吸い込まれていったのだろうか。

 羅城門ではまた、雨乞い行事が行われたり、遣唐使が辞見のため留まったりした。「唐大和上東征伝」では、鑑真も羅城門外で迎接、慰労を受け入京したことがわかる。

 羅城門のある場所は、大和郡山市観音寺町の佐保川にかかる来生橋のあたりと見られてきた。平城京研究の幕末の先駆者、北浦定政も「来生(らいせ)」が羅城の訛であることを論じている。その後の研究史を通じて、来世橋=羅城門説はいわば定説化されてきた。

●佐保川にかかる羅城門橋、手前に羅城門があった。南から  

  ●羅城門の礎石

 この定説に初めて物証の手がかりが与えられたのは、昭和10年の来世橋改修の際に、佐保川の川底から礎石と見られる石が発見されてである。全部で4個あり、花崗岩質の石は長方形に成形され、ほぼ1m四方で、厚みはやや薄く、扉軸を受ける円穴や方立(戸当たり)の仕口であるほぞ穴も細工してあった。元の位置からは動かされていたようだ。

 郡山城天守閣の石垣東北隅には、羅城門礎石を伝承する石が3個ある。いずれも1m四方に成形されて、円形の柱座をもつ。佐保川に埋もれていた礎石とは、その形や大きさと共通点があるが、天守閣石垣の石が凝灰岩であることの相違が気になる。

 朱雀門の礎石も一部見つかっているが、不成形な花崗岩に柱座のみを彫り出したものである。羅城門の礎石が、より手間をかけて加工され装飾性の高いことは、この門の重要性を語るのだろうか。

●郡山城天守閣石垣、中央の石3個が羅城門礎石の言い伝えがある

    ●5間3戸から7間5戸の門へ

 周辺の開発に伴う本格的な発掘調査が実施されたのは、1969年から1972年にかけてである。3回に渡った調査によって、羅城門基壇の西端部分、朱雀大路の西側溝と西築地塀、九条大路の北築地塀と北側溝が確認された。

 基壇は版築が施されていた。礎石は、調査地区が基壇全域に及ばないこともあって出土しなかった。佐保川に残っていた礎石は、何故だかこの時、調査されなかったようだ。その後の河川改修で巨大な堤防に埋没してしまい、今となっては調査もままならないようだ。羅城門基壇の周辺からは遺物もほとんど出土しなかったので、この直接の遺物が日の目をみないのは悔やまれる。

 この時得られたデータと、朱雀大路の築地心間距離を平安京朱雀大路と同じ28丈(83.2m)とする仮定から計算して、基壇の東西幅は32.74mと想定された。これは、朱雀門の基壇と同じ規模であり、羅城門も5間3戸の入母屋瓦葺き重層門として一応復原された。

 その後の発掘調査の進展に伴い、平城京朱雀大路の築地心間距離は88.4mと確定した。これを受けて、1998年、奈良文化財研究所は、羅城門の復原プランを16年ぶりに見直した。その結果、基壇東西幅は41.5mに修正された。門の規模も7間5戸となり、朱雀門を上回る京随一のスケールとなる。モデルとなった唐長安城も羅城門に相当する明徳門が朱雀門よりも大きくて、我が羅城門も京の正面を飾るにふさわしく壮麗な構えであったのだろうか。

 羅城は本来、中国の古代都市の周囲にめぐらした城壁のことである。防御の意味を持つ羅城は平城京にはなかったと考えられてきたが、左京4坊の9条大路で築地跡が見つかり、再考を迫られている。あるいは、京の南面には築地=羅城がそびえていたかもしれない。

●羅城門跡に立つ説明板

   ●羅城門跡の来世墓

 現在の羅城門跡を尋ねると、周辺の景観の変貌は著しい。佐保川左岸の奈良市域には羅城門跡公園が造成されているが、荒れるがままに記念碑も草に覆われていた。基壇出土地の佐保川右岸の大和郡山市域には、遺跡の説明板がひとつ立つだけで、やっとここが羅城門跡であることがわかる。

 往年の木製の来世橋は、新しくつけた県道の羅城門橋となって大型トラックが行き交う。来世橋の袂に共同墓地の来世墓があったのだが、それは今も田んぼの中に残っている。たまたまお墓参りの人から聞いたところでは、昭和の初めまで墓守がいて、墓地のお堂に住み込み、いつも白い服を着ていたという。石製の明神鳥居が2基、南北方向に並んでいた。付近には神社もなく、お墓の中に鳥居だけが立つのも珍しいと思いながら、市が設置した説明板をよむ。「等覚門と正覚門を意味する2基1具の鳥居で、江戸後期の造立である」という。

 忘却の果ての輪廻のように、壮大な羅城門がいつしか、あの世を意味する「来世」へのゲートたる鳥居に生まれ変わったのだろうか、そんな幻想を弄んでしばし楽しんだ。
                        (2003/8/15・記)

●来世墓の石鳥居、等覚門と正覚門の2基1具の鳥居

●参考 「平城京羅城門跡発掘調査報告」大和郡山市教育委員会1972 
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