奈良歴史漫歩 No.026     壮大な石垣をめぐらす酒船石遺跡

    ●「宮の東の山」の発見

  酒船石は明日香の謎の石造物の中でも、とりわけ不思議な模様を刻んで、強烈な印象を与える遺物である。その名前の謂われになった酒造の施設、或いは燈油精製機、辰砂精製機などの説が出ていたが、最近は実用性よりも、祭祀用の施設として考えられることが多くなった。

 酒船石から北西方向50m程の斜面に、砂岩の切石を積んだ石垣が発見されたのは平成4年(1992)のことである。斉明天皇2年是歳条に「宮の東の山に石を累ねて垣となす」とあり、出土した石垣はこの記載と結びつけて斉明天皇の時代(655〜661年)の遺構という説が有力となった。書紀には、石上山(いそのかみやま=天理市)から、渠(みぞ=運河)を掘り船200艘で石を運んだとされる。実際、出土した砂岩は天理で産出した石である。

 明日香村教育委員会では、これ以降、酒船石のある丘陵周辺の発掘調査を継続して行い、複数の石垣跡が見つかっている。昨年は、酒船石から南東方向200mの場所で石垣の基礎石が出土した。基礎石は丘陵の一端を限るようにL字形に並んで、丘陵と平行する方向には水平に、丘陵頂に向かって横断する方向には階段状に据え付けてあった。

●謎の酒船石  

    ●丘をめぐる総延長700mの石垣

 今年の調査では、昨年の石垣跡から南へ約50mの地点で、石垣の基礎石と崩落した砂岩の切石が見つかった。その現地説明会が平成15年9月13日に行われた。

 基礎石の並びはL字形をなして、昨年の基礎石とは対称的な相似形である。頂に向かって階段状に6石、丘陵との平行方向には水平に5石出土した。細川谷から運ばれた飛鳥石で、長辺は80〜100cm、短辺が20〜35cm、厚さ30〜40cmほどの大きな石である。上の面が水平になるように据えてあった。

 砂岩は、基礎石の上にレンガ状に積み上げたらしい。すでに崩落して、周辺にかたまって放置されていた。人為的に運ばれて放置されたようにも見える。小さなもので5〜6cmのかたまりから、大きなもので長さ30cm、幅18〜23cm、厚さ9〜13cmほどになる。

 階段状に積んだ基礎石の高さは150cmほどになる。また、砂岩が本来積まれていたと想定される位置から背面の地山までの約150cmの間には裏込めとして盛られた土が残っていた。

 砂岩と一緒に出土した土器から、石垣が崩壊したのは7世紀後半と推定される。

 これまで見つかった5カ所の石垣跡出土地点をつなぐと、石垣は酒船石のある丘陵を巡っていたことが推定できる。南東から北西へ伸びた細長い丘で、麓からの比高差はせいぜい20m、一番高い地点は141mである。今回出土した石垣を東端とすると総延長は700mとなるそうだ。

 日本書紀の「宮の東の山に石を累ねて垣となす」が、この石垣にあたることは間違いないだろう。ここでの宮とは「後飛鳥岡本宮(のちのあすかのをかもとのみや)」で、飛鳥板葺宮遺跡と同じ場所に比定される。

●酒船石から北西に50mの地点で出土した砂岩の石垣

●9月15日の現地説明会 手前に砂岩が放置され、奥に基礎石が残る。

 

    ●「高殿の立つ両槻宮」と「宮の東の丘」

 昨年、酒船石のある丘陵の西外れで、大がかりな石組みの溝跡が発見された。掘っ建て柱の門と見られる建物や塀跡も同時に発見され、「宮の東の山」へ通じるゲートのような施設ではないかという解釈も出た。

 平成12年、地中から掘り出されて世間の耳目を集めた亀形石と小判形石のある石敷き広場は、丘陵の北西端に接する窪地にある。丘陵から湧き出た水を用いる祭祀施設と考えられているが、丘陵全域を覆う広大な施設が見えてきたことで、石敷き広場の祭祀がまた新たな視点から検討できるだろう。

 日本書紀は、「宮の東の山」の記載と並んで、多武峰に垣をめぐらし、嶺の二つの槻(つき=けやき)の樹のほとりに観(たかどの)を立て、「両槻宮(ふたつきのみや)」または「天宮(あまつみや)」と称したことを記録する。多武峰は、明日香の東にそびえる標高600mの山である。「観」や「天宮」という言葉から道教の影響がうかがえる。

 酒船石のある丘陵の石垣が発見されて、「両槻宮」がクローズアップされるようになった。さらに丘陵の石垣規模が明らかになるにしたがって、ここが「両槻宮」ではないかという説が強まっている。しかし、日本書紀の文章では、「宮の東の山」と「両槻宮」は区別されているし、「宮の東の山」を多武峰の範囲に含めることには無理がある。今後の調査が丘陵の尾根部分にも伸びて、新たな知見が得られることを期待したい。

●亀形石と小判形石のある石敷き広場

    ●民衆の恨みを買った土木工事

 斉明天皇は呪術を良くし、雨乞いの功績が伝えられているが、土木工事も盛んにおこした。今に残る明日香の水と石の遺跡は、斉明天皇をもって最大の演出者とするだろう。

 しかし、土木工事は民衆に多大の犠牲を強いた。書紀は民衆の怨嗟の声をあからさまに記録する。3万人の人夫が掘り進めた運河は「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」と呪詛された。また木材が浪費され、山が崩れるといった環境破壊も目に余ったようだ。

 7万人の人夫を要した石垣の工事であるが、石垣は造るそばから崩れていったという。この記述は興味深い。今回出土した石垣も、崩れた状態で発見された。しかも崩落した時期は、造成後間もない7世紀後半である。

 砂岩の切石は小さな長方体に成形してあり、それを積み上げるだけでは重い土を支えるのは難しいだろうと思わせる。当時の明日香にはもちろん石垣を組む技術があったはずだ。普通の石垣ではなく、小さな切石のブロックを積むという工事をしたのは、それなりの理由があるはずだ。より人工的で装飾度の高い構築物が目指されたのだろうか。ますます、興味をそそる酒船石遺跡である。(03/9/15)

●酒船石のある丘から南西方向の飛鳥板葺宮跡を望む

酒船石遺跡周辺図

赤 石垣出土地点

青 酒船石

緑 亀形石と小判形石の   ある石敷き広場

茶 平成14年調査の溝・  門跡

黄 伝飛鳥板葺宮跡=後岡  本宮

(現地説明会配付資料より)

酒船石遺跡第24-2次調査トレンチ平面図

(現地説明会配付資料より)

●参考 「酒船石遺跡第24−2次調査」明日香教育委員会、「日本書紀(第4巻)」岩波文庫
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