奈良歴史漫歩 No.028   石で固めた天下の山城、大和高取城

     ●越智氏から豊臣秀長の城へ

 大和高取城は、奈良盆地の南辺にそびえる標高584mの高取山山頂に築かれた山城である。中世の山城という立地条件にありながら、近世の本格的な城郭を構えた城として、名高い。天守閣や櫓などの建物は一切失われているが、石垣はほぼ完璧な状態で残り、訪れる者をして、その勇壮なスケールで驚かしめる。何故このような山中に豪壮な城が築かれたのか、今となっては誰しも不思議に思われるだろう。
 高取城の起源は、中世大和の南部に割拠した土豪、越智氏の詰め城であったとされる。越智氏は、春日神社の国人であり、南朝方の武士としても活躍した。本拠地は高取城から西北方向に直線距離にして約7kmある細長い小盆地にある越智谷である。平地に居館を設け、高取城はその控えの城として、戦になったときの拠点として築かれた。大和では、同じような山城として、十市氏の竜王城(標高586m)や松永氏の信貴山城(標高437m)などがある。
 高取城が文献に初めて現れるのは、永世8年(1511)だという。戦に負けた越智氏が逃げ込んでいることが記録に見える。越智氏は天正年間に滅び、高取城もいったん破却される。しかし、大和一国の覇者となった筒井順慶が郡山に本城を築くとともに、高取山頂にも再び城を設ける。
 天正13年(1585)、筒井氏は伊賀の国へ移され、郡山城に入部した豊臣秀長は、筒井氏の方針を引き継いで、家臣の本多氏に高取城を守らせる。高取城が近世の城郭を構えるに至ったのは、本多氏が城主であった約50年間においてである。
 中世の山城はカキアゲ城と呼ばれる。斜面の土をカキアゲて土塁を設けたことに由来するらしく、本格的な石垣はまだ築かれなかった。鉄砲が使用されるようになり、その防御のために、大規模な石垣と壕を持つ近世の城が出現する。同時に城の立地も山から平地に移る。
 関ヶ原の戦いと大阪の陣をはさむ50年は、天下が統一に向かう時期であり、近世の城郭建築も爛熟・完成の局面を迎える。このような時代の諸相が、高取城の今ある姿から読みとれる。
 秀長が、大和・和泉・紀伊の100万石の大名として郡山に入部したときは、秀吉の天下統一事業の最中である。戦国の戦の炎が各所で燃えさかっている中、秀長は100万石の財力を傾注して高取城を築いたはずだ。標高500mの山中に累々と聳える石垣は、相当な難工事であったことを思わせる。どれだけ多数の人数が動員され、どれだけの財が費やされたことだろう。
 高取城は一地方の土豪や大名のお城ではない。豊臣家の天下覇権に備えたお城である。郡山城の詰め城としての機能とともに、この地の戦略的な意味を重視して築かれた城である。京と吉野を結ぶ最短ルートは、明日香村の栢森(かやのもり)を通って芋峠を越える街道である。高取城は芋峠から西に2km、街道を扼する地点を占める。吉野は、南朝方の拠点として100年に渡る活動を許した地である。高取城を吉野の抑えにすることが当然意図されていたことだろう。これが、江戸時代に入っても廃城にならず、維持されていた理由かもしれない。現に幕末に、天誅組が蜂起して吉野へ奔ったとき、高取藩の植村氏と一戦を交えている。

●高取城本丸の新櫓石垣

●国見櫓からの眺望 中央右手の山が畝傍山

    ●植村氏、山を下りる

 秀長は天正19年(1591)、その嫡子、秀保は文禄4年(1595)に没してしまうが、高取城の縄張りと主要な石垣の普請はそれまでに完成していたのだろう。それ以降、本多氏の持ち城となるが、天守閣や櫓の建築は慶長以後といわれるから、石高2万5千石の大名にその家作は相当な負担だったはずだ。
 本多氏は、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、大阪冬の陣でも手柄を立てた。関ヶ原の戦いでは、西軍が高取城まで攻め寄せてきたが、峻険堅固な城を攻めあぐねて、押し返されたという話もある。しかし、3代目に跡継ぎがいないという理由をもって、寛永14年(1637)取り潰しにあった。おそらく、外様の大名が戦略的な要に居座られていることが目障りであったのだろう。
 寛永18年(1641)、徳川譜代の植村氏が入部する。代々、徳川氏に仕えて軍功高く、槍一筋と謳われた家柄である。以来、幕末に至るまで、高取藩は植村氏の所領となる。
しかし、天下泰平な世に不便な山上生活を維持する理由はなく、入部早々、麓に侍屋敷を新築し、藩主以下家臣が移り住んだ。高取町の下小島の一帯である。土佐町は、下小島の西側に街道沿いに並んで発展した城下町である。城には、城番のみが詰めるという状態が最後まで続く。

●下小島にある元家老、中谷氏の屋敷長屋門

    ●高取城の縄張り

 高取城は、山頂を均して本丸を置き、そこから四方に伸びる尾根筋に二の丸、三の丸、大手郭、壺坂口郭、吉野口郭などの曲輪を幾重にもめぐらす。本丸は高さ10数mの石垣が四囲にそびえ、その上に三層の天守閣と小天守閣、櫓と多聞が築かれる。東西南北に配された天守閣と櫓が連結する構造は姫路城とも共通する。天守閣は平野部からも望見できたという。
  土佐の城見て雪やとおしやる
  あれが雪かよ土佐の城
 地元に伝わる俗謡に、城の偉観がしのばれる。
 二の丸には藩主の御殿が建ち、三の丸には城代屋敷が設けられた。27の櫓、33の門、1589間の塀を数え、侍屋敷が本丸に通じる道筋を固めた。
 城に通じる口は4ルートである。大手筋は土佐町、下小島から登っていく道である。一の門にあたる黒門から本丸までは2.2km、平均勾配10度、高低差390mある。城内と呼ばれる二の門から本丸に達するまでには12の門を潜らなければならない。
 二の門までには、飛鳥からくる道が通じる。大手筋との分岐点に猿石が立つ。飛鳥の吉備津姫墓の猿石とは異なって、文字通りお猿に似る。やはり、飛鳥から運ばれたのではないかと言われている。二の門脇には唯一の水堀が残り、今も水を湛える。
 この二の門は、麓にある古刹、小島寺の山門として移築され、現在見られる高取城の数少ない建築遺構である。棟通りが柱筋とずれる薬医門で、棟には「丸に一文字割桔梗」の植村氏の紋瓦が据えてある。
 壺坂口門は壺坂寺から通じる道に設けられた。芋峠を通って吉野、多武峰、宇陀方面へ向かうには吉野口門を通らなければならない。


●二の門の脇にある水堀


●二の門を移築した小島寺山門

    ●古墳石室の石を転用

 現在、本丸と二の丸は整備されて広場になっている。しかし、侍屋敷のあった場所は、杉や雑木が茂って昼もうす暗い。いかにも住みづらそうで、高取藩の家中が山を下りた事情がよくわかる。山中の湿気で建物は傷んだことだろう。高取藩は、城の修理を自由にしてよいという特別の許可を幕府から受けたというが、常普請小屋を置いて城の補修に明け暮れたにちがいない。だが、もはや無用の長物と化した「天下の堅城」、200年の長きに渡って守り続けることは、2万5千石の小藩にとって荷が重かっただろう。
 郡山城の石垣は、柱の礎石や石仏、石塔も転用して築いたことがよく知られるが、高取城の石垣にも多数の石が転用された。転用石は、本丸の算木積みされた角石に集中して見られる。石垣の石にしては不自然である滑らかな表面加工や面取り、また必要ではない切り込みや彫り込みのある石が、それである。その特徴からして、もとは古墳石室の石であったようだ。飛鳥周辺の横穴式石室がその供給源になったのだろうか。
 高取城は、明治維新を過ぎても建物は残り、明治20年頃の姿を写真で偲ぶことができる。迫り上がる石垣の上に漆喰の壁が幾重にも伸び、櫓が重なって聳える。壮観にして美麗。見るほどに見とれ、見飽きない。
 城の建物が破却されたのは明治24年。柱や梁は古材として売却され、夥しい瓦が山中に遺棄されたという。

●本丸石垣の転用石、中央
●参考 「高取町史」 「大和高取城」多賀左門(日本古城友の会) 「高取城覚え書き」河上邦彦(明日香風85)
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