奈良歴史漫歩 No.030 尼寺廃寺の巨大な心礎 |
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●東を正面にした法隆寺式伽藍が出土 日本一大きいと言われる心礎が、二上山近くの田んぼの中に埋まっている。奈良県香芝市尼寺で出土した心礎は、東西、南北ともに3.8mの幅を持ち、厚さは1.2mを測る。ほぼ8畳の部屋に匹敵する大きさの石である。 この心礎が出土した周辺では、古い瓦が多量に散布していて、古代の寺院跡と見られてきた。地名から「尼寺廃寺」と称されてきたが、本格的な発掘調査が香芝市教育委員会によって行われるようになったのは、平成3年(1992)からである。心礎も平成8年の調査によって、地中から姿を現したのである。 心礎のある場所は小高く土が盛り上がっていて、版築を施した塔の基壇である。基壇には、心礎を含めて13の礎石が残っていた。四天柱礎石は4個ともに残り、大きさは1.3〜1.8mである。側柱礎石は12個あるうち8個が残り、最大で2.3m×1.7m、最小で1.5m×1.0mであった。柱の間隔はいずれも2.36m(唐尺8尺)である。 3間の初層1辺長は7.08mになる。古代寺院の現存する塔と比較すると、法隆寺五重塔・6.39m、薬師寺東塔・7.03m、興福寺五重塔・8.84mである。ちなみに遺構となるが、飛鳥の山田寺は6.6m、同じく飛鳥の大官大寺は15mと言われる。 大官大寺の九重塔は高さも100m近いと推定されているが、塔の平面規模と高さとは比例関係にある。法隆寺五重塔が32.5m(相輪含む、以下同)、薬師寺東塔が34.1m、興福寺五重塔が50.8mであるから、尼寺廃寺の塔は高さから言えば、薬師寺東塔とほぼ同じであったと推測できる。 塔の北側からは、南北約16m、東西10mを測る金堂跡と見られる基壇が確認された。塔と金堂を囲む幅約5mの回廊基壇も検出され、南北約72m、東西約39mの規模をもつ寺院の中核ゾーンが突きとめられた。 回廊と基壇が東西よりも南北に長いことからわかるように、寺の正面は東向きである。したがって、伽藍配置は法隆寺のように塔と金堂が並行して建っていたことになる。講堂や他の建物については全くわかっていない。 |
●尼寺北廃寺の塔基壇 |
●創建は7世紀中頃か 実は、この寺跡から南へ約200m離れた一帯からも7、8世紀の瓦や礎石が出土して、ここも寺院跡と考えられている。しかし集落があるため、調査は進まず、はっきりしたことはわかっていない。 南北に分かれた寺院跡の間は谷状になって、ここからは遺物や遺構は出ていない。また調査によっても推定幅約10mの河川跡が見つかったことで、南北の寺院跡はつながらず、それぞれ別の寺として考えられている。 北の遺跡は尼寺北廃寺、南の遺跡は尼寺南廃寺と呼ばれる。 尼寺北廃寺の創建年代の手がかりになるのが、多量に出土した瓦である。一番古いのが、坂田寺式の単弁8弁蓮華文軒丸瓦で、塔に葺かれていた。ここから、創建は650年前後から660年頃と推定される。 次に古いのが、金堂を葺いた川原寺式の複弁8弁蓮華文軒丸瓦であり、塔の葺き替えに使われたと見られる藤原宮式複弁8弁蓮華文軒丸瓦も見つかっている。瓦は焼け落ちた状態で埋まっていたので、8世紀の前半には火災にあってすべて焼失したと思われる。 |
●心礎の柱座の復元模型、木炭を敷く(二上山博物館) |
●聖徳太子ゆかりの寺?、それとも敏達天皇系王族の寺か? 尼寺廃寺が注目を浴びるひとつの理由は、ここが聖徳太子建立7寺のひとつ、葛木寺ではないかという説が出たことによる。葛木寺は、葛城尼寺、妙安寺、般若寺、片岡寺、片岡尼寺と名前を変えつつ存続したことが、複数の文献からたどることができるという。 尼寺南廃寺の推定範囲にある般若院には毘沙門天立像が安置されているが、その背中には「華厳山般若院片岡尼寺」という墨書がある。これも尼寺廃寺=葛木寺説の傍証となる。 法隆寺のある斑鳩町と聖徳太子御廟のある太子町を結ぶ街道は、「太子葬送の道」と呼ばれているが、尼寺廃寺のすぐ東側に寺と接するように街道が通る。お寺が東向きなのもこの街道を意識したからだろうと言われる。今にいたって聖徳太子の地元であるような意識が強いこともこの説が受ける理由かもしれない。 しかし、橿原市の和田廃寺が葛木寺であるという有力な説もあって、尼寺廃寺=葛木寺説も決め手に欠けるようだ。 また、この地域は7世紀になると敏達天皇系の王族が進出したと言われる。敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子が広陵町にある牧野(ぼくや)古墳、孫である茅渟王(ちぬのみこ)が尼寺廃寺の南へ1kmの平野塚穴山古墳に葬られたと考えられており、尼寺廃寺も王族ゆかりの寺であるという説もある。ちなみに推古天皇亡き後、天皇の系列は敏達系に移る。 |
●心柱地中部分の復元模型(二上山博物館) |
●柱座に残る舎利荘厳具 尼寺廃寺の創建者にも関心はあるが、それ以上に私の興味を引くのが、巨大な心礎である。心礎は地中にあるから直接見ることはできないが、香芝市の二上山博物館に出土物とともに模型があるから、その状態を知ることができる。 心礎の中央には直径78cmの柱座をうがち、四方に半月形の添え柱の穴が張り出す。花びらにも見える特異な形がまず目を惹くが、法隆寺若草伽藍の心礎も同じ形であり、飛鳥の橘寺の心礎も出っ張りは3つ(添え柱も3本)であったが、似た形である。 柱座の深さは北で約8cm、南で約15cmあり、穴の底には5cmの厚さで炭が敷きつめてあった。心柱の湿気による腐食を防ぐためと見られる。 炭の上から舎利荘厳具が散らばって出土した。金の耳環12点、水晶玉4点、ガラス玉3点、刀子1点である。散布状態から、心柱の根元付近に埋納孔をえぐって納める、心柱と柱座の隙間に納める、心柱と添え柱の間に挟み込むという3通りの方法が取られたことが推測できる。 心柱と添え柱を囲む添え板の痕跡も土に刻まれていた。幅8〜15cm、厚さ5〜7cmの板が、地中の柱をぐるりと取り囲んでいた。柱の安定を高め、また保護する目的があったのだろうか。 ●心礎に込められた仏塔の意味 ここで思い出すのが、飛鳥寺の心礎である。 飛鳥寺の心礎は、東西2.6m、南北2.4m。中央に約30cm四方の穴を穿ち、さらに穴の東側面に龕(がん)状の穴を設けて、ここに舎利容器が納めてあったと推定される。 7世紀の寺院の塔の多くは、地中に心礎と舎利を安置し、心柱も地中から立ち上がる。8世紀になると、心礎は地表面に出て、舎利は塔の上に納まるようになった。 言うまでもなく、仏塔は、釈迦の遺骨である舎利を埋納したインドのストゥーパに起源がある。心礎、舎利、心柱、ストゥーパを模した伏鉢(ふくばち)を含む相輪は一体であり、塔の中心をなしていわば本質である。建物部分は、その中心を保護する器ということになる。中心と器は、構造的にもそれぞれ独立しているが、この構造自体が塔の持つ意味をドラスティックに表現する。塔がシンボライズしているのは、もちろん舎利に託された釈迦である。 尼寺廃寺の心礎の実用性を越えたスケールは、即物的な興味をかきたてるとともに塔が本来持つ意味に改めて気づかせてくれる。
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●塔基壇遺構平面図と断面図 ●尼寺廃寺伽藍遺構図、上の網のかかった区域が北廃寺、 |
●参考 「尼寺廃寺塔跡」「聖徳太子と古代の甍」二上山博物館、「国宝と歴史の旅8」朝日新聞社、「日本仏塔集成」濱島正士 |
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