奈良歴史漫歩 No.032      行基でつながる頭塔と土塔
 
      
        
    
●似たもの同士の土の塔
    
 前回(No.31)の「奈良歴史漫歩」では堺市の大野寺を取り上げたが、「奈良歴史漫歩 No.18」は奈良市の頭塔を報告した。両者は土でこしらえた仏塔として、管見の限りでは、日本でただ二つの遺跡である。両者ともに最近の発掘調査で、重要な新事実が浮かび上がっている。従来、両者は別々のものとして、ことさらその関連性を論じるということはなかったように思うが、これによって、両者の関連を強く意識せざるを得ない段階に来ているように思える。

 二つの塔を改めて比較すると、その形態がよく似ていることに驚かされる。

 大野寺土塔は土を盛り上げて13段に築き、各段の上表面は瓦で葺く。頭塔は2時期に分かれるが、下層頭塔は3段、上層頭塔は7段に復元され、同じく各段の上表面は瓦で葺いてあった。

 土を四角錐の形に盛り上げて、各段の表面を瓦で葺くというユニークな形態は、何に由来するのだろうか。朝鮮半島や大陸にもそのような遺制は今のところ報告されていないようだから、余計このふたつの遺跡が際だった存在に思えてくる。

 建造時期はほぼ同じ、所在地も隣り合った両者が似ていて、それがまったく偶然であるというのは如何にも不自然である。他に3つとない、独特な形態だけに両者の何らかの関連を疑う方が自然だろう。

 もちろん、両者の相違点も目立つ。高さは9m前後と似ているが、基壇の1辺は土塔が53mで傾斜は緩やか、一方頭塔は32mしかなく急角度である。土塔は側面に土嚢を積んで固めたが、頭塔は自然石を積む石垣である。

 また、上層頭塔には奇数段に合計44体の石仏が配置されていたが、土塔には認められない。下層頭塔からも1体の石仏が発見されている。

 土塔の建造時期は、「神亀四年」銘の瓦の出土により、行基年譜にあるとおり大野寺が創建された神亀4年(727)を上限とする頃に求められる。

 そのユニークな形態の出所は、土師氏の土木技術と仏塔という観念との出会いによる折衷の賜物と推測したのであるが(「奈良歴史漫歩No31」)、文字瓦に着目すると、さらにもう一つの意味が見えてくる。土の塔に瓦を葺くのは、本物の仏塔を真似るとともに、知識の結集の証として瓦に名前を刻むことが、集団の情熱と活動を高めたにちがいない。行基が創建した山城の山崎院跡からも文字瓦が出土しているが、無名の民衆にとって、我が名を刻んで永遠に残せる瓦は特別な意味合いをもち、行基集団もそれを利用して知識衆の結集を図ったのだろう。

●頭塔全景

    ●造東大寺司が行った頭塔の造営

 頭塔からは文字瓦は出ていない。出土した瓦は東大寺創建期瓦と同笵である。下層頭塔の造営は天平宝字4年(760)に開始されたと推定されるが、その工事にあたったのは、造東大寺司管下の造南寺所である。南寺とは、東大寺の南にあたる地で造営中であった新薬師寺のことである。

 最初の頭塔はなぜか7年後の神護景雲元年(767)に、実忠和上によって全面的に改造される。「東大寺要録」には、実忠和上の業績として「新薬師寺の西の野に塔一基を造立する。良弁僧正の命を受けて国家のために行った」と記録される。同じく「要録」の新薬師寺の項目に「実忠和尚が西の野に石塔を建てる」とある。

 頭塔が、造東大寺司のもと国家的プロジェクトとして造営されたことは明らかだ。特に、実忠和上が関わった上層頭塔は、44体の石仏、塔の全面を覆った石垣、頂上の心柱をもつ施設の存在など手の込んだ工事となって、民間の寄進で造営された大野寺土塔よりもより仏塔らしい外観を呈している。

 頭塔には実忠和上のアイデアも付け加えられているだろうが、オリジナルなプランは別のところにあった。760年に造営された下層頭塔がオリジナルプランにあたるが、この年、この場所に何故このような土を盛り上げた塔が造られたのだろうか
 
  天平勝宝4年(752)に大仏の開眼供養会が壮行されたあとも、大仏本体や伽藍の造営が進められた。東大寺境内の整備が一段楽し、周辺の開発に着手されたのがこの頃といわれる。南寺の造営やその境界の西端に設けられた塔も周辺開発の一環として見ることもできるが、それにしても何故「土の塔」かという疑問は残る。

●土塔全景 

    ●「頭塔}のオリジナルプラン

 瓦葺きの土の塔という特異な構造物は、すでに30年前の和泉に出現し、おそらく「知る人ぞ知る」存在だっただろう。行基は聖武天皇の篤い信頼を受けて大僧正に進み、彼に従う憂婆塞、憂婆夷も多数得度して、大仏造営に関わったにちがいない。彼らの中には、大野寺と縁のある者もいたことだろう。「東大寺要録」の造寺材木知識記に登場する、銭一千貫を寄進した板茂真釣は和泉の人であるが、土塔の文字瓦に「板持某」という人名が残るという。

 大仏完成の暁に、造営に関わった行基の信徒たちが企て建立したのが、後に頭塔と呼ばれることになった土塔である。直接の証拠はないが、この想像の誘惑には抗し難い。頭塔のある場所は、大仏と東大寺南大門を結ぶ南北線と平城京四条大路の延長線がほぼ交わる位置である。平城京外京を見下ろす高台にあって、行基が葬られた生駒山麓の竹林寺は真西に来る。

 生駒山は、行基には深い縁のあるなじみの山だ。生母の病療養のため滞在していた生馬(生駒)仙房で母を看取ったのが和銅3年(710)、この地は大和と河内を結ぶ暗がり越え奈良街道が近くを通る。折しも、遷都したばかりの平城京の建設が進行中で、人とモノが激しく行き交う現場を目の当たりにしたことだろう。行基は、生駒山麓の街道沿いに寺院を建立し、生涯の布教活動のスタートを切った。養老元年(717)に時の政府から名指しの警告を受けた後もこの地を動くことはなかった。行基が終焉の地に生駒を選んだのも理由のあることだ。

 夕方、頭塔のある高台に立って西を望むと、日没の逆光線が生駒山のシルエットを際だたせる。1240年前の昔、土でできた仏の塔に礼拝しつつ、遙か生駒の麓に眠る聖を偲ぶ人たちがいた場面を思い浮かべる。想像というよりも幻想かもしれないが、奇態な土の塔が私の中で生き返るような気がする。

 下層頭塔は土木工事としてはずさんであったという。それが改めて実忠和上の再造営を必要とした理由のひとつであったらしい。最高の技術と体制を備えた造東大寺司が手がけた造営にしてはいささか不審である。もっと華麗で洗練された仏塔をいくらでも造れただろうに、あえて泥くさい素朴な土塔を選んで造営する必然性はどこにあるのだろう。だが、それも表に出せない事情があるとするなら……。

 実忠和上は土塔に仏塔としての意匠を与えたが、大方の人には受けいられなかった。すでに平安時代末には、玄肪の首塚伝説が流布していたというから、気味の悪い存在であったようだ。土の塔に瓦を葺くという形態は、機能的にも意匠としてもやはり不自然なのだ。浸水して瓦は崩落し、草木は生い茂ってすみやかに自然に帰っていくことだろう。土の塔が普及しなかったのも当然かもしれない。




●頭塔越しに奈良市街を見る。遠景には生駒山が。
●参考 「史跡頭塔発掘調査報告」奈良文化財研究所 「東大寺要録」国書刊行会「行基事典」国書刊行会 
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