奈良歴史漫歩 No.033  平城宮第一次大極殿の復元   

      

 平城宮第一次大極殿正殿の復原工事が、平城京遷都1300年にあたる2010年の完成をめざして進んでいる。その建築現場の一般公開が、建築を担当する文化庁によって7月中旬の3日間に限り実施された。巨大な素屋根にすっぽり覆われた中で、大極殿は初重の柱44本が立ち上がり、初重の組み物や庇の格子天井を組んでいる最中だった。高さ3.4mの基壇の上に、国産檜の直径71cmの太い柱がラインを立ち揃えて並ぶ光景からも、完成の暁の大極殿の壮麗さが想像できた。



朱雀門越に見る大極殿復元現場の素屋根
  ●ふたつあった平城宮の大極殿

 大極殿は、天皇の即位、天皇が出御して元旦の朝賀、外国使節の辞見、政務の報告を受ける告朔、受位や任官など行う宮の中心にしてもっとも重要な建物である。中国の制度を移入して、律令体制をスタートさせたばかりの当時の支配層は、大極殿を中心にした空間で繰り広げられる政治的な儀式に統治行為の正統性を託したとも言える。

 大極殿は天皇号が成立した天武天皇の時代に誕生したといわれるが、明確に遺構として確認できるのは、藤原京においてであるが、16年間しか続かなかった。平城京以降の長岡京、平安京にも大極殿は建ったが、律令体制の変質とともに有名無実化していく。したがって、大極殿が実質的に機能したのは、奈良に都がおかれていた時代である。

 平城宮には大極殿がふたつあった。現在、復元中の第一次大極殿とその東側に基壇が復元されている第二次大極殿である。平城京遷都の当初からふたつの大極殿は存在したのであるが、第一次大極殿が朱雀門の真北に所在するために中央区大極殿とも呼ばれ、第二次大極殿は東地区大極殿とも呼ばれる。

   ふたつの大極殿は宮が所在した70年間に複雑な変遷を示すが、天平12年(740)の恭仁京遷都の際に第一次大極殿も移築された。5年後の還都で、東地区の大極殿が礎石柱の建物に改築された後は、中央地区に大極殿が建つことはなかった。東地区に復元された基壇は、その時に改築された大極殿のものである。

 ふたつの大極殿を比較すると、まず明瞭に相違するのは、大極殿を囲む回廊で区画された大極殿院の構成である。東地区の大極殿院は狭くて、東西と北は内裏外郭部に囲まれる。南の閤門(こうもん)を境にして十二朝堂が建ち並ぶ朝堂院が続く。この構成は、藤原宮の大極殿院と朝堂院にそっくりである。

 中央地区の大極殿院は、大極殿正殿とそのすぐ北に建つ後殿が院区域の北に寄り、そこから竜尾道と呼ばれる東西のスロープの降り着く場所に広大な広場が設けられる。百官が整列して儀式を行うのに十分なスペースのように思える。大極殿院の南回廊に開く閤門は朱雀門と同じ規模であったが、さらに両脇に重層の楼閣がそびえていた。それに接して、南北に長大な四堂朝堂が建つ朝堂院が広がる。

 中央地区の大極殿院は内裏と切り離されて、それ自体独立した区間として、平城宮の中心を占める。中央区大極殿と朝堂院の構成は、平安京では豊楽院に引き継がれたといわれる。豊楽院は、大極殿での儀式の後に開かれる饗宴のために設けられた施設である。

 中央区大極殿が第一次大極殿と称されるのは、奈良時代の前半に機能し、後半には東地区の大極殿がもっぱら使用されるようになったからであるが、平城京と奈良時代を代表す建物であることは間違いない。



●大極殿の基壇と初重柱、北側





●初重の組物、巻斗はケヤキ
   ●免震装置を採用して古代建築を復元   

 さて、完成は6年後となる大極殿の概要を見ておこう。
 中央区大極殿院は奈良時代の後半に内裏の西宮となり、その時の工事で大極殿の遺構の痕跡はほとんど残っていない。わずかに基壇と階段の地覆石の痕跡が検出されただけである。また、第一次大極殿を移築した恭仁京大極殿の遺構も復元の手がかりになった。

 身舎は桁行7間(17尺等間)、梁行2間(18尺等間)、庇は15尺となる。したがって間口9間(149尺=約44m)、奥行き4間(66尺=約19,5m)の平面規模がある。

 基壇は東西181尺(約53m)、南北98尺(約29m)、高さ3,4mの二重基壇となる。北面に幅17尺の階段が3基、東西に幅18尺の階段が各1基、南面には幅38尺の階段が1基付く。

 凝灰岩の破片が多量に出土していることから、基壇は凝灰岩による壇正積みと推定された。復元に際しては、鉄筋コンクリート造りの本体に、兵庫県竜山産の凝灰岩を貼り付けて外装にする。礎石も竜山石を使用するが、四隅には大阪府能勢の花崗岩を用いる。

 建物本体の復元は、同時代の現存する建物が手がかりになる。朱雀門の復元でモデルになった法隆寺金堂、薬師寺東塔がここでも主要なアイデアを提供する。また、時代は少し下るが、平安時代の「年中行事絵巻」や文献なども参考にされた。

 当時のもっとも格式のある建物の通例で、重層入母屋造りの屋根は本瓦葺き、棟の両端には鴟尾がのる。また、棟の中央には宝珠がのるが、これは目立つだろう。

 建物の北と東西は壁と扉で塞がるが、南面は全面吹き放しとなる。

 中央に高御座(たかみくら)が据えられる建物内部は、極彩色に輝くことになるだ
ろう。木部はすべて朱に塗装されるが、天井板は蓮をモチーフにした文様で彩色される。胡粉で塗装された白い下地に岩絵具でひとつひとつ文様が手描きされる。その数、7000個。原画は日本画家の上村淳之氏による。

 古代の建物の復元で問題となるのは、現在の安全基準との適合性だ。大極殿の復元ではこれを解決するために、免震装置を基壇の中に据え、地震の建物への衝撃を和らげることが図られた。これにより、建物は古代の建築構造に近い設計になったという。

 建物の形や材料を古代の姿に近づけるばかりではなく、その工法においても一部伝統的な方法が採用された。奈良時代にはまだ鉋はなく、表面を平滑にするにはヤリガンナを用いた。復元する大極殿の柱も表面はヤリガンナで仕上げている。その独特の粗い手触りは朱雀門で体験できる。

 一般公開では、原寸場も公開された。床に「実物大の設計図」である原寸図を描き、軒の反り、柱、組み物等の部材の曲線、納まりなどの細部を実物大のスケールで検証していく伝統的な技法が、ここでも採用される。もちろん、素人の人間がちょっと見学して理解できるものではないが、どちらかと言えばこのアナログ的で素朴な作業が、大極殿のような大構造物をつくるプロセスで欠かせない要素になっていることに感動した。


●初重の格子天井





●天井の文様、モチーフは蓮
●参考 第一次大極殿建築工事一般公開配付資料/文化庁 「平城宮第一次大極殿の復元設計」奈良文化財研究所紀要2003
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