奈良歴史漫歩 No.043   甘樫丘の入鹿邸

 「果たして蘇我入鹿の邸宅がここにあったのか?」。誰しもがこんな思いにいっとき浸った見学会であった。奈良文化財研究所が、奈良県明日香村の甘樫丘の東麓で行った発掘調査の見学会が、2005年11月16日にあった。新聞で事前に大きく報じられていたため、平日に関わらず、見学者の人並みは途切れることなく4500人が訪れたという。

    
●7世紀の掘建柱建物が出土

 蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣連鎌足により誅殺され大化改新の幕開けとなった事件は、古代史のなかでも一番のハイライトであるから、その舞台の跡かもしれないとなれば、関心を呼ぶのも当然である。

 甘樫丘は、飛鳥寺や浄御原宮が所在した狭い盆地の西を塞ぐ丘である。飛鳥川の左岸に位置して、現在は国営公園になり、山頂からの素晴らしい眺望が人気を呼ぶ観光スポットでもある。調査は公園整備の一環として行われた。

 現場は、麓から北西に入り込む谷である。近年まで棚田や果樹園として利用されていた。今回の調査では、3カ所に調査区が設けられ、幅5m、総延長145mのゾーンが調べられた。

 7世紀の掘建柱建物6棟(見学会の時点では5棟であったが、後で1棟追加された)と掘建柱塀1列が検出された。建物の全体規模がわかったのは1棟のみで、梁行2間(柱間約1.8m)、桁行5間(柱間約2.1m)である。同じ場所に建物が重複したケースもあるので、2時期以上の変遷があるとされる。遺物は調査区全体から土器片などが出土しているが、建物の時期をさらに限定するまでには至らなかった。2カ所の溝跡から焼け土や炭も出土している。また、7世紀に谷が大規模に整地され均されていることも確認された。

 しかし、大きい期待をもって駆けつけたわりには発掘の成果は地味であり、これらは入鹿邸に直接結びつくものではない。

    
●7世紀中葉の遺物が混じる焼け土

 今回の調査区とは東側に隣接する場所から多量の7世紀の遺物が、1994年の調査で出土した。上層の整地層の溝からは7世紀後半の土器、円面硯、滑石製勾玉など。下層の焼け土からは7世紀中葉の土師器、須恵器、焼け壁土、焼け焦げた建築部材がまとまって出てきた。しかし、建物跡は見つかっていない。

 報告書では、「7世紀中葉の焼け土層は、……調査区北方の尾根上に存在した建物の焼失に伴う灰燼の投棄、もしくは流れ込みにより形成されたものと考えられる。」とある。さらに7世紀後半になって、この場所は2度にわたり丘を切り土して大規模な埋立をおこなったとされる。また、同時期の「多量の遺物のあり方から、調査区西方の平坦地(今回調査された地区)、もしくは南・北方の尾根付近に何らかの施設が営まれていた」と推定されている。

 同じく報告書は、焼け土と中に混じる遺物を考える手がかりとして、「日本書紀」に記述された甘樫丘の蘇我蝦夷・入鹿邸および「乙巳の変」での火災との関連を指摘する。

甘樫丘所在地図


掘建柱穴が7尺間隔で出土した建物1、柱の列をテープで示す


調査区の谷は7世紀に整地され平坦になった。谷の奥から谷口を見る。谷口で10年前、焼け土に混じった7世紀中葉の遺物が出た
    ●甘樫丘に焼け落ちた蘇我父子の砦

 「日本書紀」皇極天皇3年(644)条には、「冬11月に、蘇我大臣蝦夷、児入鹿臣、家を甘樫丘にならべたつ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰ふ。入鹿が家をば、谷の宮門と曰ふ。……家の外に城柵を作り、門のほとりに兵庫を作る。門ごとに水盛るる舟一つ、木鉤数十を置きて、火の災いに備ふ。つねに力人をして兵を持ちて家を守らしむ。」と出てくる。上の宮門(うえのみかど)と谷の宮門(はさまのみかど)は一体の、地形を利用する一種の砦であろうか。

 皇極4年6月12日、蘇我入鹿は、三韓の調をたてまつる儀式と偽られて宮中に参内し、天皇の前で斬殺された。中大兄は入鹿の屍を蝦夷のもとへ送りとどけ、飛鳥寺に軍陣を敷く。蝦夷の側では、漢直(あやのあたひ)が一族をあげて戦闘準備に着くが、高向臣国押(たかむくのおみくにおし)が戦いの利あらぬことを説いて去ると、漢直もそれにしたがう。

 翌13日、状況を悟った蝦夷は火を放つ。「蘇我臣蝦夷等、誅されむとして、悉に天皇記・国記・珍宝を焼く」。さいわい、国記は船史恵尺(ふねのふひとえさか)が持ち出して助かった。この時、上と谷の宮門、蝦夷邸と入鹿邸も焼け落ちたと考えるのが合理的だろう。

 もし調査地区に入鹿邸が見つかれば、日本書紀が伝える「乙巳の変」が考古学的に裏付けされることになる。当該場所は、推定の板蓋宮(いたぶきのみや)とも至近の距離にあって、谷の北側に張り出した尾根は地図で見ると三方が崖、頂上が平坦になって砦を築くには適した立地条件に思える。

 今のところ、入鹿邸の存在は憶測の段階である。可能性として論じられるにも、さらに調査が必要だ。宮門と呼ばれた邸宅にふさわしい建物か施設、あるいは木簡や墨書土器、蝦夷が焼いたという珍宝などの出土が手がかりになるだろう。調査は継続されるようなので、次の報告を楽しみに待ちたい。

 

遺跡の近くから東を見る。右手の森が旧川原寺裏の丘陵、正面遠方の家並みが明日香村岡地区でその手前に板蓋宮や浄御原宮があった

現地見学会資料
参考 「甘樫丘東麓遺跡現地見学会資料」奈良文化財研究所 「奈良国立文化財研究所年報1995」 「日本書紀第4巻」岩波文庫
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