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解体修理中の唐招提寺金堂の現場見学会が、平成17年11月初旬に実施された。平成14年5月に第1回目の見学会が行われて、今回が4回目になる。工事は解体から組み立てへと移って、柱が立ち上がり、組み物も2手先まで積まれた様子が公開された。全体の完成は平成21年(2009)になる。 ●天井裏の新部材で建物を補強 金堂は、軒先の瓦や葺き土の重みによって、柱の内倒れと組み物の変形と回転という構造的な問題が生じていた。大地震が来れば倒壊のおそれもあり、解体修理に至ったのである。構造的な欠陥を解決するために採られた対策は、新たな補強部材を天井裏に取り付けることである。 軒先の荷重で柱の頂部に建物内側に向かう水平力が生じる。庇天井部に平面トラスを入れて、この力を分散させる。これを、両サイドに組み込んだ方丈によって受けとめる。方丈にかかる力は上方へ押し上げる力に変わるが、さらに棟方向に垂直の屋根トラスを組んで、屋根の荷重で押さえ込む。また軒先の軽量化も図られる。 これらの補強工事は、天井・屋根の組み立てが行われるこれからとなるが、見学現場では建物模型を使って説明されていた。 ●鴟尾を新調 金堂には創建時の鴟尾が大棟西端にのり、鎌倉時代(元享3年/1323)の鴟尾が東端にのる。唐招提寺のシンボルでもある「天平の甍」であるが、ふたつとも損傷がひどいため新調された。創建時の鴟尾を忠実に復元した平成の鴟尾が初めて一般公開された。鴟尾の背には次のような銘文が刻まれている。 以往古鴟尾裂損金堂解體修理之間拠舊 規造替之願大和上過海之鴻圖與此鴟尾 不巧 平成十五年歳次癸未四月八日 ちなみに、役を降りた鴟尾は新宝蔵に安置されて、何時でも見学できる。 |
金堂の模型で補強策を示す。白い部材が新たに入れる補強材。 新調なった平成の鴟尾 |
●金堂創建は延暦年間か 建物の解体というまたとない機会を利用して、奈良文化財研究所が建築部材の年輪年代測定を行った。伐採年代が推定できる辺材が残っていた部材は15点。721年から781年を示した、なかでも、原木の伐採年代を推定できる樹皮が残っていた地垂木3点は、いずれも781年(宝亀12年)に伐採されたという結果がでた。 金堂の創建は早くても780年代半ばということになる。これまで金堂の創建は宝亀年間(770〜781年)という説が有力であったが、年輪年代測定の結果は延暦年間(782〜805年)の創建をほぼ確定するものとなった。 承和2年(835)に著された「唐招提寺建立縁起」では、金堂の造立は少僧都如寶が「有縁の壇主を率いて」建立したとある。如寶は鑑真にしたがって来朝したときはまだ20歳に満たない憂婆塞であったが、東大寺戒壇院で受戒している。鑑真の法統を継ぎ、宝亀5年(774)に戒壇院の第二世戒和上に就任する。 さらに如寶が唐招提寺の第四世の住持になったのは何時かわからないが、延暦年間その任にあった。延暦23年(804)には、如寶が唐招提寺に律講を開き、その所用料として水田60町田地13町をあてることを奏して勅許を得た。延暦16年(796)には三綱の律師、大同元年(806)には少僧都となる。大同5年(810)には五重塔が完成しているから、唐招提寺がこの時をもって伽藍の整備が完了したことは確かである。如寶が亡くなったのは弘仁6年(815)であるから長寿を全うした。 如寶は桓武天皇や后妃、皇太子に菩薩戒を授けていて、空海とも親交があったことが知られる。朝廷の帰依深くして政治力にも富んだ如寶が、一番活躍したのが延暦年間である。金堂を始めとして今に残る唐招提寺伽藍の整備が、この時期に行われたと見ることに不都合はないだろう。 |
金堂の組み立て風景。2手先まで組みあがった ●唐招提寺所在マップ ●歴史漫歩No37「東朝集殿を再生した唐招提寺講堂」 ●歴史漫歩No35「2重基壇だった唐招提寺金堂」 |
参考 「唐招提寺講金堂保存修理事業現場見学会資料」奈良県教委 「奈良六大寺大観唐招提寺」岩波書店 「唐招提寺」学生社 他 | |
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