dear my angel 〜6〜
寒い・・・
肌に直接当たった空気でブルッと身震いをする。
それでも私は未だ夢の中にいた。
夢といってもストーリーがあった訳ではなく。
感情だけは鮮明で、すごく切なくて悲しいくせに、同時に何故か幸せで。
自分が今夢の中にいるんだと自覚できるほど不思議な空間にいた。
夢の中で私は身体が宙に浮いたようにふわりふわりとまるで雲を飛び渡っているように歩いている。
ここは何処だろう・・。あたり一面何処を見回しても全く同じ景色。
空のように広くて果てはどこまでも続いてるような気がするのに、空の絵を天井や壁一面に書いた部屋に押し込まれてるような気もする。
進まなきゃ・・。
進めば先が見えることは何となく分かった。でもここから出るのが怖い。
足を出しては戻す。夢の中の私はそんな行為を繰り返していた。
大丈夫・・・・飛び出した結果、奈落の底でもこれは夢なんだから。
何を根拠に「夢」と断定できたのか分からないが、幸いにもそう思えることによって少しだけ恐怖が和らいだ。
まず手を前に伸ばし、そのまま上体を倒していくと動かなかった足がバランスを失って身体ごと崩れていった。
落ちる!
そう思って目をギュッと閉じたとたん―――
パシッ
「・・痛っ」
痛っ・・って?
今確かに「痛っ」って聞こえたよね。
そう言えば私何かを叩いたような・・・
閉じた目を恐る恐る開けてみる。
何これ?
目の前の物体に触れてみる。
柔らかくてすべすべしてほんのり暖かい。
何故か肌寒かったためギュッと頬を寄せて何度も擦った。
気持ちいい。小さい頃お父さんに抱っこされて安心した肌のぬくもりに似てる。
肌のぬくもり・・?
肌・・・。
ガバッ!!
今私が触ってるのが誰かの肌だと言うことを直感し、咄嗟に跳ね上がるように起きた。
「お早う。よく眠れた?」
目の前の顔に硬直する。
「・・ちゃん?」
「・・・・・」
「?」
もう一度名前を呼ばれて我に返った。
「あ、はい。」
「くすっ・・。ねぇ、その姿勢さ、朝から随分刺激的なんだけど。」
言われて自分の姿を顧みる。
起き上がった拍子に毛布がお臍の下までずり下がり、上半身・・・というかかなり際どい所まで丸出しのままお兄ちゃんと向き合っていた。
「ぎゃあ!」
私は慌てて毛布を翻して頭からその中に潜り込む。
だけどそこには当然お兄ちゃんの身体もあるわけで。
私は毛布を被ったままお兄ちゃんの方を見ないように顔の向きを変えた。
寒いわけだ。私は、いや私たちは何も身に纏わず、つまり素っ裸のまま朝まで一枚の薄い毛布で眠っていたのだ。
さっき擦ってたのはお兄ちゃんの肌・・・。
心臓がどきどきする。
何処触ってたんだろう・・。へ、変なとこじゃないよな?
どうしよう・・・私。昨日お兄ちゃんと・・・セッ・・クス・・したんだ。
一夜明けると頭が冷静になる。
そう、昨夜私は見知らぬ男に乱暴されそうになって、間一髪のところでお兄ちゃんと裕太に助けられた。
気が付いたらこの部屋にいて、気が付いたらお兄ちゃんに迫っていた。
それでそのまま―――
ああ、さっきの夢の意味が分かった。私の潜在意識が夢になって現れたんだ。
辺り一面何処まで行っても同じ・・。
あれはお兄ちゃんそのもの。
私にとってお兄ちゃんは全てだった。けれどいつのまにか拘ってしまってたのも事実。
広いようでいて閉ざされた空間。
お兄ちゃんと言う部屋の中から出れなくなってしまっていた。
恋人ならそれでもいい。でも・・・それは私ではなく別の人。
だからそこにいると凄く幸せなくせに、同時に切なくて悲しくて胸が張り裂けそうになる。
外に出なきゃならない。夢の中の私がしたように。
ここにいれば淋しいだけ・・。
「ちゃん、もう出ておいで。」
潜ったままの私を気にしてお兄ちゃんが毛布を少し捲くった。
「うん・・」
昨夜あれだけの姿を曝しておいて今更・・・とは思うけど、それでもやっぱり恥ずかしかった。
何時までもこうしていたって仕方ない。
観念してもそもそと外に出ると傍にあったパジャマの上着でそっと身体を覆ってくれた。
何故?――いつもそう。私のことは手に取るように分かるんだね。
こんなに自分を理解してくれる人と一緒にいれないなんて、やっぱり悲しすぎる。
私の頭をそっと撫ぜるお兄ちゃんに思わずこのまま甘えてしまいたくなる。
だめ、リセットするのよ。
まず謝らなきゃ。
お兄ちゃんや彼女の気持ちを考えられなかったこと、きちんと謝って、自分をリセットさせる。
前を見つめよう。どうにもならないことを何時までも振り返っていてはいけない。
そうすれば少しずつ忘れられるかもしれない。
そしていつか他の誰かを愛することも出来るかもしれない。
懐かしく振り返ってあんな時もあったってきっと思える。
「ごめん・・ね。」
お兄ちゃんは私の言葉に手を止めた。
「ごめんって・・なんで?昨日も言ってたよね。」
何時になく真剣な瞳で私を真っ直ぐ見つめてくる。
「だって、とんでもない我侭言っちゃった・・。」
「・・・やっぱり後悔したの?」
「後悔?」
そんなこと思いもしなかった。
後悔なんてしていない。昨日の夜も、お兄ちゃんを好きになったことも――
同情、哀れみ、慈悲・・お兄ちゃんがどんな気持ちで私を抱いたのかは分からない。
分からないけど私を受け入れてくれた・・その事実に嘘なんてなかった。
それだけでいい。それだけで十分嬉しかった。
「後悔なんてしてないよ。私、幸せだったもの。でも・・後悔する日が来ればいいって思う。振り返って・・後悔するほど・・好きになれる人が出来・・ればいいって思う。」
泣いちゃだめ。
ちゃんと謝って、最後まで自分の気持ちを伝えて、それで終わろう。
そうすれば初恋の淡い想い出として心の中に鍵を掛けることが出来るような気がする。
「――」
「ごめんなさい。ごめんなさいお兄ちゃん。自分のことばっかりで、他は何も考えられなかった・・。許してなんて言えないけど・・でも私、謝る以外どうすることも出来きない・・彼女にも申し訳・・なく・・て・・。」
途切れてしまった言葉。
最後くらいしっかりしようと思うのに、どうしても涙が溢れて声にならない。
ひくひくと泣いてる自分が情けなくて、なんとか言葉を搾り出そうと顔を上げると、お兄ちゃんはいつものように私の涙を優しく拭ぐいながら言った。
「僕が何の感情もなくあんなことしたと思ってるの?」
「だって私、大それたこと・・・・え?・・」
今なんて・・?
「・・どういうこと?」
「どういうことって・・。」
お兄ちゃんは呆れたように溜め息をついて続ける。
「さっきから何を言ってるの?・・彼女って・・?」
質問してるのはこっちなのになんで問い返されてるのだろう。
「だから・・テニス部の・・」
「それより何で他に好きな人作るわけ?」
返事を待たずして突然思い出したように投げられた台詞―――なんか不機嫌そう・・に見える・・んだけ・・ど?
「・・あの・・でも、その方がお兄ちゃんも安心・・でしょう?・・」
「僕が?何でっ!」
気のせいじゃない。お兄ちゃん怒ってる。
何で怒るの・・。自分はしっかり恋人がいるのに。ずるいよ・・そんなの。それじゃ何時までたっても苦しいだけじゃない。
「だって・・、だって!お兄ちゃん私のこと放っておけないんでしょ。そんなんじゃ香坂さんだって可哀想だよ。私だって!・・可哀想だよ。二人の幸せそうな姿をずっと横で見てろって言うの?必死で言い聞かせてるのに。必死で諦めようとしてるのに!酷いよ。お兄ちゃん酷い!」
私の中で何かが壊れる。
悲しいやら、腹が立つやら訳が分からなくなって浮かんだ言葉を次々吐き捨ててしまった。
お兄ちゃんは急に大きな声で叫んだ私の台詞を聞いて暫く考えるように黙り込む。
それから大きく息を吐いて一言。
「何を聞いたの?」
冷静に考えたらさっきからの会話の辻褄があっていないことが分かる。
私に対するお兄ちゃんの気持ちも何となくだけど分かった。
『何の感情もなくあんなことしたと思ってるの?』
そんな風に言うって事は何らかの感情があるからという訳で。
さっき怒ったのも私が勝手に作り上げた未来像の『好きな人』へのヤキモチなんだと思えば・・・。
あのお兄ちゃんが信じられないけど。
つまり私の恋は実っていたってこと・・・みたい・・。
勘違いの経緯を聞いてお兄ちゃんはくすくす笑う。
「なんだか楽しそうね。」
「そんなことないよ。」
と言いながらどう見ても満面の笑みなんですけど。
そりゃ勝手に思い込んで一人悲劇のヒロインになってた訳だけど、昨日の私は真剣に悩んだんだから。苦しくて切なくて悲しくて、私の人生終わりだ!くらいの勢いだったんだから!それをそんなに朗らかに受け止められたら、ムカつきもします。
自分の顔がぷぅっと膨らんでいることが自覚できた。
「あんな台詞聞いたら誰でも誤解するわ。『僕も好き』とか言ってたじゃん!」
「確かに言ったけど、『好き』にもいろいろあるでしょ。彼女は信頼なるパートナーだからね。あ、『親愛』じゃなく『信頼』だよ。し・ん・ら・い!」
「わ、分かってるわよ!!」
悔しい!両想いって分かってもちっともロマンチックじゃない。
何処までいっても私より上手なんだから。
私ばっかり弱みを掴まれてお兄ちゃんは隙をみせない。
喋れば喋るほど、ムキになればなるほど転がされるような気がする。
「でもまさかちゃんあそこにいるなんて思わなかったな。」
「私だってあんな場面に出くわすなんて思わなかったもん。」
「入ってくればよかったのに。」
「そんなことできるわけないじゃない。できたら勘違いなんてしなかった訳だけど・・。立ち聞きなんてした罰があたったんだね。ホントにごめんなさい。」
「もう、いいよ。勘違いって分かっ・・・・」
言い掛けた言葉を止めて、お兄ちゃんは急に真剣な眼差しで私に聞いた。
「もしかしてそれが原因であんな男の車に乗ったのか?」
「ち、違うよ。確かに勢いで他の男の人にも目を向けようとは思ったけど・・・私が浅はかだったの。普段皆に守られすぎて無防備になってたんだ。」
「・・ごめん。」
そう言ってギュッと私を抱きしめる。お兄ちゃんのせいじゃないのに。
昨日のことを思い出したのか私が無事でよかったと腕に籠められた力が物語っていた。
そのぬくもりに包まれて改めて気付く。
お兄ちゃんに弱みがあるなら、もしかしてそれは私自身?
ううん、自惚れじゃなくてきっとそうなんだ――
「私ってホントにバカ・・。」
誰よりも想ってもらってたのに、愛してもらってたのに。
気付きもしなかったなんて。
あまりの大バカで嫌になっちゃう。
「僕の好きな人にバカなんて言わないでくれるかな。」
優しい声が耳に届く。
僕の好きな人――
枯れた土に水が沁み込んでいくような響きだった。
「やだ・・。」
嬉しくて、でも気恥ずかしくてお兄ちゃんの胸に顔を埋める。
ふっとそれを持ち上げられて
「好きだよ。」
初めて聞いたお兄ちゃんからの愛の言葉。
優しいキスと共にお兄ちゃんの心が降りてきた。
―――――――――
「美味しいよ。」
「あ、ありがと・・・」
ただ野菜を盛り込んだだけのサラダにわざわざお褒めの言葉を頂いたら恥ずかしくなってしまう。
でも視線を合わせられないほど照れくさいことでもなかろうに。
私は下を向いたまま黙々と同じものを突っついていた。
けれど「美味しい」のかどうか味なんて全く分からない。
それは恥ずかしい理由が他にあったから。
世の中のカップル達は皆どうなんだろう。
目の前のこの人のようにいつもと何も変わらず平平としてられるものなんだろうか。
それともいつまでも余韻を残してしまう私が好色なだけ?
ついさっきまでの出来事が頭から離れない。
好きだよ――
初めて聞いたお兄ちゃんの気持ち。
嘘のような展開にすっかり酔ってしまって、そして流されるようにそのまま身体を預けてしまった。
正直自分がこんなに雰囲気に呑まれやすいとは思いもしなかった。
いくら相手が大好きな人でも昨日までキスさえした事がなかったのに・・。
昨夜ですっかり官能に火がついてしまってたのか、お兄ちゃんが触れるたび身体が反応してそれ以上を求めたくなった。
我を忘れて――まさにその言葉通り。
どうせならそのまますっかり忘れ去ればいいものを、済んだ後に冷静に思い出してしまうから性質が悪い。
自分が出していた声やどんな姿勢をしていたかも事細かに蘇ってくる。
身体が熱い。顔が上げられない。お兄ちゃんが真っ直ぐ見れない。
「・・ちゃん?ちゃん!!!」
「・・・・・・」
突然目の前に手が伸びてきた。
「ぎゃあ!!」
驚いて大きな声を上げた瞬間、幸か不幸か顔も上げることが出来た。
「その驚くときに出す声、せめて濁点は外したほうがいいよ。」
「あ、そうか・・な。そうだね。あははは・・」
どうしよう。今度は顔を何処に向けたらいいか分からなくなった。
そのまま硬直したように止まったしまった私、手に持っていたフォークだけを何とか必死で動かした。
「あのさ・・」
「なななな、なあに?」
「もう入ってないよ・・。」
フォークで突っついてたのは空っぽになったサラダボウル。
カチャカチャ音だけが鳴っていた。
プッ――
その笑い方は・・・どうせまた見透かしてるんだ。
ええい開き直ってやる!
「だって、恥ずかしいんだから仕様がないじゃない!」
「別に何も言ってないよ。」
「私が何考えてるか全部分かってるくせにっ!!」
頬に熱がさらに篭った。真っ赤な顔をしてる自分が分かる。
それを見てお兄ちゃんはただ、くすくす笑うだけ。
もうだめ、限界。どんどん墓穴を掘ってるような気がする。話題変えよう、話題。でも・・・
あ〜ん!思いつかない〜〜〜。
齷齪しだした私への助け舟がいいタイミングで鳴った。
お兄ちゃんのケータイ。
「ちょっとごめん。」と席を立ち上がる。
お陰様で強制終了できたことにほっと安堵の溜め息が出た。
少し冷めたミルクティに口をつけた瞬間、さっきのケータイの着信音から忘れてたことがふっと頭を掠める。
「あ・・」
しまった!すっかり忘れてたけど、無断外泊してしまった。
外泊って言ってもお兄ちゃんちだからきっと「またか」で済まされるかもしれないけど。
でもそれは絶対的信用があるからで、昨夜と今朝のことを考えると信用を盾に騙してるような気になる。
かと言って、「昨日男に乱暴されそうになった後、お兄ちゃんに消毒してもらいました。」なんて話せるか?
しかもおばさまもお姉ちゃんも昨日からお留守のようだし・・。
幾ら幼馴染でもやっぱりこの展開はまずい・・・よね。
両親になんて説明したらいいのかあれこれ考えていたら、
「何ぶつぶつ言ってるの?」
話を終えてお兄ちゃんが戻ってきた。
「家に何も連絡してなかったの。どうしよう・・。」
「連絡ならしたよ。珍しくおじさんが出た。昨日のこと話すべきかとも考えたんだけど、何もなかったんだし心配かけるだけかとも思って。とりあえずうちに泊めるってだけ連絡したんだ。」
「そう・・なんだ。」
「母さん達がいないことも断っておいたから心配ないよ。」
「お父さん何も言わなかった?」
「う・・・ん。」
困ったように笑うお兄ちゃんを見て嫌な予感がする。
父がまた突飛なことを言いだしたのだと想像がついた。
「何を言ったの?あの人。」
「・・・『赤ちゃんだけは気をつけてね』って。」
何ですって〜。
私は父の台詞にわなわなとなった。
「あんの、親父ぃ〜〜!!それが父親の台詞か!」
絶対的信用があるなんて思った私がバカだった。
娘を売る父親が何処にいるか。迎えに行く位の事言えないのかしら。
「そんなに怒らなくても。実際おじさんの言う通りになっちゃったわけだし。」
「そ、それはっ!・・・・そうだけど・・。」
「僕もまさかあんなことになるなんて思ってなかったもんだから、『信用ないなあ』なんて笑ってたんだけど・・、でもあんな風に誘われたら理性も吹っ飛ぶと思わない?」
「なっ、・・だって・・・でも今朝のはお兄ちゃんからだったでしょっ!!」
「そう?僕はキスしただけだよ。手を回してきたの誰だっけ?」
「あれはっ、・・・・・」
面白がってる。
慌てて言い訳を考えてる私を絶対面白がってる。
「もうっ!!お兄ちゃんなんて大っ・・」
「大?」
「だ・・い・・」
「ん?」
「す・き・・。」
負けた・・・。完敗だ。
でも好きなんだから仕様がない。嫌いなんてやっぱり言えないよ・・・。
恥ずかしくて、悔しくて、そのまま俯いた私を後ろからすっぽり包むように優しさが覆う。
「嘘だよ。僕も・・いや、僕が抱きたかったんだ。が好きだから。」
背中越しに聞いた声。
が好きだから・・・
間違いなく私にだけ向けられた言葉。
世界で一番好きな人にそんな事言われて酔わないわけがない。
後ろから回されたお兄ちゃんの腕をしっかり抱きとめる。
そのまま、振り返ってもう一度キスをした。
「赤ちゃんなんて考えなかったな・・。」
「それは僕が悪かった。ごめん。」
「そんな・・・。」
「心配?・・だよね、やっぱり。」
実際現実になると大変では済まないけれど、今はまだ幸せの余韻に浸っていたい。
ちょっぴり申し訳なさそうに覗き込むお兄ちゃんに
「大丈夫、もしもの時は責任取らせちゃうから!」と明るく言った。
「もしもじゃなくても・・。」
「え・・?」
目をじっと見つめると「なんでもない」ってくるりと後ろを向いた。
もしかして、ちょっとだけ照れてる・・の?
もしもじゃなくても―――
未来を匂わす色が仄かに染まっていく。
「さあ、早く食べてしまおう。」
もういつもの顔に戻っている。
「うん。」
くすっと笑いながらお兄ちゃんの前にもう一度座った。
ホントにそんな日がくればいい。
いつか私たちの未来――――
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