最後の恋 5


翌朝、寺下のマンションのインターフォンが鳴った。

「はい」
「朝から、申し訳ありません。不二由美子と申します。周の姉ですが・・」

結婚式は来年の4月に行われる。
正式に婚約をしてから寺下は不二家にも幾度も訪れたが由美子とは会ったことがなかった。

「突然申し訳ありません。どうしてもお話したいことが」

由美子の行き成りの訪問に寺下も何事かと驚いた様子だった。

「・・とにかく、どうぞ」

出発を控えた今、部屋の中はすっかりがらんどうである。

「すみません、その辺に適当に座っていただけますか。もう全部運び出してしまったので」
「いえ、お忙しい時にお邪魔してしまって」

由美子は簡易に置かれた座布団の上にそっと腰を下ろした。
緑茶とお茶菓子が由美子の前に差し出される。

「あの、どうぞお構いなく」
「いえ、こんなものしかありませんが、よかったら。でも出発前にまだこんなものを買い込んでます。密かな楽しみなんですよね」
「まあ、ふふっ」

口に手を当てて軽やかに笑う様は不二にとてもよく似ていた。
不二より年齢が上なだけあって、その仕草にはより洗練されたものを感じる。
婚約者の不二もこの上なく可憐で、美しさと可愛さをあわせ持つような美人である。
外を歩いていると皆が振り返って不二を見るほどだ。
しかし寺下にとってはまだ幼さが残る年齢。正直、その美しさに男の本能を擽られると言うよりは、可愛い女の子のイメージの方が強い。
だが目の前の由美子は優美で、それでいて大人の色香を漂わせ、思わず見蕩れてしまいそうになるほどだった。

「それで、僕に話したいこととは?」
「ええ、周のことなんですが・・・。突然ですが、このお話なかった事にしていただけないでしょうか」
「なっ・・・」

目を逸らさず真っ直ぐ見つめる由美子の真剣な表情。
研ぎ澄まされた瞳に宿るその迫力に寺下は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐ平静を取り戻し由美子に真正面から向き合った。

「何か事情があるようですが、はい、そうですかという訳にもいきません。理由をお話願えますか」

落ち着いて返答する寺下は、不二や両親が言うように大人を感じさせる。
行き成り何を言うのかと非難も覚悟の上だったが、寺下は落ち着いて事の成り行きをまず理解しようとしてくれていた。

由美子は大きく深呼吸して全てを話し始めた。

「実は・・・」






「お邪魔いたしました」

マンションのドアがパタンと閉められた。
途端、よほど緊張してたのか由美子は一気に崩れるように横側の壁に凭れ掛かった。

これからどうなるのか分からない――。
しかしもう後戻りはできない。全て話してしまった。

見合いは妹ではなく自分に来た話だったこと、
昔の恋人を忘れるために結婚を決めたこと、
そして今でもその彼を忘れられず苦しんでいること。

後は寺下の決断と不二の気持ちだけだ。

「すぐには何とも・・・」

さすがに返事を濁した寺下だったが、由美子は思う。
この人なら妹の隠れた気持ちを分かってくれるかもしれない。
いい人と妹のお墨付きであったが、寺下という男性には「いい人」で片付けられないような大きさを直感した。
その勘を信じたい。
どうか周をお守り下さい―――後は神に祈るしかない。








出発の朝を迎える。
結局あれから寺下からの連絡はなかった。
何も知らない不二はスーツケースを玄関先に準備し寺下の迎えを待っている。

「何かあったら連絡するのよ」
「大丈夫だよ、一人じゃないんだし」
「でも昼間はあなた一人でしょう。危ない所行っちゃダメよ。身体にも気をつけてね」

目に涙を溜めて心配する母親。

「もうっ!夏休みが終わったら帰って来るんだよ。結婚するのは来年の春なんだから、今からそんなんでどうするの」
「分かってるけど・・・」

父も母もいよいよ出発する娘にその結婚が現実として漸く実感できるようになってきた。
まして日本を離れて遠くへ言ってしまう寂しさは隠しようのない事実。
特に母は今回の出発が近づくにつれ、毎日涙を浮かべて心配した。

「僕が結婚したら帰ってくるように裕太に言っとかなきゃ。手のかかる息子が戻ってきたら、僕のことなんて考えてる余裕なくなるから。ね、姉さん」
「え?ええ、そう・・ね」
「どうしたの。さっきから上の空・・・・あ、来た」

寺下が着いたようだ。
一先ずリビングに通された寺下が由美子を見て軽く会釈する。
由美子もそれに同じく会釈で返すが、その面はどことなく浮かない。

「姉さんに会うのは初めてだよね。どう?綺麗でしょ」
「・・・うん。そうだね」

寺下の様子もいつもと違う。

「二人ともどうかしたの?」
心配そうに尋ねる不二に寺下は微かに笑みを返し、目の前にいる不二の両親に静かに言った。

「申し訳ありません。スイスへは僕一人で行きたいと思います」


突然の寺下の申し出に不二も両親も絶句する。

「な・・んで、一人で行くってどういうこと?」

不二は驚きを隠せず寺下の腕を掴んで言った。
父親も寺下に問いかける。

「それはどういうことなんですか」
「あのね、父さん、実は―――」

慌てて由美子が割り込んで説明しようとしたが、寺下は軽く手を前に出してそれを制止した。

「つまり婚約を解消していただきたく思っています」

先ほどからの寺下の言葉が信じられなくて不二は全く声が出ない。

「何か・・、周が何か不始末でも・・?」
代わりに母が震えるような声を寺下に投げかけた。

「とんでもないです。周さんは僕には勿体無いくらいのお嬢さんです。すべて僕の気持ちの問題です」
「何をおっしゃるの、寺下さん。違うのよ、父さん。結婚をやめて欲しいって言ったのは私なの。寺下さんは何も悪くないんです」

「由美子、お前・・・」
これもまたあまりに唐突な娘の告白に父も言葉を詰まらせる。
どういうことなのか、状況を理解することが今ひとつできない。

「きちんと説明しなさい」
由美子に向けられた父親の低い声に今度は不二が口を開いた。

「姉さん、もしかして昨日の事・・。僕が泣いたから?手塚を・・・好きって言ったから?」
「周・・・私ね・・」

「今、手塚と言ったのか。どういうことだ、周?お前まだやっぱり忘れてないのか」

姉の言葉を遮って父が不二に問いかける。


「僕は――」
「周を責めないで。人を想う気持ちなんて自分で制御できるものじゃないのよ」
「子供のくせに生意気言うんじゃない。それなら何故他の人間と婚約などするんだ」
「周は手塚君とどうこうしようなんて思ってなかったわ。寺下さんとやっていくつもりだったのよ」
「それならお前が何故、横からそれを壊すような真似を――」

父が荒げた声を由美子にぶつけかけた瞬間、寺下が叫ぶように言った。

「待ってください。結婚をやめたいのは由美子さんから聞かされた話が理由ではありません」

寺下のその言葉で高まっていた親子の感情がすっと静まっていく。

「いえ、それがきっかけにはなったのですが・・・実は、僕にはずっと好きな女性がいました」

「寺下さん・・。」
驚く不二を見て寺下はふっと笑う。

そして今まで聞いたこともない話を語りだした。

「ずっと片思いというやつをしておりまして、この見合いを最後に気持ちに決着をつけようと思ったんです。釣書が届いて驚きました。まさか大学生の方だなんて思いもしませんでしたから。幾らなんでも僕が相手では可哀想だと初めはお断りするつもりで参ったんです。けれど見合いの席に来た周さんを見て気持ちが揺らぎました。驚くほどに彼女に似ていたからです。色白で、涼しげな目元、何よりも笑った顔がそっくりで。正直戸惑いました。彼女の事は諦めたつもりでしたが、周さんにその面影をいつの間にか重ねてしまった。胸の内を秘めたまま、結婚が決まり酷く罪悪感も覚えましたが、周さんの可愛らしさに少しずつ魅かれ、いつの間にか本当に大切だと思うようになっていたんです。けれど昨日由美子さんとお会いして、周さんへのその気持ちが妹のようなものだということが分かりました。そして僕自身彼女のことをまだ忘れてないことにも気付かされました。いい年をしてと笑われるかもしれませんが、僕は彼女とは話をしたこともありません。もう14年も前です。父の仕事の関係でレセプションパーティに参加したことがあったのですが、その時同じく父親に連れられて来た女の子に一目惚れをしたわけです。それからも幾度か同じようなパーティでお会いしたのですが、結局言葉を交わすことはなかった。彼女がどんな女性かも知らないまま、彼女の面影だけを追い求めて、ずっと想い続けていたわけです。そして昨日僕は初めて彼女と言葉を交わすことができました。彼女は僕の思っていた通りの人だった。たおやかで心優しくそして真っ直ぐ芯のある、そんな女性でした。妹の為に一人で男の家へ乗り込むなんてなかなかできることではありません。」

「え?」

黙って一緒に話を聞いていた由美子が顔を上げる。
同じく不二も。

「寺下さん、まさかその人って・・・姉・・さん・・?」

寺下は不二に笑いながら言う。

「三十男の最後の足掻きだったんだよ。なかなか結婚しない僕に両親がやたら見合いを勧めてね。それで僕も条件を出したんだ。不二家のご令嬢ならって。まさか妹の方になるなんて想像もつかなかったけど。ふふっ、見合いなんかに頼らず一か八かアタックしてみたら・・・いや、それでも同じことだっただろう。ね、周ちゃん、お姉さんが昨日言ってたよ。周にもっと心が弾むような恋をしてほしいんだって」
「姉さん・・。」
「僕もね、同じように思うんだ。君はまだ若い。もっと冒険するべきだ。失敗してもいいじゃないか、勇気を出して踏み出してごらん。大切な君だから僕と同じ思いはしてほしくない。後は自分に正直になるんだ、気持ちのままに」

そう言って寺下は封筒を差し出した。
中を見た不二は寺下の顔を見つめたまま何も喋ることができない。

「僕が出来ることはここまで。ここからは一人で行くんだ。大丈夫だね、君は本当は強い子だから」
「て・・した・・さ・・」

やっとのことで搾り出した寺下の名前も涙で掠れてしまう。

寺下が不二に渡したもの、それは――――
ロンドン行きのチケットだった。

「もうこんなおじさんだけどね、僕もこれから見つけようと思うんだ。最後の恋人と呼べる人を」

最後の恋人――不二に向けられた手塚の気持ち。
寺下も聞いていた。手塚が不二へ掛けた想いを。
そして飛び出せと背中を押した。

「長くなってしまいました。両親へはあまり時間がなく今朝慌しく電話しただけですから、このような形で任せるのも心苦しいのですが、後日ご挨拶に参ると思いますので」

思いもよらなかったこの展開に不二の両親も何を言ってよいやらわからず、ただ促されるままに納得せざるを得なかった。

「周ちゃん、元気で。きっと幸せになるんだよ」
寺下はいつもの笑みで不二に言葉を掛ける。
そして由美子に軽く頭を下げ、そのままリビングを後にした。

玄関先で母の見送りの声が聞こえた後、ドアがパタンと閉められる音が残された不二の耳に届く。
なんて切ない響き。
あの優しかった寺下が自分を置いて行ってしまう。
もう会えないのだろうか。ついさっきまで長い未来を共に行く人と信じていたのに。
最後の最後まで不二の幸せを願って、自分の身を引くことすら厭わなかった人。
寺下が幸せにならなければ、その上に胡坐を掻くことなどできない。
どうすればいい?今ならまだ・・・・だけど彼を幸せにできるのは・・・・、

ガタンッ――

いきなり由美子が立ち上がり部屋を出る。

「え?姉さん・・・。」


すごい勢いで閉められた玄関のドア。
形振り構わず走り、向かった先は空港行きのバスが来るバス停だった。
角を曲がるとちょうどバスが着て、寺下が乗り込むところが由美子の目に飛び込んでくる。

「待って!待ってください!!」

あと少しで追いつく所だったのにギリギリのところでバランスを崩し倒れこんでしまった。
非常にもバスは出発してしまう。
はあ、はあ、息を切らしてその場で座り込んだまま動けずにいる由美子に伸ばされた手。

「全く無茶なことをされる。怪我はないですか?」
「はい・・・」



由美子が彼の最後の恋人になるのかはまだ分からない。
だが新しい恋の風が今ここに吹き出した。








不二はリビングのソファに座ったまま寺下から受け取ったチケットを眺めていた。
母が優しく不二の肩を叩く。

「行って来なさい。もう迷うことないでしょう」
「でも・・」

父親はショックを隠せないまま部屋に篭ってしまった。
不二は自分が父を傷つけてしまったのではないかと酷く気にしているのだ。

「大丈夫よ。ちょっと驚いただけと思うわ。すぐけろっとして出てくるわよ」
「う・・ん・・」
「全く親子ね、由美子の性格はお父さんそっくりだわ。くすっ――本当はね、お父さんもこの結婚随分気にしていたの。あなたには好きになった人と結婚させてやりたかったって」
「父さん・・が・・?」
「ええ、手塚君のことずっと気にしていてね。あのインタビューも見てたのよ。そう思うんだったらすぐにでも連れ去りに来いって。もう時間がないんだぞって、テレビに向かって何度も言うの」
「・・・・・・・」
「娘を奪う相手なんてホントは憎くて仕方ないくせに。でもね、子供の幸せを願わない親なんて何処にもいないわ。だから・・・・・行ってらっしゃい」

初めて聞いた父の気持ち。
涙が止めどなく溢れて自分の思いを綴ることも感謝を伝えることも出来ずにいる。

「ほら、手塚君の連絡先を調べないといけないわ。ご実家に電話したら教えてくださるかしら」

電話の子機を持って中学時代の名簿を探す母に言う。
涙を拭いて、しっかり前を向いた。

「いいよ、母さん。自分でする。これは僕がやらなくちゃ。自分の幸せは自分で掴んでみせる」
「そう」

にっこりと微笑む母の顔は『頑張りなさい』と娘へのメッセージをこめた力強いものだった。


皆に支えられてここまでやってきた。でもこれからは自分の力で進まなきゃならない。
掴みたい幸せは誰のものでもない、自分だけのものだから。
唯一分け合えるとしたら、それは・・・手塚―――
もう、迷わない。

手塚が好き―――その気持ちだけを胸に、今彼の下へ。








ロンドン、ヒースロー空港―――

飛行機を降りた後、乗客の流れに従って歩く。
間違いなどないだろうが、右も左も外国の空気だ。一気に不安が押し寄せてきた。
海外旅行の経験は何度もあるが、たった一人で日本の外に出るのは初めてだった。
他の飛行機の乗客も混じり、次第に視界に映る外国人の数が増えていく。
最もこの場合、外国人は不二の方なのだが。
簡単な日常会話なら理解できる・・・と思っているが、実際はどうだろう。
入国審査で聞かれることは分かるだろうか。

「サイトシーイング・・だっけ?でも観光に来たわけじゃないしな。じゃあ何て言おう。手塚に会いに・・ってそんなこと具体的に言ってどうするの。そもそも僕っていつまで滞在するんだろう。帰りのチケットのこととか聞かれるのかな。持ってないって言っても大丈夫かなあ」

一人ぶつくさ呟いてる様子を周りが見てることにも全く気付かない。
それだけ不二は一人の緊張と戦っていたのだ。

入国審査、一見怖そうな黒人の係員。
心臓がドクドク音を立てて騒ぎだした。

パスポートと入国カードを渡し、何やら言われたような気もしたが、引き攣り気味に得意の笑顔を作って見せると「OK!」とあっさり通された。
はあ〜っと溜め息を付き、自分の小心さにどっぷり疲れる。

「ああ、もうこんなことでどうしよう。空港を出たらおばさまに教えていただいたホテルに行かなきゃならないのに。とりあえずタクシーに乗ったらいいんだよね。黒タクに乗れば安全だって姉さんも言ってたし」

黒タクとはロンドンでは有名なクラシカルな黒いイギリスタクシー。黄色のものや違うタクシーも見かけるが、黒タクなら間違いないと言われている。
由美子が予め行き先を書いたメモを持たせてくれた。それを運転手に見せさえすればホテルに運んでくれる。
とは思うけど、やっぱり無事に辿り着くまでは不安と緊張でいっぱいだ。
しかも手塚の居場所は分かったものの、もしいなかったらどうしよう。
入れ違いでロンドンを出発しているなんてこともなくはないだろう。
やはり、きっちり本人と連絡をつけてから来るべきだっただろうか。
けれど、もし会わないと言われたら・・・・。

不二の一番の不安は結局そこにあった。
仮にスムーズに到着しなくても、行き先は明確。路頭に迷うまでは行かないだろう。
例え行き違いになって会えなくても、なんとか日本に戻るくらいは不二にだってできる。
怖いのは、本人に拒否されること。
手塚を信じてないわけではない。インタビューでの言葉は間違いなく彼の本心だった。
そうでなければ手塚があのような場で、あんな事を言うはずがない。
だけど、気持ちが移り変わるのも恋愛。たったの一日で心奪われる恋だってあるのだ。
ウィンブルドンの最終日から3日、あの4年を思えばたったの3日に過ぎない。
だが不二にとっては途轍もなく長い時間、自分の人生がまさに変わったと言ってもいい3日間だった。
手塚にとっても、新しい人生が訪れた可能性が十分にある。
心臓をぎゅっと掴まれたような、お腹の下がむずむずして、身体の内側が熱くじんわり痺れるような感覚が、不二にずっと付きまとっていた。



入国審査を経て、預けていた荷物を受け取る。
申告するような持込品など何もないので、難なく税関検査もクリアできた。


いよいよだ。

『きっと幸せになるんだよ』寺下の最後の言葉を思い出す。
『頑張りなさい』母の笑顔を思い出す。
自分の為に立ち上がってくれた姉。最後まで心配をかけた父。

ここからは一人、でも皆の優しさが、皆の応援が付いている。
だから僕は大丈夫、きっと手塚に逢える。


自分自身に言い聞かせ、キッと前を見据えて歩き出す。
周りの空気も人の喧騒も、何もかも全て飲み込むように力強く踏み出した時―――、


「てづ・・か・・」

空港の人ごみを見回す姿が目に飛び込んできた。
少し不安そうに、落ち着きなく何かを探すその様子は、間違いなく不二に対するもの・・。

「こ・・こだ・・よ、手塚・・。僕は・・ここにいる。」
自然に唇が動き出す。

「手塚っ!!」

大きく叫んだ不二の声に手塚が気付いたのも束の間、突進するように華奢な身体が飛び込んできた。

「不二!」

手塚もしっかり不二を受け止める。
さっきまでの不安も身体の中の渦巻くような感覚も全部吹っ飛んで、
残るのは心臓が揺れる音と熱い思いだけだった。

ああ、これが姉さんの言ってたどきどきするような気持ちかな。
こんな緊張もうごめんだ。だけど―――
今の自分が嬉しくて、幸せで。

すごく気持ちがいい。





ハイドパーク近郊の高層ホテルの一室。
窓からは大きい幹線道路が見えて都会の動きを覗かせている。

「ねぇ、どうして僕が来るって分かったの?」
「ああ、母から連絡があった」
「なるほど。でも空港で手塚の顔を見て正直ホッとした。辿り着けるかどうかものすごく緊張してたんだもの」
「そうか?お前なら大丈夫だろう。自分で思ってるほど臆病じゃない。図太いくらいだ」
「ちょっ、それ褒めてるの?」
「そのつもりだが」

もうっ!と食って掛かった腕を簡単に掴まれてひょいと逞しい胸に押し込まれた。

「よく、来てくれたな」
「手塚・・・」
「お前をもう一度この腕に抱けるなんて思っていなかった」
「彼が・・寺下さんが背中を押してくれたの。自分の気持ちに正直になれって。他にも姉さんや父さん、母さんも・・」
「礼を言っても言い尽くせないな」
「幸せになる、それしかないって思ってるの。家族に心配を掛けた分、そして寺下さんの優しさに報いる為に。それには手塚、君が必要なんだ。協力してくれる?」
「もちろんだ」

不二を抱きしめる腕に力が篭る。
もう離すことはない、離れることも―――


手塚の胸の中で左腕にそっと触れた。

「気付いてあげられず、ごめん・・・」

手塚は黙って首を振る。

「いや、俺が初めに話していれば、お前を苦しめず――」
「もういいの。今があればそれでいい。今の僕達が全てでしょう?」
「ああ」

引き合うように重なる唇。
あの夜のような悲しくて切ないキスじゃない。
辛くて苦しくて体中に刺されるような痛みが走った日々が漸く終わる。
流した涙も、壊れた自分も、どんなに苦い思い出も、今となっては過ぎたこと。
振り返ることはない。今、ここにある想いが真実なのだから。それだけを信じてこれからを生きていく。






「・・・ん・・・」
「起きたのか?」
「僕、いつの間に・・わあ、もう真っ暗!」

すっかり夜の気配に慌てて飛び起きたが、自分の姿に驚いてもう一度シーツに包まった。

「今更隠しても仕方ないだろう。もうばっちり記憶した」
「ばっばか!手塚のスケベっ!」
「なんとでも言え。好きな奴の全部を知りたいと思うのは当然の事だ」
「もう、そんなこと真顔で言わないで・・・んっ・・」

不二がシーツから少し顔を出したのを手塚は見逃さない。
あっという間に組み敷かれ再び熱い唇が降りそそぐ。

「・・んっ・・・・・・ぁ・・」
「そんな声を出すな。やめられなくなる」
「・・・・ここまできて・・・やめられても・・」

ギリギリ聞こえるような小さい声、でもしっかり手塚は聞き取った。

「覚悟しろよ」
「やだ、もぅっ・・・ぁん・・てづ・・か・・大す・・き・・だよ・・」

幸せな時間が過ぎていく。
星降る夜の甘くて優しい一時―――



手塚のシャツを羽織り、窓際まで歩いていった。
少し乱れた髪や、裾から伸びる白くて細い足が月明かりに照らされてやたらと艶気が醸し出される。
だが不純な気持ちよりもあまりの不二の美しさに手塚はただただ見惚れてしまう。
まるで御伽噺から抜け出た姫君のようだった。

「わぁ、綺麗!」

窓から観たロンドンの灯に不二は感嘆の声を上げる。
手塚が傍にやってきてそっと背中から抱きしめた。

「綺麗だねぇ、道を走る車のライトがキラキラしてまるで星の川のよう・・・」
「星の川か・・。そういえば日本はもう七日だな」
「あ・・・七夕だ」
「ああ」
「くすくす―――手塚が七夕なんて、似合わない!」

普段愛想の欠片もないようなこの男が、伝統的な行事を覚えているだけでもなんだかおかしい。

「笑いすぎだ」
「あは、ごめ・・。でも僕、なんだか織姫になった気分」
「織姫?」
「だって、長い間逢えなかった君に、今日逢うことができたんだもの」

一年にたった一度逢瀬を許される恋人達。
まるで自分達は織姫と彦星・・・。

「それは違う。あいつらは七日が終わればまた一年後だ。俺たちはこれからもずっと一緒だろう?」
「そう・・だけど。真面目に答えないでよ。せっかくロマンチックに浸ってるのに。それにあいつらって何よ。織姫と彦星は乾や大石じゃないんだから」

思わずデータ眼鏡と玉子頭が目に浮かぶ。
ロマンチックな空気をかき消してるのは一体どっちだ。
ケラケラと笑い出す不二を見て、手塚は落胆の溜め息が出た。
要するに不二も御伽噺のお姫さまにはなりきれそうにないってことだ。
だが、何よりも深い愛がここにある。


二人の目に映る果てしないほどの街の灯り
夜空に輝く満天の星


 ずっと一緒だよ
 ああ
 ずっとずっとずっとだよ
 ああ



幸せの声が星の川へと流れていく。
涙も悲しみも切なさも、時を超え、出逢えた奇跡に姿を変える。


二人の未来に祈りを込めて、星降る夜に願うこと―――


これが最後の恋でありますように・・・







END / BACK


漸く終わりました・・(~_~;)
七夕の日に再会する・・を書きたかったのですが、こんなにどろどろ長くなってしまいました。手塚がもたもたしてるから悪いんだよ(お前だよ!)
七夕SSの予定が今日は一体何日なのか。でも7月中に終わってよかった。戒めに日付をいれておきまする・・。
お付き合いくださってありがとうございました。         (2005・7・7〜7・19)