with you 6


「もう少しだから、頑張って走れ。」
「うん。」

ばしゃばしゃと水を跳ね返しながら雨の中全速力で走っていた。
激しい雨脚の中、目を開けるのがやっとで周りの景色もはっきり分からない。
ただ目の前にぼんやり映る白い背中といつの間にか引かれた手に導かれ何も考えず進んだ。

「鍵がないよ。取りに行かなきゃ。」

漸く戻ってきた学校。
部室の方へ来たものの鍵が掛かっている。

「こっちに来い。」

手塚は鞄の中から部室の鍵を取り出した。

「持ってるの?」
「ああ、俺と大石はいつも携帯している。」

そうか、君は部長だったねと言いかけた時、くしゅっと小さなくしゃみが出た。
とにかく今はこの雨を凌がないと。
手塚と一緒に扉が開いた男子部の部室へ入り、とりあえず安堵の溜息が漏れる。
次の瞬間、パサリとスポーツタオルが投げかけられた。

「とにかく拭け。」
「ありがと。」

とはいえ、頭のてっぺんからから足の先までびしょぬれ。拭けと言っても髪の水分を拭うのが精々だ。
それに水分を吸いきった制服が身体に張り付いて寒い。
不二はタオルをすっぽり頭に乗せたまま、自分を抱きしめる格好で身を震わす。

「脱いだ方がいいな。何か着替えあるだろう?」

レギュラーウェアはいつも持っている。だが部活が休みだった今日、ロッカーに置いて帰った。

「部室に置いてあるの。やっぱり鍵取ってくるよ。」

雨で屋外で活動する部は殆ど中止になっていたが、文化部や体育館での部活動はまだ行われているようだ。
当然職員室も開いているはず。
不二は鍵を取りに行こうと男子部室を出ようとするが、

「これを着ておけ。」

差し出されたのは男子のユニフォーム。

「でも手塚は?」
「俺は体操着を持っている。着替えたら鍵を取ってきてやるから、一先ずそれを着ておけ。」

確かにちょっと雨に打たれて・・なんて濡れ方ではなかった。
バケツで頭から水を浴びたようだ。こんな姿で校内をウロウロするのも憚られる。

「え、手塚?」

不二が青学を象徴したトリコロールカラーのウエアを受け取ると、手塚は出て行こうとばかりに部室の扉に手を掛けた。

「外に出てるから、早く着替えろ。」
「い、いいよ!大丈夫。手塚も早く着替えなきゃ。」

ずぶ濡れなのは手塚も同じ。そこまで気を遣わせるわけにはいかない。

「しかし・・。」
「後ろ向いててくれたらいいから。ね?」

そう言って不二はくるりと手塚に背中を向け着替え始める。
ぐずぐずしていたら、手塚がまた余計な気を回すから。
目の前で制服を脱ぎだす不二に慌てて手塚も後ろを向いた。

痛いほど身体を打ち付ける雨の中、走っていたのだ。
制服だけでなく下着も取らないと意味がなかった。
部室という狭い空間の中、友達といえど異性の側で裸になるなんて。
平気な振りをしていたが、不二の鼓動は自分の中をうるさいほど反響している。
どうしても気になって、身体をタオルで押さえながら後ろにいる手塚を振り返った。
慌てて前に向き戻る。
ドキリとした。
丁度制服の下に着ていただろうタンクトップを首から抜いているところで、無駄な脂肪のない筋肉質の背中が目に飛び込んできた。
ただでさえ、激しく脈打つ身体に輪をかけて息苦しさを感じてしまう。
この状況がそうさせてしまうのか。
男子の着替えを見ることなんて珍しくもなかったが、こんなにドキドキするなんてこと今までなかった。
自分の今の姿が恥ずかしくて堪らなくなる。耳まで紅潮しながら急いで貸してもらったウエアを被った。

「着替えたか?」
「う、うん。もういいよ。」

向き直って互いを見るが、どう振舞っていいか分からない。
視線を逸らして今の自分を誤魔化すように取るに足らないことを口に乗せた。

「あ・・その、君の体操服姿なんてなんか奇妙だね。」
「何故だ?」

しかし不二の言葉が疑問に思ったのか手塚にしては珍しく不思議そうな顔で聞き返す。

「何故って・・君はいつもレギュラージャージ着てるから。」
「授業中まで着てないが。」

当たり前だ。あくまでもそういうイメージがあるという話で・・・。

「あはは、君ってやっぱ天然だねー。」

やはり手塚と話していたら調子が狂う。
彼のペースに巻き込まれて、色々考えてた事がばからしくさえ思えてくる。
いつもそう。それまでの気分が一転し、自然にいつもの自分に戻れる。

「でも、冗談抜きで君は体育でもレギュラージャージ着たほうがいいよ。」
「どういう意味だ。」
「レギュラージャージがよく似合うって褒めてるんだよ。」

不二のいつもの癖、笑う時は軽く握った手を当ててさりげなく口元を隠す。
楽しそうな姿を見て、手塚も安堵する。
無理やり連れてきてしまった。



あの時―――



『迎えに来てやったぜ。』

不二の相手が誰かは想像がついていた。
だが、そいつを目の前にして否定したい気持ちでいっぱいになった。
不二が跡部とのことで何を悩んでいるのか真相は知らない。だが隣で見せる不二の表情は明らかに戸惑い。
好きと言う気持ちが分からないと不二は言った。
それならば、ここで渡すわけにはいかないと手塚は思った。
月明かりの下、崩れるように泣いていたあの夜を繰り返させたくはなかったのだ。

「悪いが不二は今日は俺が連れて帰る。」
「手塚?」

迷わず言い切った手塚を不二は驚いて見上げるがその瞳は真剣だ。

「ふっ、随分面白いこと言ってくれるじゃねぇか、手塚。」

曰く有り気な跡部の言葉に不二の不安は増していく。
その表情を察して手塚は不二の肩に大丈夫だとばかりに手を置いた。
庇うように見えるその姿勢を跡部は不敵に笑い飛ばす。

「くっ!貴様がどうあろうと関係ねぇ。周、こっちへ来いよ。」

不二の身体が強張ったのを掌に感じとった手塚は、自分の身体で隠すように不二の前に出た。

「どういうつもりだ、手塚。」
「どうもこうもない。不二は今俺といたんだ。部外者は帰ってもらおうか。」
「はん!笑わしてくれるぜ。周は俺の女だ。部外者はてめぇのほうだろ。周、早く来いって言ってるんだ。」

跡部の声色から怒りが増していくのが伝わる。
自分の駒が思い通りにならないのは許せない人だ。
どうしよう。こんな展開になるなんて。
じりじりと緊迫感に押し迫られる。

「行く必要はない。」
「なんだと!」

不二の不安とは裏腹に手塚はきっぱりと言い放つ。
跡部の怒りも頂点に達し手塚の胸倉を掴んだその時、

「やめて!僕・・行くから。お願い・・。」

自分さえ跡部のところに行けば丸く収まるのだ。
手塚にこれ以上迷惑は掛けたくない。
それに、こうして跡部の方から迎えに来てくれることは、自分がずっと望んでいたことだった。
なのに、何故悲しいのだろう。
何故、振り出した雨が心に沁みるのだろう。
前に踏み出す足が重い。これからまた彼に抱かれるのだろうか。
それも自分が望んだ事。
最終的に決めたのは自分だった。結ばれれば愛されてると実感できると思っていた。
でも身体を繋ぐ行為の現実は愛情だけではないことを思い知っただけだった。
欲望、本能、そして色情が憑いて回る。醜いまでの欲を引き出すものでもあった。
男と女の性に対する思いの違いをまざまざと知ってしまった。
決して美しいものではない。だからこそ女は心が欲しいと思うのだ。
でも、何となく分かってしまった。跡部が欲しいのは器だけ。
側で思い通りにできる女が欲しかっただけで、心の中など関係ないのだ。
それが分かっていて、どうして自分は行こうとするのか。

まるで心の迷いを流すように、ぽつりぽつりと雨粒が頬に髪にと降りかかる。
瞳に落ちた雫が涙の代わりに一粒流れた。
不二はゆっくり手塚の横をすり抜けて跡部の前で足を止める。
目の前に立った不二を見て、跡部は勝ち誇ったような笑みを浮かべ己の手を不二に伸ばした。
まるで囚われる寸前だ。覚悟を決めて不二は瞳を閉じる。
瞬間、右腕が横からぐいっと取られ、咄嗟のことで状況を把握できないまま気がつけば走っていた。

「手・・塚?」

手塚のこの行動に驚きつつも、腕を掴まれ彼の速度に引きずられるように動く足を止める事ができない。
跡部を振り返る余裕もなくそのまま手塚に必死で付いていくしかなかった。
どこまで走ったのか、とうとう足が縺れて倒れかけた時、漸く手塚が足を止めた。
前のめりに手塚に倒れこむ。そのまま逞しい腕に支えられ何とか転ばずにすんだものの、息が乱れて言葉がでない。

はぁはぁと漏れる荒い息の中、手塚が鋭い視線を向けて叫んだ。

「何故自分の気持ちに嘘を付く!?」
「・・・え?」
「行きたくないと何故はっきりそう言わない?」
「僕は・・・」

言葉に詰まってしまう。
何故なんて自分でも分からない。
手塚を巻き込みたくなかった。でも多分それだけが理由じゃない。
きっとどこかで自分の気持ちを肯定したいのだ。
彼が好きだと思っていた自分自身を。
身体だけを求められているなんてこれ以上耐えられない。
だけど、一欠片でもいい。
愛情と信じて選択してきたことを間違いでなかったと実感できたら、今の悲しみも幸せに変わるかもしれない。
そんな僅かな期待が自分の中で葛藤していた。

「すまない、大きな声をだして。」

口を噤んで俯いてしまった不二に手塚も我に返る。
黙って首を振る不二。こんな風に苦痛を浮かべた表情をここ数日で何度見たことか。
普段なら余裕ともとれる態度を崩す事など殆どない。それだけ行き場がないということか。
恐らく自分でも何が正しいのかさえ分からないのだろう。
それを問い詰めたところで、不二を余計追い込むだけだ。

「時間をおいたらどうだ?」
「・・・・・」
「無理をしてもいいことはない。自分を嘘で包むことを覚えたら本当のお前は消えてしまうぞ。」
「僕が消える?」

手塚の言葉を繰り返し自問する。
そうだ、跡部といる人形のような自分がずっと嫌いだった。
嫌われたくないという思いが自分を抑えつけた。
抑圧された自分に嫌気をさしながら、どうしても離れることができなくて、招いた結果が今の自分。

「ああ。」
「そうだね・・君の言うとおり。」

顔をあげた不二は笑っていた。
だがまだ答えは出ていないのだろう。
どこか儚げで迷いのある笑みだ。

「余計なこと言ってすまないな。」
「ううん。でも君、・・・恋愛経験ないって割には悟ってるよね。」

ごほっ―――
痛いところを付かれて思わず咽る。

「悪かったな。」

手塚の膨れたような不服そうな台詞に不二もくすくすと声が漏れた。

「そんなことないよ。中学生にして人生悟ってるのが手塚のいいとこじゃん。」
「フォローになってないが・・・。」

ふふっと不二の表情は柔らくなってきたが、雨が随分本格的に降りだしていた。

「本降りだな。」

空を見上げて手塚が言った。

「学校へ戻ろう。」
「今から?」
「ああ、途中まで引き返してしまったからな。家まで走るよりこのまま学校へ戻る方が懸命だろう。」

どちらの家にもまだ距離があった。途中、バスに乗るにしてもこの濡れた姿では少々気が引ける。
学校に行けば、部活のジャージがあるし傘も借りる事ができる。

「そうだね、戻ろうか。」
「急ごう。」

そしてまた二人、雨の中走り出した。
進むにつれて益々激しくなっていく雨。
いつの間にか打ち付けるような斜線に変わっていた。






「お前には大きすぎるな。」

男女の体格差はもちろんだが、手塚は男子の中でも背が高い。
体型としては痩せ型の方だが、華奢な不二と比べるとその差は大きすぎると言ってもよい。
下にハーフパンツを穿いてなければ超ミニのワンピースといったところだ。

「うん。押さえてないと落ちちゃうんだ。ほら!」

そう言って、不二は掴んでいたウエスト部分をぱっと離す。
次の瞬間ばさっと勢いよく足を伝って床に落ちた。

「お、おいっ!」

突拍子もない不二の行動に手塚は思わず声をだすが、

「アンスパのままでもいいよね?これだけ置き忘れて持ってたんだ。」
「俺に聞くな!」

ウェアの裾をちらっと捲って、呑気にアンダースパッツを覗かしている不二を赤くなって否定する。

その時、手塚の視線が一点に止まった。
急にくるりと身を翻して自分のロッカーへつかつか向かう。
何かと思えばレギュラージャージの上着が飛んできた。

「何?」
「それを着ていろ。」
「もう寒くないから大丈夫だよ?」
「・・・目のやり場に困るんだ。」

目を合わさないままぶっきらぼうにぼそりと言われた。自分の姿を顧みる。

「あ・・・。」

今更慌てても時既に遅しだが、上着をさっと胸元に手繰り寄せた。

「ご、ごめん。」
「いや・・。」

何故か謝ってしまう不二と困ったように視線を逸らす手塚。
大き目のシャツの中、不二の身体は泳いでいたが、白が基調のウエアはどうしても身体のラインを映してしまう。
ぼんやりと小さ目の胸が浮き上がっていた。
しかし不二はそれを恥じるよりも、真っ赤になって慌てる手塚の素振りに気が入った。
さっき、もしかして手塚も同じような気持ちだったのかな・・
そう思うと、不二は可笑しくて笑えてくる。

「な、なんだ?」
「手塚は純粋だねえ。」

未だ照れが隠せない手塚をくすくす笑う。

「あ、雨が小ぶりになってきたな。部室の鍵を取ってきてやる。」

相当居辛くなったのだろう。繕って出て行こうとする手塚が益々可笑しい。
可笑しくて、可笑しくて、胸が痛かった。


部室の扉が開いた時、小さな声が手塚に届く。


「君が彼だったらよかったな・・・。」


ノブに手を掛けたままゆっくり手塚は振り返った。


「不二・・?」



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