ざわざわと耳を通り過ぎる喧騒。
足音、話し声、荷物を転がす滑車、未だに慣れない言語のアナウンス。
それぞれの音が入り混じって飛び交う中、歩を進める。
キョロキョロと見渡しながら、辿りついた狭く窮屈な空間。
だが、そこに腰を落ち着けた時、初めて肩の力が緩んだ。
窓から差す日の光。
ああ、次にこの日を見る時は、遠い遠い異国の地―――。

そこで見るだろう光は、想像の中でも眩しくて。
だから心の中で別れの言葉を呪文のように繰り返した。

もうすぐ僕を乗せた翼が陸を発つ。

振り返ってはいけない。
辛くて淋しくて、また泣いてしまうかもしれないけれど。

あなたが好きな笑顔の自分に戻りたいから。
あなたの好きな自分でいるために。
だから取るべき道を決めた。

振り返らない。
決して悲しい別れじゃないから、振り返る必要もない。

だから、さようなら―――

また逢う日まで・・・



LAST DAYS 6


「周・・・?」

目覚めたそこに周の姿はなかった。

昨夜、自分の腕の中で事途切れた周。
薄っすら涙で滲む瞳とは裏腹に、すーっと安心した寝息を立てる姿に、僅かな安堵の気持ちを溜息に変え、手塚もその隣で眠りに落ちた。
確かに感じていたはずの周の温もりを、一体いつ手放してしまったのか。
ぽっかり空いてしまったそこには、今は冷たい感触しかなかった。

「周!」

手塚はリビングへ急いだ。
幾分乱暴に開けたドア、そこに立つ人が何事かと目を瞠った後、

『おはよう、お兄ちゃん。僕の方が早起きなんて珍しいね』

くすくすと笑いながら、いつもの明るい笑顔が手塚に届けられた。けれど―――、
その光景に手塚がほっと息をついた矢先、笑顔も笑い声もその人も全部・・・幻のごとく消えた。

手塚はクローゼットから無造作に取り出した洋服を、半ばやけくそに身に着けて、足早に外へ向かおうとする。
いつもの調子でちょっと散歩に出掛けただけならいいが、何故か酷く胸騒ぎがする。
玄関を出ようとドアノブに手を掛けた時、電話が鳴った。

「こんな時に―――」

少しの時間も惜しい。
そのまま出て行こうかと一瞬迷ったが、もしかしたら周かもしれない。
そう思ってまた部屋へ戻り、受話器を掴んだが、

「はい、手塚―――」

それは期待した声とは違って。

「ご注文いただいていたケーキなんですが、昨日取りにいらっしゃらなかったのでご連絡差し上げてます」

すっかり忘れていた。
昨日の騒動で、ケーキの事なんて全く眼中になかった。
それどころか、結局誕生日もしてやらないままで。

「すみません。後で取りに伺います」

手短に話を終え、手塚は再び外へ向かおうとするが、ある一点に目が留まり、それまでピンと張っていた緊張の糸がぷつんと切れてその場に脱力した。

「周、何故――」

前触れもなく突然やってきたことを思えば、こういうことも覚悟しておくべきだったのだろうが。
それでも、一言もなく帰国することはないだろうと、手塚は周が残していったぬいぐるみを手に取って苦々しく呟いた。







「ごめんね、みっちぃ」

周は今日本へ向かう飛行機の中にいる。
ゴーッと深く響く低い音の中で、小さく呟くように言った。
薄汚れたクマのぬいぐるみは表情一つ変えるはずもなく。
それでも今は、無表情のそれが誰かを思わせるようで、何故か反って安心した。
周はぎゅっとそれを抱きしめて目を閉じる。



*******



『・・・・ん・・』

周は無意識に身体を束縛する腕から逃れようと身じろぎをした。
それでもその腕は逃がさぬとばかりに周を包んで離さない。
ほんの少し窮屈で、それでも心地よい温もりの中、周はゆっくり瞼を上げた。
まだはっきりしない思考のまま、至近距離にある顔を見て、周は首を傾げる。

『・・・・?・・』

そこから僅かに聞こえる安らかな呼吸音。
ドイツに来てから毎日隣で眠ってはいたが、手塚より先に目が覚めることなど一度もなかった。
こんな風に擁かれて眠っていたなんて・・・。

『あ・・そうか』

周は昨夜の出来事を思い出して、かぁっと頬を染める。

・・でも・・・、

途中からよく覚えていないのだ。

周―――

何度も優しく囁かれる声が今も耳を離れない。
その声に埋もれながら、手塚に身を任せた。
手塚の唇が、舌が、指先が身体を伝うたびにその身が震えた。
信じられないような声が漏れて、けれどもそれを抑える余裕もなく。

綺麗事じゃないぞ

秘めた気持ちに流されるように手塚に詰め寄った。
思い描いている行為とは違う。手塚が念を押すように言ったこと。
そんなことは分かっていたし、現実でもあった。
けれども、激しい行為の中、時折労わるように触れる手がある。
本能のままに貪られているようで、壊れ物を扱うように気遣う仕草がある。
身体中に手塚の心を残された気がする。
直接与えられる刺激だけではなく、優しさや労わりが愛情となって染み込んだ。

だから分かったのだ。
綺麗でなくても汚くはない。
理知的でなくても愚かではない。
そこに愛情が伴う限り、穢れなき行為なのだと。

足を左右に開かれた時、いつの間にか腿を伝っていた湿ったものと共に、とんでもない箇所を曝している意識はあっても、手塚に触れて欲しいと願った。恥ずかしさも忘れていた。

手塚の指先が宛がわれ、内部をぐいっと押すような感覚が身体を突き抜ける。
迷いも羞恥も躊躇いも全て飛び去った今、意識は喜びに満ちて、身体は悦びに震えた。

『あぁっ・・』

悦楽に富む肢体と幸せに満ちた想い。
周は喉の奥から一際高い声、まさに喜悦の一声を上げた。

けれど・・・、そこからの記憶が曖昧だ。
手塚に包まれながら、何度も頭を撫でられ、額に唇に口付けされた。
その一方で味わった事のない刺激に翻弄され、目の前が真っ白に光った後、意識が朦朧としていって・・・

その後はよく覚えていない。
覚えてないけれど・・・、

周は隣で眠る手塚の髪にすっと指を這わしながら、くすりと笑う。

『もうちょっとだったのになぁ・・』

手塚を起こさないように、小さな声で呟いた。
くすくすと静かな笑い声が、少しずつ、少しずつ消えていって・・・・

『ごめん・・ね』

その瞳に映るのは、涙で滲んだ手塚の眠る姿。

こんなに愛してくれてたのに、信じなくてごめん。
弱虫で・・・ごめん。

周は手塚の腕をゆっくり外して、身体を起こした。
それでも尚、手塚の左手は周のそれを握っていて。
手塚も同じ。離れて淋しかったのは同じだったのだと、今漸く気が付いた。

手塚にとって周は掌の玉。
それが痛いほど周の心に伝わって。
だからこそ、自分を見つめる時間も必要なのだ。
大切な誰かと幸せになるために、一人で大人の一歩を踏み出すことも必要なのだ。
信じるだけなんて心許ないことだけど、それでもそれを賭けるに値する人だから。

決めた。



周は握り合った二つの手に自分の唇を寄せ、最後にキュッと力を籠めた。
そして、

『ありがとう・・・ばいばい』

ゆっくりと名残惜しく、それでも心は残すことなく、周はその手を離した。




********



「ただいま」
「あら、おかえりなさい」

突然帰国して驚くかと思ったのに、母の態度は至極冷静だった。

「えっと・・・びっくりしないの?」
「連絡あったわよ。黙って帰っちゃったんですって?」

母はむっと顔を顰めて周の額を指で弾いた。

「あ・・・そう」

ぽりぽりと罰が悪そうに頭を掻いて返事をする。
けれど、なくなった荷物で分かるとは思ったが、あの手塚のこと、警察沙汰にしてないかほんの少し心配でもあった。
ちゃんと分かってくれたようで、周はホッと肩を下ろす。

「あなたらしいけど、お兄ちゃんにあんまり心配掛けちゃだめよ」
「大丈夫だよ、ちゃんと代わりを置いてきたから」
「代わり?」
「うん、僕の代わり」

中学の誕生日に手塚に買ってもらったテディベア。
相方のみっちぃには悪いけど、手塚にも自分が必要だと思うから。
あと少し、みっちぃと独りの時間を共有することにした。
そう、あと、少しだけ・・・。

「そう。なんだかよく分からないけど、大丈夫そうね」

母は周の満足そうな顔を見て、それ以上は何も言わない。
昔から子供の決めたことに口を出さない人だ。
二人の子供達が前を向いているなら、黙って見守ってくれる。

「もう戻ってこないんじゃないかって覚悟して送り出したんだけど、予想が外れたわ」

周は驚いて母の顔をじっと見つめる。そしてすぐ満面の笑顔で言った。

「さすがお母さん。でもやっぱり、僕も自分自身と向き合わなきゃね。お兄ちゃんと同じ歩幅で歩きたいから」
「そう」

やっぱり母は何も言わない。
ただ微笑みながら、娘の決断に頷いてくれた。

「そうそう、29日に国光から届いたのよ。誕生日プレゼントじゃないの?」

ドイツから届いていた小さな包み。
母から受け取ったそれを見て、周は手塚との会話を思い出してクスクス笑った。

「うん。入れ違いになったじゃないかって、ぶつぶつ言ってたもの」
「黙って帰ったから、誕生日が出来なかったって、それもぶつぶつ言ってたわよ」

そういえば、予約していたケーキも取りに行かないままだった。
大きなホールケーキを頼んだのに、手塚一人でどうするだろう。
考えたら、申し訳なくも可笑しくなる。

甘いもの苦手なのにね・・・。

「そんなことないよ。素敵な誕生日をしてもらったよ」

続きはいつかのお預けだけど。
そっちの甘いは多分大丈夫だよね。

笑い声を漏らしながら小包を開ける。

Alles gute uzm geburstag!

添えられていたカードはドイツ語で文字が綴られていた。

「ねぇ、なんて書いてるの?」
「んー、誕生日おめでとう、かな」
「へぇ、じゃあこっちは?」

Du weisst ganz genau dass du mir der wichtigste Mensch in meinem Leben.

「・・・???あははっ」

さっぱり分からない単語の羅列に笑って誤魔化すしかない。
せめて英語で書いてくれたらいいのにさ!
同じ歩幅で歩く為には語学の勉強も必要だなと、ドイツ語で書かれたメッセージを周はむぅっと睨みつけた。

更に小さな箱のリボンを解けば・・・

「まぁ!やるわね、国光も」
「お、お母さんこれって・・・あの・・」

周はプレゼントを握り締めたまま、真っ赤な顔で母を見る。

「最後かな」
「・・・え?」
「あなたと母娘として過ごす日ももうすぐ最後になりそうね。姑にいびられない様にこれからみっちり仕込んであげるわ」
「やだなぁ、そんなこと・・・?ねぇ、姑って何よ!」

楽しそうに笑う母に、手塚のプレゼントに照れながらも母の矛盾に抗議する周。

「うふふ・・・昔から嫁と姑は最大のライバルなのよ。楽しみだわ」
「もうっ、お母さんったらぁ!!」

二十歳の誕生日プレゼント―――
小さな小さな箱の中には、

Du weisst ganz genau dass du mir der wichtigste Mensch in meinem Leben.
〜言うまでもありませんが、あなたは私の人生で最も大切な人です〜


回りくどくドイツ語で綴られた、手塚からの愛の告白と、
限りなく透明に近い、一粒のダイヤモンドがキラキラ輝いていた。



end / back


いいのか、こんな終わり方で^_^;
一応シリーズ完結にしようかな・・・って思ってたんですが、なんか中途半端なラストですねぇ・・。手塚も途中で降板だし(笑)。うん、でもここの二人はバタフライが頂上だと思ってるので、これ以上続けるとただのバカップルになるだけで・・・(苦笑)。その後は皆様お得意の妄想で・・・失礼!想像でお願いいたします。
しかし、手塚さん!結局やれなかっ・・・(ごほっ)。途中で周ちゃん寝ちゃったんで、無理に襲うわけにもいかず断念です(不憫じゃ・・)。この際、初めてはもう新婚初夜でいいです。
ラストのドイツ語はIch liebe dichにしようか最後まで迷いました(笑)。が、それじゃ単純すぎるので資料丸写しのドイツ語です。一体どの単語がどの日本語なのかさっぱり分かりません。私が選考した第二外国語は中国語でしたので(笑)。言うまでもなく・・・は別にいらなかったんだけどなぁ〜(調べろ!)。良かったら誰か教えてください。ということで、最後までお付き合い下さった皆様、ウォーアイニー!(2008.2.29〜.6.4)