聖なる夜になる鐘を・・・ 後編


「大学が冬休みになったらまた来ないか?その・・忙しいのは分かっているが」

やや遠慮がちに誘う手塚に二つ返事で答えた。
不二も手塚さえ迷惑じゃなかったら休みの間は一緒にいたいと思っていた。
そのためには就職活動しながらアルバイトも頑張るつもりだったのだが・・・。

「俺に逢いに来るためにならそんなことしなくていい。チケットくらい用意する」
「それはだめだよ。チケットなんて安いものじゃないんだから」
「だから言ってるんだ。本来なら俺から出向くべきだが、そうそう自由は利かないからな。お前ばかり都合つけさせてすまないと思っているのに、費用まで負担させるなんてできるわけないだろう」
「そんなこと、僕だって、僕も君といたいんだからお互い様だよ?それにバイトなんて皆やってる事だし・・」
「アルバイトがどうこう言ってるんじゃない。ただ、就職の活動もしないといけないんだろう?今使える時間を有効にしろと言ってるんだ。それに・・・」

手塚の表情がほんの少し不服そうに変わる。
はぁっと短い息を吐いてちょっぴり俯き加減に視線を逸らされた。

「こんなことは言いたくないんだが・・・・、飛行機のチケットくらい負担になる額ではない」
「あ・・・」

忘れていたわけではないが、眼中にはなかった。
それだけ不二にとっては手塚は手塚なのである。
世界でいくら有名になろうと、一度の試合で考えられないような賞金を手にするような人物であろうと、中学時代と何一つ変わるものなどない。

「そうだったよね、改めて言われると思い出すけど君って凄い人だったんだよね」

今更だが目を丸くしてじーっと手塚を見つめてしまう。

「やめてくれ。だから言いたくなかったんだ」
「相変わらずだね。世界が認めてるんだからもうちょっと自惚れたっていいんじゃないの?」
「自惚れるようなことは何一つない」
「くすくす――油断せずに行こう・・って?」

自分の功績を自慢するような人じゃないことは知っている。だが、決して謙遜などではなく己に溺れる事なしに前を向いている彼を不二は誇らしく思う。大きな人だと思う。彼に見合うように自分もしっかり地に足をつけたい。誰に頼らずとも一人で立っていられるようになりたい。だからこそできるだけ自分のことは自分の力で乗り切りたいとも思うのだが、この現状で意地になるのもくだらない。自分にとっては高価なチケットでも、確かに今の手塚にはたかがチケット。奢らず感謝する気持ちを忘れなければ甘える方が女の子として可愛いのかも。

「ホントにいいの?」
「ああ、是非そうしてくれ」
「ありがとう、助かります」

従順に頭を下げる不二に「いつもそう素直だといいのに」と手塚はぼそりと呟く。

「何か言った?」
「いや、何も」

キロリと睨む不二を慌てて腕の中に押し込んで誤魔化しきったつもりでいたが、持ち上げた小さな顔はぷっと膨れ上がっていた。





束の間の休暇で帰国した手塚は次の試合へ向けて慌しくアメリカへ戻った。
人間とは欲深いもの。
予測していなかった恋しい人との時間、それを堪能できただけでも十分過ぎるはずなのだが、反って次までの空白が長く感じてしまうからやっかいだ。
不二は毎日カレンダーを見つめながら手塚と逢える日までの日数が永遠に訪れないとてつもなく大きい数字のように思えてならなかった。

それでも後何日、後何日・・と漏らしていた溜息も12月に入った頃、零れる笑みへと変化していく。
もう少しで冬休み。手塚から約束のチケットも届いた。

自然と足取りも軽くなったこの頃、もう一つ嬉しい事が。
ずっと会いたかった姉が帰ってきたのだ。
まだ安定したとは言いがたいが、少し落ち着いたと寺下と一緒に帰国してきたのだ。


「周、元気だった?」
「姉さんこそ。ちょっと太ったんじゃない」
「えへへ、食べ物の好みが変わったっていうか、脂っこいのが美味しくて。悪阻もあんまりないしね」
「あら、あまり食べ過ぎちゃだめよ。最近はあまり太ってはお産に影響するからって体重制限するお医者様も多いんだから」
「え〜、そうなの?向こうではそんなこと言わなかったわよ」
「精々10キロまでっていうわよ」
「幸せ太りも大変だね・・・」

母娘3人で楽しそうに盛り上がる中、奥では神妙な雰囲気で父と寺下が話をしている。
不二が寺下家を訪れた後、すぐあちらでの話しは纏まったようで、早々に両親の元にこの縁組の申し出があったのだが、突然の報告、しかも最愛の娘の妊娠など父親にとってはショック以外の何ものでもなく、母の喜びようとは正反対にえらく肩を落としていたものだった。
しかしそれを本人達にぶつけようにも、二人は海を隔てた遠い国にいた。帰って来いというのも妊娠初期では無理と言うもの。
最初は、少し落ち着いたら帰国するということで話は収まっていたが、いつまでもずるずると内縁関係でいるわけにもいかず、籍だけのことではあるが、結局、両親とは会わないまま由美子はお嫁にいってしまうという男親にとってはなんとも淋しい結果になってしまった。
前もって結婚が決まっていたならともかく、日常何変わらない生活を共にしていて、ふいに旅立ちそっちで結婚なんてあまりに呆気なすぎる。もう自分と生活を共にする事はないと思えば、例え喜ばしい事であっても淋しいと思うのは当然のだ。
不二はそんな父の姿が痛くて溜まらなかった。

本来、反対する理由もなければ寧ろ由美子にとっては理想の相手である。
今更、父が逆上して相手を殴り飛ばすなんてことはないだろうが、それでも女三人は奥で一体何を話しているのか気になって仕方がない。

「ねぇ、大丈夫かしら?お父さんやっぱり怒ってた?」
「まあ、心配かけたのは事実ですよ。きちんと謝らないとだめよ」
「はーい・・。」

幾分面倒くさそうに間伸びた返事をする姉に不二は言う。

「お願い姉さん。父さんの気持ちも分かってあげて。ずっと、ずっと淋しそうだったんだから。」
「周・・・」

「あら、もうよろしいの?」
母の声に振り向いてみれば、話を終えて父と寺下がリビングへ戻ってきたようだ。

「ああ、こっちで飲みなおそうかと」
「あら、まだお昼ですよ」
「まあ、めでたい席だから」

こちらの心配は他所に父は結構上機嫌だった。

「あの・・お父さん」

ご心配かけてすみませんでした。と姉が深く頭を下げた。
その目にはきらりと光るものが浮かび、他人にも家族にも自分自身にもプライドの高い姉のこの姿には父も少々驚きを見せたが、そこは娘想いの父である。
そっと肩に手をやって優しく言葉をかける。

「身体は大丈夫なのか?」
「はい」
「そうか。・・・・幸せになりなさい」

その光景に不二の目頭はまた熱くなる。
よかった。皆が幸せでこんなに嬉しい事はない。本当によかった。





5ヶ月ぶりにあった寺下は相変わらず優しい雰囲気で不二に接してくれた。
けれど自分といた時とは何かが違う・・・・そんな風に思ってしまうのだが。

「周ちゃん、変わったね」
「え、どこが?」

反対に指摘されて驚いてしまう。

「どこって、表情とか何となく」
「そうかな?」
「うん。なんか前より崩れてる」
「崩れてって・・・」

乙女に向かって何を言い出すのだこの人は。
むっと唇を尖がらせて不服を前面にだす不二を見て

「あははは・・ごめんごめん。でも、そういうとこが・・かな」
「そういうとこ?」
「うん。今だから言うけど、いつもただ笑ってるって言うか、ちょっと人形みたいだなって思うことがあったんだ。でも今はお腹の底から自分を表現できるようになったんだね。崩れてても絶対そっちの方が可愛いよ。でもちょっと悔しいかな。僕じゃ、それは引き出せなかったって事だ」

この人はとても人の機微に敏いのだろう。
そして誰に対しても思いやりを持つことが出来る人だ。だから以前の婚約者にもこんな台詞をさらっと吐けてしまう。
この人との人生を選んでいてもいつかお腹の底から笑える日が来たと思う。
だけど自分にはきっと寺下にこんな顔はさせてはあげられなかった。
逆に突っ込まれて気付いたが寺下がどことなく違うように感じたのはきっと姉のせい。
姉がこの人の底を引き出しているに違いない。そして姉も。
口だけではなく、自立してそれこそ一生一人で生きていくんじゃないかと思わせていた瞳が、今は愛する人と新しい命を守る強さに変わっている。

「寺下さんこそ、この辺が下がってるわよ。デロデロ〜って」

目尻を下に引っ張りながらくすくす笑い出す不二に寺下も声を出して笑う。

「そりゃあね、デロデロにもなりますよ」
と由美子のお腹をそっと撫でながら互いに微笑む姿はもう父と母の顔をしていた。

「やってられないな」

悪態をついていても幸せで、穏やかなこんな日々がずっと続けばいいと不二は心から願った。






『そうか。それはよかったな』

受話器越しの声が優しく祝福してくれる。

「うん、でもあてられっぱなしでね、なーんかばからしくなっちゃって」
『新婚なんだから仕方ないだろう』

と手塚の台詞とは思えない答えが返ってきた。

「へぇ〜意外。手塚でもそんな風に思うんだ」
『どういう意味だ。俺のモラルを疑う気か?』
「だって、人前でべたべたするのとか嫌そうなんだもん」
『そうでもないさ。お望みならいつでもべたつかせてやる』
「やだなあ、もう。でも・・今すぐ君に逢いたくなっちゃった」

散々、姉夫婦のラブラブっぷりを見せ付けられて、不二もちょっと酸素不足の気分だったのだ。


『こっちの街はもうクリスマス一色だぞ』
「わぁ、そっちは本場だもんね。楽しみだなあ。でも・・・」

冬休みはずっと手塚と一緒にいるつもりだった。
けれど新しい年、姉は不二家にはもういない。初めてのお正月は寺下の家族と一緒に過ごすそうだ。当然といえば当然かもしれないが、やはり父が不憫に思う。
顔にこそ出さず二人を祝福した父だったがその淋しさに変わりはないだろう。

だから、せめて自分くらいは・・・

「新年は家族と迎えたいの。だから予定してたより早く帰ろうかなって・・・」
「・・・そうか。そうだな、そのほうがいい」

返答には暫く間があった。それでもすぐ不二の決めたことに賛成を示す。
手塚は何も言わずとも自分の気持ちを分かってくれるのだ。

逢いたい気持ちは募るばかり。
一緒に過ごせば離れがたくもなるだろう。
けれど二人には未来がある。それなら今は最善の形でありたいと思う。
不二にとってはいつか手塚のところへ行くまでは、家族と大切に時を過ごしたい。
手塚も親の愛が何にも変えられないことは十分すぎるほど分かってくれる。
互いの気持ちを思いやれるそんな関係。

この人を好きになってよかった・・・

心の声を言葉に変える事はなく、いつものようにさらっと「またね」と受話器を置いた。





×××××××××



「ふぁ〜、だる・・・」
「あら、どしたの?年寄りくさいわね」
「誰かと違って、実年齢が若いからいいんです」
「ま!可愛くない子ね」

そんな悪態を笑いながら会話にするのも姉妹ならではである。
日本で出産する事にした由美子は、仕事でスイスへ戻った寺下が次に帰国できる年末までゆっくりと実家で過ごしていた。

「でも調子悪いんだったら一度病院行きなさいよ」
「うん。でもそんなんじゃないんだ。ただだるいだけ」
「就職活動に気合い入れすぎたんじゃないの?目処は立ったの?」
「それがね、テニスやってた頃知り合いだった記者さんと会って、就職の話したら紹介してあげようかって」
「嘘!雑誌社ってこと!?」

中、高と一緒にテニスをやってきた仲間も殆どがこの春社会に出て行く。
皆とっくに引退しているが、思い出作りと称して名のあるアマチュアトーナメントに出場することも多く、不二も声を掛けられたがさすがに4年のブランクを行き成り試合で埋められるほど甘い世界ではないと応援側に回る事にした。
学生テニス界で皆それぞれ功績を残した選手だっただけにエントリーされたことが分かったら、どこからとなくスポーツ雑誌の記者も集まってくるのだ。
インターハイ3連覇、プロテニス界からも多数のオファーがありながら、あっさり引退した不二がひょっこり会場に現れたものだからちょっとした騒ぎにもなる。
だが不二にとっては今更な話。他の人の迷惑になると困っていたところ助け舟を出してくれたのが、中高から青学贔屓だった月刊プロテニスの井上だった。

「僕なんて就職が決まらず焦ってるだけの学生なんですけどね」

そう言いながら苦笑する不二を見て、もう選手としてテニスをする意思はないのだと井上は悟った。
しかし類稀なあの才能。それを生かすことができないのは勿体無いことでもある。
テニスを追う者は別にプレイヤーだけじゃない。この仕事もまた―――。
何の準備も勉強もしていないど素人の女の子。そんな子をスカウトするなんて大きな賭けだが、インターハイ3連覇という経歴は伊達ではないだろう。
またそれが大きな後ろ盾になるのもよくも悪くも事実である。

いける―――

そう判断した井上は不二に一度会社に来て見ないかと声を掛けたわけだ。

「うん、びっくりだよね。バイトからやってみるかって言ってくださったから、年が明けたら行ってみようと思ってるの」
「大丈夫なの?」
「まあね、全然知らない世界だし、無理だと思ったら断るよ。迷惑はかけられない。でもちょっと興味はあるの。写真撮ったりするの昔から好きだったし。何よりも――」
「テニスだもんね」

不二が言う前に姉が答える。さすが姉、全部お見通しって訳だ。
そして働く女性の先輩として何事もチャレンジあるのみだと背中も押してくれた。

「あ〜仕事かあ」
「なあに、急に働きたくなった?姉さんばりばりだったもんね」
「っていうか、引継ぎもせず辞めちゃったからね。それなりに申し訳ないと思ってるのよ。それと・・・実家って言葉にも現実味がないのよね」
「そりゃ、ちゃんと三つ指付いて出てったんじゃないもの。普通に旅先から帰った気分なんでしょ。それなのに妙な遠慮がある!」
「さすが妹!そうなのよね〜。やっぱ順序ってそれなりの意味があるんだわ。自分の中の区切りとでもいうのかしら」

姉はぽんぽんと指先でお腹をノックしながら「ねぇ?」と同意を求める。
不二には感じ得ないそこに存在する命を姉は当たり前にあるものとして話しかけている。

「ねぇ、赤ちゃんってどんな感じ?」
「どんな・・って言われてもまだ動かないしよく分かんないわ。でもね、二人でいるんだって思うわ。顔も見えないし、声が聞こえるわけじゃないのにいっつも一緒なの。一人で片意地張って生きてきたからかなあ。誰かと一緒ってのがこんなに穏やかで嬉しいものなんだって大発見よ」
「ふーん。赤ちゃんと二人かあ。パパもいれたら三人だよね」
「そうね。三人だわ」
「あ、寺下さんのことちょっと忘れてたでしょー、酷ぉ〜」

お腹に命を宿した幸せは女性ならではのもの。
苦労は伴うものの男性とは違う喜びも沢山味わえる。
一人なのに二人、そんな感覚は身ごもっている人にしか分からないだろう。
例え、無事分離する時がきても、きっともう一人には戻れない。母として共にあるのだ。
子供を持つ女性全てに普遍的で神秘的な気持ちに違いないのだろう。


その夜不二は不思議な夢を見た。


手塚へのクリスマスプレゼントを選びに街へ出た。
けれどもどれを見てもピンと来ない。
手袋やマフラー、テニス用品、お勧めの本やCD、コレクションしてるというルアーまで手に取った。
どれもステキで不服なわけではない。
何でもいいかと投げやりな気持ちではなくどれを選んでも喜んでくれそうだった。
けれども夢の中の自分はどうしてもそれを買おうとはしない。
手塚がほしいものって何だろう。
探しに探して一件のお店の前に来た。

「こころ屋」

店先には大きく看板が掲げられていた。
『こころ屋?』・・・何のお店だろう。
なんとも奇妙な店名に足が自然と運ばれていく。
しかし中にある品をみて不二は嬉しくて震えてしまった。

これだ!見つけた。

早速沢山ある中から直感したものを手にとってお金を払おうとしたのだが、

「お客様、これはお売りできるものではないのです」
「え、そうなんですか?でもどうしても欲しいんです。どうすれば売っていただけますか?」
「売るなんて。これはもうすでにあなたのものなんですから」
「僕のもの?」
「ええ、まだこの店に置いてあるのはあなたがこれからこれを手にするに相応しいかどうか見極めるためです」

一体どういうことだ。
客が店を選ぶのではなく、店が客を選ぶと言うことか。

「見極めるって僕は何をすればいいのですか?」
「何もする必要はありません。ただ自分の思いのままいてくださればいいのです」
「それで相応しくないと判断されたらこれを手に入れる事はできないのですね?」
「そういうわけではありませんが・・・。無理に連れて行く事は可能です。でもそれはとても不幸なことです。あなたにとっても。これにとっても」
「・・・・・」

黙ってしまった不二に店員は優しく説明する。

「そんなに難しく考えなくてもいいのです。仮に貴方がこれを受け取れないとしても、それはあなたにとってそのほうがいいということなんです。だからそれを悲しむ必要はないのですわ。逆に受け取る事が貴方にとっても、これにとっても最良ならこれは自然にあたなの所へ参ります。」
「そう・・ですか。でも僕は自分の為ではなく恋人にプレゼントしたいと思ったのです」
「大丈夫ですよ。あなたと恋人は一つとお考え下さい。つまりあなた方にとってこれがとても必要であるなら手にする事ができるのです」
「わかりました。でもクリスマスはもう少し。それまでに結果は出るのでしょうか?」
「出るかもしれないし、出ないかもしれない。それは貴方次第です。お引取りにいらっしゃるのをお待ちしてますよ」

せっかく見つけたのに・・。
がっくり肩を落とし店を出ようとして「お客様」と呼ぶ声に振り返る。

「キーワードは『こころ』ですよ」
「心?」
「ええ、もう一つヒントを差し上げるなら、うーん・・・『愛情』でしょうか」

そう言って店員はもう一度にっこり微笑んだ。

店員の奇妙な話が今ひとつ分からないが、それよりもやっと見つけたそれが気になって仕方がない。
手塚のために選んだものだったけど、早く欲しくて、この手で触りたくて、きっと二人の宝物になるような気がする。
「愛情・・」一人呟いて考えてみるがあまりに漠然としすぎている。
手塚への愛情なら誰にも負けないけど・・何もしなくていいのに僕次第だなんて・・・。

だけどもう他には考えられない・・考え・・・ら・・な・・い





夢の記憶は鮮明ではない。
何を欲しかったのかもすでに分からなかった。
ただ・・すごく欲しかったのに、手に入れる事ができなかった。
手塚にとって、いや自分にとってもこれ以上のものはないと思った、そのことだけは覚えている。

「もう、すっきりしないなあ」

ここ最近の体調不良もあって頭がぼんやりする。
体調不良と言ってもどうということではなかった。
ただ、何となく何にもする気になれず、全てが億劫に感じる。
しいて言えば若干熱っぽい気はするのだが。

「母さん、今日学校休むよ」
「あら、どうかしたの?」
「ちょっと熱っぽいだけ」

母はそっ不二のおでこに手を当てる。
「どうってことなさそうだけど、まあ好きになさい」

大学生になってまで母もとやかく言う事は無い。
そのまま自室へ戻ってベッドに転がった。
読みかけの本を手にとってみたが数行読んでまったく頭に入ってない事に気づく。
テレビも特に見たくない。手塚に電話・・・と言う気分でもなかった。

「五月病かな」

とは言ってみるものの、別段心にストレスを溜めるような事は何一つない。
ストレスどころか、就職活動も落ち着いて、もうすぐ手塚に逢いにいける。順風満帆ではないか。
枕を抱えながら、行き場のない感覚を溜息にして吐き出す。

「周、入るわよ」
林檎が盛られた小皿を手に、由美子が入ってきた。

「大丈夫?」
「平気。本当に気分が乗らないだけなの」
「熱があるんだって?」
「ちょっと微熱が続いてるの。どうってことないよ、身体は元気だし」

言うとおり、身体は元気そうだ。
持ってきた林檎も普通に食べている。
妹のそんな姿はまるで少し前の自分・・・・

「ねぇ、赤ちゃんできたんじゃないの?」

ごっくん――
姉の突拍子もない言葉に齧っていた林檎の塊を勢いよく飲み込んでしまった。

「うっ、ごほっ・・ごほっ・・ねぇ・・さ・こほっ・何・・を・・」

何を言い出すのと言いかけた台詞が止まる。思考も止まる。
思い出してしまった。
昨日夢の中でどうしても欲しかったもの―――

それは・・赤ちゃんだった。

「嘘・・・」







×××××××××




「陽性ね」
「嘘・・・」

うそ(てんてんてん)さっきから何回言っただろうか。
覚えは確かにある。計算もばっちり合う。手塚が帰国していた時の・・・。
でも、手塚はちゃんと避妊していたはず。

「そんなの、失敗する事だってあるわよ」
「嘘・・・」

妊娠以外でも場合によっては陽性反応が出ることもあるようだが、不二の場合その条件に該当しない。
しかもこれだけ土台が揃っている上に、この体調。
ほぼ間違いないだろう。
呆然する不二に由美子が言う。

「とにかく病院行こうね、一緒に行ってあげるから」




結果は・・三ヶ月目に入ってると言う。
生理が遅れているとは思っていたが、普段から不順がちであるため特に気にも留めてなった。
未だ信じられない感は拭えない。だが時間が経つにつれ現実味も帯びてくる。
けれどそれは喜びというよりは戸惑いだった。

どうしよう・・・

頭が混乱して多くを考えられない。
手塚に何て言おう。両親に、父に何て言おう。そればかりが堂々巡りしている。
自分の身体の事よりも、お腹の子供のことよりも周りが気になってしまうのだ。
一気に不安が押し寄せてくる。
結局不二はまだまだ幼い。親の庇護を受けている学生なのだ。年齢も社会的地位もあった姉とは少し状況が違う。
そんな姉の時ですら父は酷く考え込んでいた。

自分はきっと怒鳴られるだろう。殴られるかもしれない。
でもそんなことはどうでもいい。

せっかく皆が笑えるようになったのに。
また、父を傷つけてしまう。


「そんな不安な顔しないの。大丈夫、私が付いてるわ」

顔にありありと出ている不二を気遣って姉が手を握ってくれた。
年が離れた姉は小さい頃いつも手を引いて歩いてくれた。
それが不二にとってどれほど心強いものだったか。
今も不安に駆られる中、たった一つ縋れる場所のようで。
姉がいてくれてよかった。握られた手にぎゅっと力を入れる。

「とにかく、手塚君に話さないと。ね?」
「う・・ん」

一番気になるのはそこだった。
手塚は正義感の強い人だ。きっと自分にも子供にも責任を取ると言うだろう。
でもそう、『責任』なのだ。

姉の妊娠を誤解した時、確かに手塚はこう言った。

俺達には荷が重い・・と。

少しばかりショックだったがそれに不満があるわけではなかった。手塚の言う事は最もだから。
実際に今、自分はとてつもなく大きな荷物を背負ったような気がしている。
姉のようにお腹の中の子にまだ愛情が持てるまで実感もない。

愛情・・・?

夢の中の店員が言ったヒント。キーワードは心。

ああ、そうか。
心もないのに子供を産んでも、後悔するだけだ。
自分も子供も不幸せになるというのはそういうこと。
恋人と自分は一つとも言った。そう、手塚が不本意ならやっぱり辛いと思う。
どこかで犠牲や我慢があるならそれは幸せとは言えない。
あの夢はきっとお腹の子が自分の潜在意識を見せたんだ。

愛情・・・この子に愛を、手塚にも愛を、手塚からも愛を。
そうでなければ幸せにはなれない・・・。
自然と瞳が潤んでくる。
視界が翳んで景色も揺れる。

手塚にとっては負担にしかならない。
それが分かっているのに何て話せばいいんだろう。

夢の中で店員は言った。
相応しいか判断できるまで店に置いてあるのだと・・。
相応しくなければ?
無理に連れて行く事もできるがそれは不幸な事。
受け取れなければその方が自分にとってもこの子にとってもいいのだと・・・
諦めたほうがいいってこと?
それは・・それって・・・・。

「や・・だ、そんなの嫌だ」

不二はお腹を押さえてその場に座り込んだ。

「どうしたの?気分悪い?」

由美子が驚いて、隣にしゃがみ不二の背中を擦る。

「やだよ、僕、やっぱり産みたいよ」
「当たり前でしょう?何を言ってるの」
「当たり前なの?不幸になるかもしれないのに?僕も手塚も、何よりもこの子が」

お腹に手を当てたまま頬を濡らす。
戸惑って当然の事だが目の前で混乱する妹に正直由美子は驚いた。
確かに妹はまだ親元で生活している学生だが、元々大学を出たら結婚することにもなっていた。
相手が変わってしまったとはいえ、出来心でこうなってしまったわけでもなし、二人が結婚することに何の問題があるだろうか。
年齢的にはまだまだ未熟であっても、手塚は立派に社会で自立しているのだ。
しかもその経済力は半端なものではない。

「どうしてそんな事を言うの?」
「望まれないことは不幸なんでしょう?だったら産まない方が――」
「バカな事言わないで!」

実際お腹に子供がいるからこそ、産まないなんて口にして欲しくない。
それは命を絶つと言ってることだから。
妹の口からそんな台詞が零れた事がショックでつい大きな声を上げてしまった。

「なんて事言うのよ。どうしてそんな風に考えるの?」
「だって手塚はきっと困るだけだもの。また手塚を振り回してしまう」

由美子は妹が気にしているのは心の問題なんだと漸く気付いた。
両親とは色々話し合わないといけないかもしれない。やはり学生というだけで自分とは立場が違う。
それでも一時的なことだ。最終的には分かってくれ、祝福してくれる両親だと思う。
結局、手塚の人生の一駒であることが問題なのだ。
そうでなくても妹は自分の事より周囲のことを優先するところがある。
責任があるからと、相手の人生の歩みを簡単に変えらことができない子だ。
全く、この期に及んでまた自分ひとりを責めているのかと、半ば呆れにも似た気持ちになる。
由美子はふーっと溜息を吐いた。

「全く、あんたって子は。手塚君にも責任があるのは事実なんだから、一緒に考えてもらわないといけないことよ」
「責任とか・・そういうのは・・」
「分かってる。義務感で一緒になってほしくないのは同じ女としてよく分かるわ。でももう命はそこにあるのよ。手塚君にもそれを守る責任があるって言ってるのよ。彼の立場や気持ちを考えられる事は立派よ。でも今はお腹の子のことを一番に考えるべきじゃないかしら」

母としての自覚や使命が尚、姉を強くしている気がする。
同じ姉妹でも自分とはどうしてこんなに違うのか。

「伊達に年月重ねてないわ。それにもうすぐ貴方にも分かるわよ。子供ってね、日一日と自分を強くしてくれるの」
「僕も?」
「ええ、そうよ。だから後ろばっかり見てちゃダメ。まず心のままに考えて御覧なさい。手塚君の赤ちゃんってどう思う?」

手塚の赤ちゃん?
どんなものなのかなんて正直分からないけど、昔思い描いていた未来の中にそういう構図も確かにあった。
温かい日に自分と手塚と子供と公園でのんびり過ごす、そんな姿を漠然と描いて幸せ気分に浸った。
その子が今現実にここにいる。手塚と僕の赤ちゃん・・。
その子を産みたくないわけがない。彼の子を愛せないわけがない。誰よりも手塚が好きだからそう思える。
手塚も自分を愛してると言った。その言葉に嘘はないと信じている。
だったらそれでいいんじゃないか。
二人が愛し合って出来た子だから、きっと幸せになれる。

「ふふっ。手塚の赤ちゃんなんてなんだか可笑しい。この辺に皺なんかあったりして」

眉間に人差し指を当てながら笑う。

「でもその子が僕の赤ちゃんなんてすごく嬉しい」

やっと笑顔に戻った不二に「そう思えるって事は、赤ちゃんも幸せなんだよ」と由美子はそっと囁いた。





クリスマス――――

本当なら今頃アメリカで手塚と一緒に本場のクリスマスを味わっているはずだった。
けれど長時間飛行機に揺られることはやはり芳しい事ではない。
結局手塚には体調不良を理由にアメリカ行きを断ったのだ。
きちんと手塚に話をしてから、一緒に両親に報告しなさいと姉には言われたが、やはり大きな大会を控えた今、テニスだけに集中してほしい気持ちが強く、手塚には何も言わず自分ひとりで周囲の問題を片付ける事にした。
まずせっかく声を掛けてくれた就職先にも断りの挨拶に行った。
何分テニス関係の雑誌社ということもあり、下手に理由を口にすればこの上ないスキャンダルを提供することになってしまう。
結局自分には自信がないとなんとも情けない理由でお断りすることになったのだが、理由が話せる日がきたらもう一度挨拶に行こうと今は心の中で頭を下げた。

両親にはなかなか言い出せずにはいたものの、確実に成長を遂げている命を思えばいつまでも黙っているわけにもいかず、勘当も覚悟の上で話をした。
父は少し驚きの表情を見せたが、声を荒げたり手を出したりはしなかった。

ただ「相手を殴ってやりたいところだが・・・・」と中途半場に言葉を切った。
そして少し間をおいてから「よかったな」という優しい声が不二の耳に届いた。

寺下との縁談が壊れた日に母から聞かされた言葉が蘇る。

『子供の幸せを願わない親なんて何処にもいないわ』

突然の婚約破棄という親にとってはきっと衝撃的な出来事だったに違いない。
でも父は心の奥底では手塚の許へ行く事を望んでくれていた。自分が本当に愛する人の所へ行く事を願っていたのだ。

相手を殴ってやりたい、父の本当の気持ちだろう。
よかったな、それも本当の気持ち。
娘の幸せを誰より願うものとして、そしてそれがどこにあるのか知ってる者としての、本当の気持ちを奏でた音色だったのだ。

敢えて何も言わなかった父、
僕はまだ父さんと一緒にいるよ―――
無責任に言ったことが自分を責める。でもやっぱり幸せになるしかないのだ。
自分の幸せを願ってくれる人だから、いつかこれが一番良かったのだと振り返れるように本当に幸せになるしかない。

後は手塚に事実を伝えるだけ。
迷惑はかけたくない。だからすぐではなくてもいい。手塚が心から受けいれらる日が来るまで待ってるつもりだ。
でも最後はやっぱり手塚といたい。手塚とこの子と一緒にいたい。
愛しているから、手塚も、小さな命も。どっちも自分の人生に必要な存在なのだ。
だから手塚にとってもそう思える日が必ずくると信じている。

不二は全豪オープンが終わったら全てを話そうと思っていた。
手塚がどう受け取ろうと自分の気持ちは決まっている。だからありのまま全てを伝えようと思った。






「周、いい加減窓閉めなさい。体が冷えちゃうわ」
「うん。後少しだけ」

「おばちゃまは自覚がたりまちぇんね」と少し膨らんできたお腹に、赤ちゃん言葉で話しかける姉を見てぷっと吹き出した。

あのりりしくてカッコいい姉が『たりまちぇんね』だなんて。キャリア時代を知ってる者が見たら目を丸くして驚くに違いない。
けれどそんな姉が昔よりもずっとずっとカッコいいような気がした。
今は言うとおり少々自覚が足りないが、もう少ししたら自分もあんな風になるのかと思うと、ちょっぴり照れくさくもあり、ちょっぴり嬉しくもあり。

「ほどほどになさいよ」と言い残して、由美子は一階へ降りて行く。
「はーい」

でも、もう少しだけ。もう少し、手塚と同じ空気を味わっていたい。
一緒に過ごすはずだったクリスマス。けれど海を隔てた遠い国にいても、空は一つに繋がっている。
同じ空を見つめて同じ空気に触れていたい。

その想いが届いたのか携帯の呼び出し音の後、手塚の声が聞こえてきた。

「わぁ、今君のことを考えてたんだよ。すごい偶然」
『そうか』

素直に喜ぶ不二に手塚も思わず顔が緩むが相変わらず愛想のない返事しかできない。
けれど不二には手塚の気持ちは分かっていた。

「くすくす――ねぇ、そっちは今、イブの夜なんだよね」

時差があるからアメリカはまだクリスマスイブ

『ああ、ちょうど教会の鐘が鳴りだした。お前と一緒に聞こうと思って』

耳を澄ますと微かに鐘の音が届く。
本当なら一緒に寄り添ってこの音を聞くはずだった。

「行けなくてごめんね」
『気にするな、身体の方が大切だ。調子はどうだ?』
「う・・ん。まあぼちぼちね」

大会が終わるまで黙っていようと決めた。
いつ話してもすぐ次の試合がある。それなら同じだと姉はうるさく言っていたが、全豪オープンは規模が違う。
手塚といえどかなりの精神力を要するはずだ。
だからせめてそれが済むまでは―――。

『そう・・か・・・・』

相槌を打って暫し黙り込んでしまった手塚。鐘の音だけが続く。

「手塚?」
『ああ、すまん。その・・電話で言う事ではないのだが・・・』
「うん?」

手塚にしては珍しく少々戸惑い気味の口調だ。

『今回お前が来れなくなって気付いたんだ。・・・いや、本当はもっと前から分かっていた。だがお前にも都合があるようだし、もう少し時期を考えるつもりだったんだが、今日街で見かけるカップルを見て俺は・・・嫉妬、そう、嫉妬していた』

今ひとつ話の全貌が見えない。
手塚は口下手なところがあるが、不二はいつも何となく理解できるのだが・・。
今回は何が言いたいのか今ひとつ・・?と言うより話の前後の辻褄があってないというか。
何と返答してよいものか、不二も言葉にしにくい。

「僕の都合を考えて、他所のカップルに嫉妬した・・の?」
『ああ、そうだ。いや違う』
「はぁ・・」

一体どっちなんだ?
不二は首を傾げるが、聞き違いということも・・いや、それはないと思うが、とりあえず電話のボリュームを上げて黙って聞いていた。

『少し前にお姉さんが籍を入れられた頃・・・いやもっと前だ、妊娠されたことを聞いた頃、その時から何かこう例えようのない泥付いた感情が俺の中に住み付いてしまった』

例えようのない泥付いた感情って・・・、例えられないだけあってその例え自体がさっぱり分からない。

「ごめん、手塚。もう少し分かりやすく言ってもらえる?」

不二の言葉に自分が支離滅裂状態になっていることに手塚は気付いた。
いや、半ば自覚はあるのだがどうすることもできず。
つまり手塚は今もの凄く緊張しているのだ。

『あ、ああ、すまん。つまりだな、何と言うか、カップル達が何故俺達ではないんだろうと思ったわけだ』

またカップルに戻るのか・・。
順番がよく分からないが、手塚の中ではきっと繋がっているんだろう。

「うん、嫉妬したんだよね。それで何で姉さんなの?」

不二はやんわり誘導していく。
このまま手塚に話させていたら埒が明きそうもない。

『つまり、何だ』
「どれだ?」
『何故俺達じゃないのかということなんだ』
「手塚ぁ?」
『す、すまん。だからだ。街で見かけたカップルが何故俺達じゃないのかと思ったんだ。籍を入れたのが何故俺達じゃないのか、妊娠したのが何故お前じゃなかったのかと思ったんだ!』

半分やけくそになって手塚は自分の気持ちをぶちまけた。
そして極めつけ―――

『お、俺も子供を産みたい!』
「えぇっ!?」
『ちっ、違う、間違えたっ!今のは忘れてくれ』

とんでもない事を口走る。突っ込んでみたい気はしたがこんな手塚は初めてだ。
かなり焦っている様子から手塚が真剣な事だけは分かる。不二は黙って受話器に耳を寄せていた。
そして暫く間を置いた後、漸く話の主旨が結論づいた。

『・・つまり俺もお前といたいんだ。一時的なことじゃなくて、その・・ずっと一緒に。だから・・・俺と結婚してくれ。・・・・して下さい』

な、何・・?もしかしてさっきからの意味不明な言動はプロポーズ・・なの?


友人の前でさらっと婚約者だと言ってのけたり、一生を共にする相手だとベタな台詞を照れもせず口にする手塚が、こんなにしどろもどろになるなんて。
答えなんて分かってるくせに、それでもそんなに張り詰めてしまうのは

それだけ本物の想いだという事・・・。

不二の目はすでにゆらゆら揺れている。
震える手で受話器を握りながら、それに気付かれないようにまっすぐ問いかける。

「結婚したらすぐに赤ちゃんできちゃうかもしれないよ?」
『望むところだ』
「でも、この間はまだ荷が重いって・・。」
『あ、あれはだな、お前が結婚はまだまだ先の事だときっぱり言い切るから・・・これでもショックだったんだ。お前が妊娠したと勘違いしてひとり感動していた俺がバカみたいだろう。だから、・・・少し意地になった』
「・・・・・」

呆れた・・・呆れて言葉がでない。
ショックであんなこと言ったっていうの。
その言葉で女の子はさらにショックを受けるとは考えられないのだろうか?

考えられない・・・だろうな。

「バカみたいじゃなくて、バカだよ。正真正銘のバカ!・・・でも僕はそれに輪をかけた大バカだね」

溜まっていた涙がぽたりぽたりと溢れ出した。
手塚は自分が妊娠していることをまだ知らない。
ずっとずっと不安だった。
彼の重荷になるかもしれない。迷惑になるかもしれない。否定されるかもしれない。
手塚はそんな人じゃなかったのに、手放しで喜んでくれる人なのに、やっぱり何も分かってないのは自分の方。本物の大バカだ。

大バカだけど、なんて幸せなんだろう。


「返事する前に一つだけ、僕も君に話があったんだ。そっちに行けなかったのは・・・」


ホントはね・・・・



ガシャリと鈍い音がした。
きっと携帯を落としたのだろう。がさがさと拾いあげている様子は感じ取れるが手塚の声は聞こえてこない。

耳に届くのは鐘の音だけ。

イブの夜に鳴る聖なる鐘が、まるで二人を祝福するように低く、深く、心の奥に響き渡る―――


七夕の日に願った恋が、聖なる夜に愛になる。



この鐘の音に、また願うのだろう―――


この愛の永久(とわ)を。


そして、


生まれ来る命の輝きを。





END / BACK


「鬼は外〜、福は内〜!」そんな声が近づく頃、やっとクリスマスが終わりました。
改めましてメリークリスマスです(笑)。確か、これの前編に当たる「最後の恋」も七夕には間に合わなかった記憶が・・・成長がありません。そして最後だけ無駄に長くてすみません。今回はただ脈略もなく甘甘ラブラブしてるものにしてみようかな・・・と思ってのお話だったのですが途中自分が恥ずかしくなってしまいました。そしてこんなにいい人ばかりだなんて!上手い世の中があるもんだ・・(笑ゴマ)。最後の恋でありますように・・ふたりの願いが今、永遠になりましたv (2005.12.25〜2006.2.1)


〜おまけ〜

その夜不二は夢を見た。
手塚へのプレゼントを引取りにあの店へやってきたのだ。
やっと受け取ることができた赤ちゃんを抱きながら、そっと隣に目をやった。
そこにあるのはいつもの仏頂面ではなく、照れくさそうに緩んだ顔。
ステキなプレゼントを抱きながら二人は寄り添い微笑みあう。

幸せになろう
これからもずっと一緒に
寄り添いあって生きていこう

店を後にする二人に店員は笑顔で言った。

「お幸せに」


おしまい