とき
時間の扉 4
「お母さん・・・お早う」
遠慮がちにキッチンに入ってきた周に母はいつもと変わらず声をかけた。
「お早う、周ちゃん」
「あの・・・」
「どうしたの?早くお座りなさい」
言わなくても周が一番分かっているはずだ。
申し訳なさそうなその態度を見れば、自分のしたことを十分反省していることも伺える。
それにきっと周も傷付いているのだ。これ以上ぶり返す必要もない。
「お食べなさいよ?」
母の優しさにはいつもホッとさせられる。
分かっていて触れずにいてくれる、もういいよと思わせてくれる大きさが周を絶対的な安心の世界へ導いていく。
「頂きます」
漸く笑顔を見せた周に母も「どうぞ」とにっこり微笑んだ。
「お早うございます」
背後から聞こえた静かな声に再び周に緊張が走った。
箸を持ったまま動きが止まってしまった周の横に黙って座った手塚。
周には何も言わないまま朝食を取り始めた手塚は、いつもに増してもの静かに見えて、気詰まりな雰囲気を感じずにはいられない。
やっぱり怒っているのだろうか。
当然といえば当然だ。あんなことをされて平気なわけがない。
謝らなければ・・・
「あの・・お兄ちゃん、昨日は・・」
震える声で謝罪を口にしようとしたが、意外にもそれは手塚の方から発せられた。
「すまなかったな。あれは今日返してくるから」
「・・・・・・」
周は口に出す言葉を失った。
それ以上何も言わず食事を続ける兄は本当は何を思っているのだろう。
昨日自分の言葉でどれだけ傷付いたのだろう。
酷い事をしたのは自分の方なのに、責める事もせず、その上謝るなんて。
胸が痛くてそれ以上その場に留まっていることが出来ず、周は席を立った。
「ごめんなさい、お母さん。僕、もう学校行くね」
兄の顔を見ることが出来ない。
背を向けたまま「行って来ます」と小さく囁く。
周は逃げるように家を出た。
*********
晴れない気持ちでいると、何をやっても上手くいかないものだ。
いくつも忘れ物をしていて隣の教室に何度も借りに走った。授業中も身に入らなくて先生にも怒られるし。
極めつけ不注意で折角作ってもらったお弁当をひっくり返して購買でパンを買う羽目に。
昨夜から母の料理に縁がない。
昨日の夕食は自分のためにあれやこれや用意してくれていたに違いないのに。
床に散らばったお弁当を片付けながら、ちょっぴりいつもより豪華なおかずにまた悲しくなった。
「あーあ、最低」
きちんと謝れなかった事を後悔しながら、目に浮かんだ涙を人差し指でそっと払う。
そう、母が笑ってくれるのをいいことに、台無しにした家族の想いを放置してきてしまった。
兄には反対に謝らせて・・・。
気持ちが晴れない理由は分かっている。
素直に頭を下げなかった自分の意気地のなさだ。
いくら周りが許しても、神様は許してくれない。
いつまでもこんな心境のままなのはきっと与えられた罰。
放課後、とても部活に出る気分にはなれず、かと言って家にも帰り辛くて周は街中をうろついていた。
先日手塚と歩いた繁華街、あの時はこんな気持ちでまたやってくるとは思っていなかった。
気分を変えるため外に出たのに、思い浮かぶのは相も変わらず昨夜の出来事ばかり。
「あ、ここ・・・」
気付けばあのテディベアの店の前。
昨日手塚に投げつけたあのテディベアを思いだした。
みっちぃへの想いが爆発してついカッとなってしまったけれど、あの子には何も罪はないのに。
自分の我侭の所為でお店にも迷惑を掛けることになる。
そして、きっとそこでもまた兄は頭を下げるのだろう。
もう返しに来たのかな・・・?
本当に謝るべきなのは自分なのに。
どうしよう・・・
中に入ろうかどうか、周は窓から顔を覗かしてそっと中の様子を伺ってみた。
「あら、お待ちしてましたのよ」
周に気付いた店員が、正面の木のドアからにこやかに出てきた。
「さあ、どうぞ。綺麗に仕上がってますよ」
「は?・・あの、ちょっ・・」
店員は何やら分からない事を言いながら周を中に導いていく。
「お兄さまがいらっしゃるのかと思ってたんですけど、今日はご本人さまでしたのね」
「・・・何のこと・・でしょうか?」
一体何のことを言われているのかさっぱり分からない。
しかし店員の方が周の言葉にきょとんと首を傾げた。
「あの・・・手塚さまではございませんでしたか?」
「え、ええ。手塚ですが・・」
「ああ、よかった。この間ご一緒にいらしたので覚えてたつもりだったんですが、記憶違いかと焦りました」
苦笑を浮かべながら間違いではなかったと店員は胸を撫で下ろす。
どうやら兄が今日ここへ来る事を連絡していたようだ。
きっとあの子を返すために・・・
「あの、すみません!僕は持ってきてなくて・・・。多分後で兄が来ると思います」
「あら、そうなんですか。でも妹さんと分かっていますし、預かり証なんて構いませんのよ?」
「だから僕は、・・・預かり・・って?あの・・兄はテディベアを返しにくるのではないのですか?」
「・・・え?」
さっきから店員と話がずれている。
そういえば綺麗に出来てるって何のことだろう?
お兄ちゃんはここへ一体何をしに来る・・の・・?
ぽかんと口を開けている周に店員は申し訳なさそうに言った。
「あの子お気に召さなかったかしら・・。申し訳ないんですが、お客様のご都合での返品は出来ないんです」
「そう・・・なんですか?」
「ええ、お買い求めの際にお話してますのでお兄様もご存知かと」
「そんな・・」
だって朝確かに返してくるって・・・
手塚はどこまでも周を気遣っていた。
返品できないと知ったら、また心を痛めると思って。
どんな気持ちだったのだろう。
兄の自分への思いやりを考えると、周はどうしていいか分からなくて俯いてしまった。
苦渋の色を浮かべる周を見て、店員も辛そうな顔をする。
「本当にごめんなさいね。でも・・お好みに変身させるくらいならやってみましょうか?」
「・・え?」
「うちではオリジナルのテディベアも作ってるんです。修理やリフォームなんかも受けているんですよ。本当はシュタイフのようなブランドに勝手に手を加えたりはしないのですが、ご了承いただいてのことならちょっとくらいは・・・」
周があのテディベアが気に入らなかったのだと思っている店員は、親切にもそんなことを申し出た。
「あの・・・」
そういうことではなくて・・・
きちんと説明をしようと思った時、
「だってお兄様、一生もののぬいぐるみが欲しいって随分調べていらっしゃったんです」
「一生もの?」
「何十年でも持っていられるものを探しているんだって仰ってましたわ。昔あげたぬいぐるみを妹が未だに大切にしているのだけど、古くなってしまっていつまでもつか分からないからって」
「兄がそう言ったんですか?」
「ええ。でも確かにテディベアは一生ものですけど、中学生がプレゼントにするには少々お値段も張りますし、失礼ながらお兄様にもお話はしたのですよ。でも、妹がずっと持っていてくれるならいいんだって仰って」
店員は以前手塚が話していた事を、ふふっと物柔らかに笑いながら周に伝える。
「ですからお兄様のお気持ちが少しでも無駄にならないように如何かしら?ああ、そうそう、リフォームで思い出しました。お預かりしていたぬいぐるみ綺麗にお直しできましたよ」
ぽんと手を鳴らして、店員が店の奥から持ってきたのは―――
嬉しい時も、悲しい時もいつもいつも一緒だった。
子供の頃からずっと、涙も笑いもいろいろな思い出が沁み込んでいる・・・
「・・・みっちぃ」
目の前にちょこんと座っているみっちぃは見違えるほど真っ白になって、まるで初めて出会った時のよう。
ところどころ綻びていたところも、綿がぺしゃんこになって薄くなった身体も、全部全部昔のように綺麗になっていた。
「しっかり直しておけばまだまだ大丈夫ですよ。テディベアにはテディベアのよさがありますが、この子にはたくさん思い出があるんでしょう?」
「は、はい!」
「お兄さんがそう仰ってましたよ」
「お兄ちゃんが・・?」
どうぞと差し出されたみっちぃを周は両手で受け取った。
毛並みが滑らかになって、身体もちょっぴり太っちゃって、色も手触りも何もかも違うようだけど、確かにみっちぃ。
昔から知っているみっちぃの感触だ。
ぎゅっと胸に押し当てて、みっちぃに頬擦りするように顔を埋める。
「いい匂い」
真新しくなったみっちぃはほんのりいい香りがした。
やっぱり手塚の腕の中にいる時のようだ。
小さい頃泣いていると、黙って抱きしめてくれた兄。
何よりも誰よりも安心できるその場所が大好きだった。
手塚の前で絶対泣かないと決めてから、みっちぃは周にとって手塚になった。
いつだってその影に手塚を想って・・・。
だからこそ大切だったのに、その兄に捨てられたと思ってものすごく悲しくなった。腹が立った。
全部全部自分の思い違いだったのに。
兄はちゃんと分かってくれていたのに。
「すみません、僕、行かなきゃ」
謝らなきゃ!ちゃんと謝って、それからそれから―――
「あら!」
カランとドアが開く音と店員のほんの少し驚いた顔に振り返れば、そこには会いたくて会いたくて仕方がなかった人の姿。
そう、本当はずっと話がしたかったのだ。いつものように向き合って。
表立って表情を変える事はないが、周には分かっている。自分を見る手塚の眼差しが穏やかで優しいこと。
一方的に話すことも目を細めて聞いてくれる。そんな何気ない空気を昨日の夜からずっとずっと求めていた。
それなのに―――嫌われたかもしれないと思うと目を合わす事すら出来なくて。
手を伸ばせばすぐに届いたのに、どうしていいか分からず逃げ出してしまった。
自分で作ってしまった距離。遠くて遠くて二度と帰れなかったらどうしようと心の中で必死でもがいていた。
たった一日だけの事。けれど淋しくて不安でみっちぃもいなくて。
一人ぼっち・・・
手塚がいなければ一人ぼっちになってしまう。
今戻らなければ、永遠に届かなくなってしまう。
世界で一番大切な人だから―――
「お前・・こんなとこにいたのか。部活にも出てないし心配――」
「お兄ちゃんっ!!」
笑っていよう・・・
心配かけないように、周は大丈夫だってそう思ってもらえるように。
どんな時も―――
笑っていようと決めたのに堰を切ったように溢れ出した涙は制御するなんてとても出来ない。
ここが店の中だということも、店員の方がいるということも、そんなことどうでもよかった。
周は手塚にしがみ付いて声をあげて泣いた。
「周?どうした、何があったんだ?」
昨日の夜にも見た周の涙。
何年ぶりだろう・・。昔はこうやって泣いている周を抱きしめたものだ。
転んで怪我をするとすぐに泣く。
かけっこで負けた時も、捕まえたチョウが死んだ時も、いつもいつもすぐべそをかいて。
近所のいじめっ子に髪や目の色のことでからかわれた時は、手塚から一晩中離れようとしなかった。
自分だけ家族の誰にも似てないと・・・
そんな周が涙を見せなくなったのは一体何時からだったのか・・・定かではない記憶を辿りながら、手塚は周をしっかり支えてやる。
「ごめんなさい、ごめんなさいお兄ちゃん!」
ずっと我慢してたのか―――
本当の周は目の前にいる。
いつだって笑顔の裏にあったのは、幼い日と何も変わらない周だった。
泣きたいだけ泣けばいい。自分の前で堪える事など何一つないのだから。
周の背中に回した手塚の腕に力が入った。
落ち着けばとんだ醜態を曝したことに気付く。
他に客がいなかったのが救いだが、こんなところで大声で泣くなんて店にも店員にも大迷惑な話だ。
「す、すみませんでした・・・」
真っ赤になって侘びる周に店員は言う。
「いいのよ、気になさらないで。私こそお邪魔虫だったんじゃないかしら?」
微笑みながら優しい気持ちをくれる店員に深く頭をさげながら
「みっちぃを綺麗にしてくれて本当にありがとうございました」
「あら、これは仕事ですもの。お礼は私でなくお兄様に、ね」
「はい!・・・・それから―――」
つつ・・と店員の側に行って耳元で言う。
「リフォームはやっぱりいいです。ごめんなさい」
「まあ!・・・ふふっ、分かりました。あの子も大切にしてあげてくださいね」
二人が楽しそうに話す声は手塚には聞こえない。
ただ、手塚もここで忘れていた事を思い出させてもらった。
深い感謝を込めて手塚は店員に頭を下げる。
「ありがとうございました」
手塚の後にちょこっと続いて付いていく。
そんな仲むつまじい兄妹の後ろ姿に店員はにこやかに
「またお待ちしております」と声をかけた。
夕暮れ時のオレンジ色の光が歩く二人の影を長く伸ばす。
地面に映る周の手が手塚の腕をきゅっと掴んだ。
「あのね、お兄ちゃん。今更・・だけど、あの子やっぱり貰ってもいい?」
「無理はしなくていい。こいつがいるしな」
手塚は周が抱いているみっちぃの耳を強く引っ張った。
「あんっ、何するの!可哀相でしょっ!!」
たちまちぷっと膨れっ面になる周を見て、してやったと手塚はくっくと喉を鳴らす。
よしよしとみっちぃの耳を擦りながら、周は小さな声で打ち明けた。
「ホントはね・・・嬉しかったの。お店で見た時すごく惹かれて・・・みっちぃに似てて、兄弟みたいだったから。それなのにあんな酷い事言って、僕・・・」
「もう気にするな。お前に断りをいれなかった俺も悪かった。実はその日に仕上がるものとばかり思ってて・・・こっそり綺麗にして驚かそうと思ったんだ」
母さんが一緒に持って帰ってるとばかり・・・とばつが悪そうに視線をはずす手塚は、妹でも滅多に見られない顔。
意外な兄の素振りに驚いて、ぽかんと口が開いてしまった。
「なんだその顔は?」
「お兄ちゃんこそそんな顔するから・・・」
「「・・・・・」」
互いに見詰め合ったまま数秒、二人はぶっと噴出して笑いあう。
心に溜まっていた澱みが綺麗に流されていくようだ。
帰ってこれた。一番安心できる場所へ―――
「でもどうして?みっちぃのこと汚いから捨てろって何度も言ってたくせに」
「今でもこいつの良さはよく分からん。正直テディベアも、な。だが、何年経っても変わらず大切にしてくれることは嬉しかったんだ」
「・・・・・」
くるりと身を返して手塚に向けた背中が微かに震えていた。
それなのに、「どうした?」と聞く手塚にまた向き直って周は笑顔を見せる。
「別に!何でもな・・い・・」
大きな掌が頭をそっと撫でる。
母親がまるで小さい子供にするように、何度も何度も温もりが頭を行き来した。
遠い昔に還る―――
ちょっぴり厳しいお爺ちゃま、優しいお父さん、温かいお母さん、いつも近くで守ってくれるお兄ちゃん。
けれど・・・蘇る感覚は記憶などないほどに遠くて。
絶対的な温もりと安らぎと愛情と。
遠くて遠くて・・・、
けれど忘れている何かを思い出させるように・・・・・意識がそこに還ろうとする。
「もう無理はするな。泣きたい時は泣けばいいんだ」
優しい声に自分の頬を伝ったものに気付く。
少し乱暴に擦ってみたけど、隠しても意味がないくらいに後から後から溢れ出て。
片手にはみっちぃ、もう片方は大きくて温かな手に引かれて、顔を隠す事も出来ず酷い顔のまま家路についた。
その夜は誕生日のやり直し。
「29日の代わりだから今日も誕生日よ」
申し訳なさそうに謝る周に母が言った。
「ただしケーキは昨日のだけど」と悪戯っぽく付け加えて。
一人で吹き消す14本の炎はちょっぴり照れくさくて、ありがとうの声はほんの少し小さかった。
*********
「え〜〜〜っっ!!」
「えーじゃない。サボったお前が悪い。いくら妹でも見逃さないぞ」
「お兄ちゃん男テニでしょっ!しかももう引退してるくせに!!」
「女子も男子も部活の厳しさは同じだ。いいな、逃げたら許さん」
手塚はどこまでも妹に甘い兄・・・でもないようだ。
事、部活となると鬼部長の本領発揮だ。公私混同等もっての外。
幸せな誕生日の締めくくりは、明日早朝からの罰則ランニングの厳しいお告げ。
「全く容赦ないんだから!ねぇ周助?」
「なんだその周助っていうのは?」
「この子の名前だよ。僕の周の字をとって周助!」
周のベッドには綺麗になったみっちぃとテディベアの周助が並んでいる。
手塚は腕を組んだままその二つのクマを見つめ、暫く黙り込んだ。
「どうしたの?」
「いや、こいつはみっちぃなのに何故こっちは周助なのかと思って」
「やだなあ、みっちぃは相性だよ。本名は国光っていうんだよ?国光の『みつ』をとってみっちぃ!知らなかったの?」
「・・・・・」
知らなかった・・・
というか、よくそんな大胆な名前を付けたものだ。
唖然とする手塚を尻目に周は楽しそうに続けて喋る。
「国光と周にしようかと思ったんだけど、この子どう見ても男の子だし。それで周助にしたの!弟の周助です、よ・ろ・し・く・ね!」
周助の腕を左右に揺らして手塚に愛想を振る。
よろしく・・と言われても。
しかもちょっと待て。いくら綺麗に修繕したとはいえ、国光があのボロ熊で周助がシュタイフのテディベアなのか?
「周、明日のランニングはグラウンド30周だ」
「なんでっ!?10周増えてるじゃん!朝から30周も走ったら授業にも支障がでるよ。いいの?授業中眠っちゃって僕の成績落ちてもお兄ちゃんはいいって言うの?」
「そうだな。それでは明日は帰ってから猛勉強だ」
「ええぇぇぇ〜〜っ!」
家中響くような大きな周の叫びは、聞こえているが聞き入れない。
「明日、5時半に起こしてやる」
手塚はきっぱり言い切って自室へ戻った。
翌朝―――
手塚に無理やり起こされた周は、早朝から重たい身体を引きずって学校へ行く羽目になる。
おまけに真面目に走るか見届けると、監視付きだ。
オフシーズン、テニス部の朝練はない。
本当は一人きりで部室に行かせるのが心配なのは見え見えだ。
だったら見逃してくれたらいいのに・・・
手塚の本音に気付いている周は内心で舌を出しながらグラウンドを走り出す。
30周、かなりのペースでいかないと授業に間に合わない。
「ハードな一日になりそう」
朝の光に眩しく目を細めながら走る周は、それでも満面の笑顔だった。
手塚は一人テニスコートでラケットを握った。
切れの良いサーブが無人のコートに何度も突き刺さる。
このコートでボールを打てるのも、後僅か―――
高等部に進学するとはいえ卒業を2週間後に控えた今、手塚は感慨深さで一杯だった。
3年間青春を過ごした場所。部長として全国で頂にも立った。
やり残したことは何もない。後は後輩に全てを任せて、また新しい自分のテニスを見つけるだけ。
3年間の思い出を胸にこれからの自分自身に気合を込めて、渾身の力で手塚は何度も何度も鋭い打球を放った。
息を切らしながらも周はその姿をじっと見つめる。
罰則ランニングは何とか時間内に走り終えることが出来た。
ここで手塚を見ることもなくなると思えば淋しさが込みあげてくる。
「どうしたの、そんな格好で?」
聞き覚えのある声に振り向くと、同じテニス部の友人だった。
気付けば登校してきた生徒達で、少しずつ周囲も賑やかになっている。
「えっと・・ちょっとトレーニングだよ!」
兄からのお咎めとも言えず、適当に繕ってまた視線を手塚に戻す。
「ふーん、朝から熱心ね。で、またお兄さん見ているの?ホント周は兄離れ出来ないよねぇ・・・」
「ぼ、僕はっ・・」
その通りなんだけど・・・
気恥ずかしくて否定しようとしても、事実だから続ける言葉がない。
苦々しい顔で言い訳できないでいる周に友人はぷっと吹き出して、
「まあまあ、手塚先輩だもん。例え兄さんでも見つめたくなるわよね」
「別に・・そんなんじゃないもん」
「無理して否定しなさんな。皆言ってるんだから。いっつも一緒にいれる周が羨ましいって」
友人はそんな言葉を残して校舎へ向かう。
羨ましい・・・か。
誰よりも近い存在。惜しみない愛情を注いでくれる。
周にとってもこの上ない喜びだけど・・・
いつかそれは時の記憶に変わっていく泡沫の日々。
最後に手塚の隣にいるのは・・・自分ではない。
羨ましいのは僕のほうだよ・・・
兄に大切な誰かが出来た時、一番の場所を笑顔で譲らなければならない。
例え身が切り裂けるほどに辛くても、笑って―――
『お兄ちゃんのお嫁さんになる』
幼い頃のささやかな夢は、あまりに儚く叶う事のない幻。
眩しすぎて決して届くことはない―――
光の中、周の瞳が映し出しているのは、仲のよい兄ではなく―――たった一人の男性(ひと)。
胸の奥にある心の扉が、ゆっくりと開きだした。
「お兄ちゃん・・・眩しい・・よ・・」
手塚が放つ打球の音がどこまでも春の空に響きわたる。
手を翳すのは光の所為かそれとも―――
「お兄ちゃん、そろそろ教室に行かないと」
「ああ」
愛しさと切なさに揺れる日々が始まる。
移り行く時間(とき)の中で―――
end / back
長い長い誕生日でした・・・(苦笑)。
なんか長すぎて誕生日企画だかなんだか分からなくなってしまいましたが、改めて不二君おめでとうございます。
一旦、終わりますが続編をコピーにて発行しております。
手塚への切ない恋心を自覚した周ちゃんと、妹バカの手塚がその後どうなるかはそちらにて完結いたします。
機会がございましたら、二人の未来でお逢いしましょう^^v (2007.3.5〜2007.4.5)