お兄ちゃんが・・・負けた?
『嘘・・・』
応援席の一番前でその事実を目の前にしてるのに信じられなかった。
都内で行われる春のジュニアトーナメント、小学生の部において手塚は最年少にしてシード選手に名を連ねていた。
それが・・・一回戦で敗退。
手塚の優勝を信じて疑わなかった周は、ラケットを片手にベンチに戻る姿を呆然と見つめていた。
何かスポーツをした方がいいと両親の意見から手塚が選んだのはテニスだった。
子供のうちはサッカーや野球のように、もう少し一般的なスポーツのほうがいいのではないかと初めは両親も心配したものだったが、それを他所に手塚のテニスの技量は並みならぬものだった。
スクールのコーチにもその才能を認められ、ジュニアの試合にも数多く参加するようになった。
幼いながら自分より身体の大きい選手をいともあっさり負かしてしまう、その世界では手塚はちょっとした有名人だ。
そんな天才児を一目見ようと集まってきたギャラリーも、あまりにあっけない幕切れで、皆期待はずれのため息を吐いた。
『なーんだ・・噂ほどもないわね』
『あれでシードなんて、ジュニアとはいえこの大会も落ちたよな』
『相手は6年生でしょ。そこまで言っちゃ可哀相よ』
口々に囁かれる台詞が周の耳に届く。
きっと手塚も耳にしただろう。
それでも表情一つ変えず、応援席の周に「帰るぞ」と一声だけかけると、黙って試合会場を後にした。
その時のラケットが手塚のものじゃなかったことに周が気付いたのはそれから暫く経ってからだった。
『前からおかしいって言ってただろう?前日にとうとう罅が入ったんだ』
何故借り物のラケットなんて使ったのかという周の質問に、手塚は特別大したことない様にあっさり答えた。
『でも、お兄ちゃん、貰ったお年玉で新しいラケット買うって言ってたのに』
『ああ、あれはやめたんだ。調子悪いだけでまだ使えたし、買い換えるのはやっぱり勿体無いと思って』
手塚家の教育方針もあって、手塚も周も一つのものを最後までとても大切に扱う子供だった。
手塚自身も無駄なことは嫌う。だから必要ないと判断したものに無闇に手を出すことはなかったが、ラケットは手塚にとって決して無駄なものでも贅沢なものでもなかった。
しかも潰れてしまった後も尚、新しいものを購入せずスクールの借り物ラケットを使用していた。
気に入ったものがないからだと手塚は言うが、新しいラケットが発売されるとパンフレットを見ながら心待ちにしていた姿を覚えている。
それなのにどうして?いつまでも手に馴染まないラケットを借りてるのはどうしてだろう?
周はどうしても理由が分からなかった。
『ねぇ、お母さん。お兄ちゃんなんでラケット買わないのかなぁ・・?』
『もう少しでお小遣いが貯まるんですって。買ってあげるって言ったんだけど、お年玉で違うものを買ったのは自分だからいいんだって言うのよ』
『違うもの・・?』
母の視線が周の腕の中のみっちぃに移る。
首を傾げながら見上げた母の瞳にみっちぃを見て、周は兄がラケットを買わなかった理由を悟ったのだ。
『みっちぃ・・?』
『優しいお兄ちゃんね。ラケットは今度でもいいけれど、あなたの誕生日はその日だけだからって』
幼い周の眼から大粒の涙がいくつもいくつも零れ落ちた。
兄の想いが嬉しかった。
でも同時に、自分のために兄が我慢しているなんて。
その所為で試合にも負けてしまった。
それが悔しくて悔しくて堪らなかった。
あの日の衝撃を今も忘れない。
大好きなのに―――大好きだから重荷にはなりたくない。
だからいつも笑っていよう。
心配かけないように、周は大丈夫だってそう思ってもらえるように。
どんな時も―――
笑っていよう・・・
とき
時間の扉 3
バンッ――
階上で凄い勢いでドアが閉まる音が響いた。
何事かとリビングに居た母が咄嗟に上を向くと同時に、ドドドッと足音を荒げて周が階段を駆け降りてきた。
「お母さんっ!」
「どうしたの、周ちゃん?そんなに慌てて・・・」
いつもおっとりマイペースの周が、こんなに息を切らして乱暴に飛び込んでくるなんて前代未聞の珍事と言ってもいい。
「みっちぃが・・いないの。お母さん知らない?」
「みっちぃって・・もう、びっくりするじゃない」
ただならない周の様子に母も一瞬不安気な表情を浮かべたが、原因がクマのぬいぐるみだと分かって、強張った肩の力を抜いた。
しかし周にとっては安穏としてられることではない。
今朝は確かにベッドの隅に座っていたのに・・・
声を震わしながら落ち着かない態度で母の返事を待つ。
「みっちぃなら今朝国光が持って行ったけど・・」
「お兄ちゃんが?何でっ!?」
オフシーズンのこの時期テニス部の朝練はない。
しかし今日は春の新人戦に向けてのメンバー選出のため朝からミーティングがあったのだ。
3年が引退してからは、部の決定事項は主に2年生が担っている。
手塚と違って部長職を任されるには至らないが、女子テニス部の主力メンバーとして周はこの手の話し合いには必ず借り出されるのだ。
遅くなる帰りは別としても、さすがに朝っぱらから部活の雑務についていくほど手塚も妹バカではない。
だから今朝は別々に家を出た。
「さあ・・・あなたが頼んだものとばかり思ってたから・・・」
「学校に持って来てなんて言わな・・・ねぇお母さん、それ・・・」
母が座るソファの横側に隠すように置いてある「それ」を見て周は瞠目する。
「やだ見つかっちゃった。夜まで隠しておいてって言われてたのに。あなたへのプレゼント、国光に頼まれて今日取りにいって来て・・・・・」
しまったと自分の失態に苦笑しながら話す母の言葉は耳に入ってこない。
周の目に映っているのは、透明のセロファンに包まれて、大きなリボンが掛けられている白いクマのぬいぐるみ。
みっちぃによく似たあのテディベアだった。
口元を覆った掌が小刻みに震える。周はその場で固まるように動けなかった。
「はい、ホントは国光が渡すべきだけど、見つかったものは仕方ないわね。後でお兄ちゃんにお礼言うのよ」
母から渡されたテディベアを胸の前でじっと見つめた。
さすがに本物だと言われるだけあって、その上品さは細部に響き渡る。
穏やかで優しい顔もどことなく愛嬌を備え、手作りの温もりを感じずにはいられない。
けれど―――どんなに素晴らしい作品であっても周にとってみっちぃに変わるものなどこの世に存在しないのだ。
「お兄ちゃん・・・何処行ったの?」
一緒に帰ってきたはずの兄がいつの間にかいない。
玄関先に出迎えてくれた母と何か話していたのは覚えているが、気にも止めず部屋に入った。
そうしたらみっちぃの姿が何処にもなくて・・・。
「予約しておいたケーキを取りに行ってもらったの。直帰ってくるわ。」
「ケーキ・・・?」
どうしてだろう?今日は29日じゃないのに・・・。
いつものように父の誕生日に一緒にお祝いしてもらって、それだけで十分幸せだった。
なのになんで今年に限って、ケーキだったりプレゼントだったり・・・?
「お父さんと一緒なんてやっぱりね・・・あなたはあなたでちゃんとお祝いしてあげたくて。まあ、29日だけはどうしようも出来ないけど」
例年と違うことに戸惑っているのが分かったのか、母は周が気にしないように理由をやんわり説明した。
母も周の性格は分かっている。
先日いつも通り父と一緒に周の誕生祝いもしたばかりだ。
二度も祝ってもらえてラッキーだと単純に喜んでくれればいいが、周はすまない気持ちが先立ってしまう。
それは幼い頃より、そうならざるを得ない育ち方をしてしまったから。
母はその事実を誰よりも側で見ていながら、手を差し伸べることが出来なかった事を悔いていた。
もし手塚がいなかったら、周はこんなに素直な子にはならなかったかもしれない。
自分がしてあげられなかったことを、息子がずっと補ってくれたのだ。
今からでも遅くはない。周だって可愛い娘に違いないのだから、出来るだけのことはしてやりたい。
「それも・・お兄ちゃんが言ったの?」
昔からあの祖父から正面切って庇ってくれたのは兄一人。
両親が冷たいわけではない。父も母もとても優しかった。
それでも祖父は絶対的で、楯突くことなど出来ない。
特に母が難しい立場であることは周も理解できた。
『それでは周があまりに可哀想です』
その環境で兄が遠慮もなく祖父に言ってのけるのは、祖父が兄を溺愛していることも然り、まだまだ子供の戯言と少々の生意気も許されている年齢でもあるからだ。
兄との違いを考えた事がないといえば嘘になるが、そのお蔭でどれだけ癒されたかを思うと、兄を羨む気持ちは自然と払拭された。
「言いだしっぺはそうだけど・・。でもね、お母さんもそう思ったの。だからケーキはお母さんからのプレゼントね」
素直に喜んで頂戴と、母が周の肩にぽんぽんと手を置いて目を細める。
「ありがとう・・お母さん。でも・・・でも僕はね――」
胸の奥にある言葉を絞り出そうとした時、リビングの扉が開いた。
「ただ今帰りました」
ケーキのボックスを持って部屋に入ってきた手塚が最初に見たものは、周がテディベアを抱えている姿。
息子が眉根を寄せたことに気付いた母は慌てて謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい、ちゃんと直しておけばよかったんだけど。周ちゃん気付いちゃって・・だから母さんから渡したの」
「それは構いませんが・・」
手塚が険しい表情を見せたのはプレゼントが周に見つかったからではない。
それを抱いている周が暗く影を落としているのが分かったからだ。
手放しで喜ぶとは思っていなかった。
それでも心の内にある嬉しさを垣間見るくらいは出来るだろうと期待していたのだ。しかし―――
「何で・・?僕、要らないって言ったよね?」
下を向いたまま目線すら上げることなく、呟くように問う周の声は密かに震えていて。
「何を言うの、周ちゃん。お兄ちゃんがあなたのために選んでくれたのよ?どうしてそんなこと――」
予想もしなかった周の態度に母も驚いて理由を聞こうとするが、手塚が小さく首を振ってそれを抑止した。
どうしてなのかは手塚にも分からなかったが、周のこの様子からしてどうやら本気で不満に思っていることは分かる。
ただ手塚はどうしてもテディベアを周にプレゼントしたかった。だから理由をとやかく聞き出すつもりもなく。
ストレートにそのままを口にした。
「お前にそれを贈りたかった。それだけだ」
「それだけって・・・」
感情を表に出す事が苦手な兄。それでもそんな風に淡々と答えられると周のなかのわだかまりがますます膨らんでいく。
自分を祝ってくれてるのだと分かっていても、それが兄の身勝手にさえ思えてしまう。
「そんな単純な理由でこの子を買ってきたっていうの?」
「そうだ」
「要らないのに・・。こんなの要らないよっ!!」
周が声を荒げて叫んだ刹那、手塚の顔面を弾いてテディベアは床へ転がり落ちた。
「周ちゃんっ!!」
母の驚いた声と共に周は手塚の視界から消える。その場から飛び出してしまった。
急に静まった空気の中、手塚は足元に放り出されたテディベアをそっと拾いあげた。
ラッピングが崩れてしまったそれを黙って見つめながら、周の様相を思い出しふーっと一息吐き出した。
あんな風に泣くなんて。
小さい頃から一緒に過ごしてきた妹。周の全て知り尽くしていると思っていた。
要らないという言葉も遠慮の上に成り立った偽りであると、最終的には喜ぶだろうと、そんな風に思い込んでいた。
けれど周のあんなに悲しい涙を見るのは・・・いつぶりだろか。
こんな事になるとは思いも寄らなかった。
「周は?」
飛び出した周を追いかけて出て行った母が戻ってくる。
母は静かに首を振って、周が家から出て行ってしまったことを示した。
「こんな時間に外へ行ったんですか?」
外はもう暗い。
この時期コートも着ず出歩いていればかなり堪えるだろう。
それに女の子が一人、もしも何かあったら―――
「探してきます」
「滅多な事はないわよ。もう少しだけ待ってみましょう」
表情を曇らせ落ち着かない様子で周を追おうとする手塚を母が止める。
「ですが―――」
「大丈夫、それなりに分別のある子よ。信じてあげなさい」
「日中ならともかくもう日は暮れています。周が意図しない事でも起きたら――」
あくまでも危険だと主張する手塚に母は短く嘆息し、宥めるようにそして諭すように続けた。
「そうね、あなたの言う通りだわ。年頃の娘を持つ親として母さんだって決して安易にしてるわけじゃないのよ。ただ、周だって一人でいたい時はあるわ。今はそっとしてほしいんじゃないかしら?」
「これはあいつをそんなに傷つけることだったんでしょうか?」
手に持っているテディベアに視線を落としながら、周を追い詰めた理由がどうしても分からない手塚はまるで自問するように母に問いかけた。
「母さんもちょっと驚いたけど、そのテディベアが理由じゃないと思うわ。多分・・・みっちぃじゃないかしら?」
「みっちぃ・・・ですか?」
母が口にしたその理由に手塚は面食らう。
周があんなに感情を荒げる姿を一度も見たことがない。
よほど触れてはいけない部分に入り込んでしまったのかと、手塚も少々うろたえてしまった。
その根源があのクマのぬいぐるみだというのか。
「なあに?その意外そうな顔は。あの子がみっちぃを可愛がってる事ぐらい知ってるでしょう?」
「でもそれだけであんなに?」
確かに周はみっちぃを大切にしている。
まるで生きているペットのように、いや本当の友達かのように毎日毎日触れ合って・・・
『こんな綺麗な子がやってきたらさすがにちょっと可哀相でしょ』
一緒にテディベアを見ながら周が口にしたことを思い出す。
気遣わせないようにとの口実だと思っていたが―――
「本気であのクマが不憫に思ったのか」
ぼそりと手塚がつぶやいたのを聞いて母がぶっと吹き出した。
「全くあなたって本気で鈍いわね」
「はあ・・・」
両肩をひょいとあげて、呆れたといわんばかりの母の発言に言い返す言葉もない。
「そういうことじゃなくてね・・・あの子知ってるのよ。みっちぃはあなたがラケットを買うために貯めたお金でプレゼントしてくれたんだってこと」
「・・・え?」
「自分の所為であなたが不自由な思いをしてるって、泣きながらこれでお兄ちゃんにラケット買ってって、貰ったお年玉の袋全部持ってきてね。くすっ、まるで昨日のことのように覚えてるわ。小さい周やあなたにこんなに気を遣わせて・・・、母さん自分が不甲斐なくて仕方なかった。でも周にはこれ以上ない宝物になったのね。あの子にとってみっちぃは昔の思い出なんかじゃなくて、今もずっとお兄ちゃんとの絆なのよ。だからあなたにもそうであって欲しかったんじゃないかしら。それを勝手にどこかに持っていったりするからよ。まさか捨てちゃったの?」
「・・・・・」
自分からのプレゼントが嬉しかったからこそ、大切にしてくれているのは分かっていた。
けれどあれから何年も経ってみっちぃはもう草臥れてボロボロだ。
そこまであのぬいぐるみに執着する必要もないと思っていた。
いつまでも小さい子供でもなく、ぬいぐるみを抱いて眠るのも卒業してもいいだろうと。
8年前の誕生日、あの日の周の淋しげな顔は小さい手塚も胸を痛めた。だからどうしても笑顔が見たくなったのだ。
ラケットは確かに延期になったが、それより周が喜んではしゃいでる姿の方が嬉しかった。
きゅっと縮まった自分の気持ちが晴れたからだ。
ずっと感じてきた周への罪悪感。自分との違いを幼いながら手塚も感じていた。
だからその分周を守ってやりたいとも思った。自分が周の支えになることでその気持ちを払拭したかった。
それなのに周のみっちぃへの拘りに、自分からの無償の愛を信じていたなんて。
「あなたがそんな顔してたら周が帰り辛くなるわ。酷い事言ったってきっと後悔してるはずよ」
「やっぱり探してきます」
「はいはい、気をつけてね」
苦笑を浮かべる母に見送られ、玄関を開けると小さく蹲った身体が眼に映る。
自らを抱えて座るその背中は酷く頼りなくて。
寒さに身を縮めているのか、手塚へのすまなさからか。
「ずっとここにいたのか。寒かっただろう?」
出て行ったはいいが、結局行くところなどどこにもなく。中に入ることもできず家の前でただ時間が過ぎるのを待った。
無言で首を振る周の瞳からは涙が一気に溢れ出て。
兄の心を踏みつけるような真似をしたというのに、変わらない優しさをくれる。
ごめんなさい――謝罪の気持ちはいっぱいなのに、喉の奥に引っかかってどうしても出てこない。
夜の冷たさに吐息だけが白く濁っては消える。
「もう中に入れ」
冷え切った身体は思うように動かず、手塚は周を抱えるように立たせてやる。
白い肌が寒さで赤く上気していた。
「先にお風呂入りなさい」
「はい・・」
やっとの思いで絞り出した声は母に答えるのが精一杯。
結局手塚には何も言う事が出来ず、合わせる顔もなく、そのまま自室に入って眠ってしまった。
みっちぃのいない初めての夜。
腕のやり場がどこにもなくて、自分を抱きしめながら周は眼を閉じた。