奈良歴史漫歩 No.009  聖武天皇が執着した紫香楽宮 橋川紀夫   

     
       山間の窪地に宮殿跡 
      

 信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅を出ると、町が用意した送迎バスが発車するところだった。5分ばかり乗って降りたところは、山陰の盆地の入り口である。稲株の残る田んぼの中の里道を北にむかって歩いていく。四方の山は紅葉して、山裾に瓦屋根の家がかたまっている。村里という言葉がピッタリくるような別天地である。盆地の奥まで歩いて、東寄りに曲がったところに今日の発掘調査現地説明会の現場はあった。

  11月14日の全国紙に次のような記事が大きく載った。
 「滋賀県信楽町の宮町遺跡で、紫香楽宮の宮殿と見られる建物跡が出土した。朝堂と推定される建物跡が去年出土したのに続くもので、その規模と計画性から本格的な宮が営まれたことがわかった。」

 現地説明会が開催された18日は、ときおり時雨れて寒風の吹く天気であったが、全国から大勢の見学者が集まった。
 この場所を私が尋ねるのは初めてであったが、バスを降りたときから、予想外の立地に驚いた。まるで隠れ里に来たような気がしたのだった。

 宮町盆地は南北が約1km、東西が約500mほどの狭隘と言ってもいいような窪地で、どこを向いても目前に山が控えている。都として人々が住まうにはもちろん、宮として天皇がお住まいになり、政治をとる施設を建てるのでさえ果たして十分だろうかと思えるほどの平地しかない。
 平城京のある奈良盆地も広くはないが、こことは比べものにならない。山城の恭仁京でさえ、ここに比べればオープンで平地に恵まれている。

 風と時雨がやんで、陽がふたたび差すと山の紅葉が鮮やかに映える。
 田んぼの中の発掘現場には、石灰で縁取った掘っ建て柱跡が幾十と並び、テープを引いて建物の輪郭を示す。これが宮殿跡なのだと思うと軽い興奮を覚えた。

       ほ場整備が遺跡発見のきっかけ

 聖武天皇が天平14年(742年)に「造離宮司」を置いて造営を開始した紫香楽宮はわずか3年で放棄され、宮跡の記録は早くから消える。宮町遺跡のちょうど真南2kmの場所に礎石群が残る一画があり、ここが紫香楽宮の跡と思われたこともあったが、礎石の配置から国分寺跡とされ、宮跡は長らく不明であった。

 昭和48年(1973年)、宮町地区のほ場整備で地中から径35cmに及ぶ太い柱の根っこが出てきた。地元の人が盆栽の置き台に転用したという柱根はやがて知られるところとなって、遺跡の存在が意識に上るようになった。
 昭和58年に信楽町教育委員会によって宮町地区の発掘調査が開始された。それ以来毎年、発掘調査が行われ、今年で第29次を数える。

 これまでの調査では、大型建物とそれを囲む塀や溝が出土していた。
 平城宮で使用されていたのと同類の土器や墨書土器と呼ばれる文字の書かれた土器も見つかり、「御厨(みくりや)」という高貴な身分を暗示する文字も残っていた。


上・信楽町周辺地図  下・遺跡周辺地図

 注目されるのは、800点を越える出土木簡の多さである。
 その中に「造大殿所」と読めるものがあった。「大殿」は宮では天皇がいる建物であり、大殿を造営する役所がここにあったことを示す。
 天平15年10月、大仏の詔が出た翌日の16日に「東海・東山・北陸三道の二五カ国の今年の調庸等は、みな紫香楽宮に貢(たてまつ)らしむ」という指令が出た。木簡に越前国の荷札があり、天平15年11月の日付が記されてあったのは、この指令と一致する。

 また、調査のきっかけとなった柱根を年輪年代法で調べると、743年に伐採したことが明らかになった。まさしく宮の造営時期に当たる。

       本格的な宮都を造営か

 このような発掘成果により宮町遺跡が紫香楽宮であることはほぼ間違いないと思われていたところに、去年の長大な建物跡の出土である。
 この建物は南北に113m、東西に12mの細長い建物で、朝堂院の脇殿と見られる。続日本紀には、天平17年の正月に大安殿で五位以上の者に供宴し、朝堂で百官の主典以上の者に饗(みあえ)を賜うとある。その朝堂であるが、紫香楽宮が仮宮か離宮程度のものという大方の予想を裏切る規模で衝撃を与えたのである。


東脇殿の掘っ建て柱跡

 今年の調査では、この脇殿と向き合う形で東側に建物跡が出土した。建物の全体は確認できていないが、柱の配置形式や柱間寸法から判断して、2つの建物は朝堂院の西脇殿と東脇殿と推定される。2つの建物の中軸間寸法は113.2mであり、建物の長さとほぼ一致する。東西南北ちょうど正方形の空間を生むような形で建物が配置されたことが分かる。

 東西脇殿間のほぼ中央、北端に東西に長い建物跡(建物1)が出土した。これも全体は確認されていないが、東西桁行9間(約37m)、南北梁行4間(約12m)ある。朝堂院の中心的な建物と推定される。
 この建物を一回り小さくしたような建物跡(建物2)が、15m北に離れて出土した。東西桁行9間(約27m)、南北梁行4間(約12m)あり、2つの建物は東西平行に並び、中心軸が一致する。

 建物2の南辺と重なる形で塀跡と門跡が検出された。柱掘形の重複関係から建物2を撤去した後つくられたことが分かった。塀の柱間隔は3m弱で、検出された長さは22間(65.3m)である。門は東西脇殿間の中軸線(従って建物1、2の中軸線)上に位置して、間口5間(14.6m)、梁行2間(5.6m)である。間口5間は門としては最大級の規模であり、この塀と門は宮の重要な一画を区切っていたことになる。しかし、塀がどのように延長されて、囲っていた地区が南北いずれになるかはまだ分からない。

 建て替え痕跡が見つかったことで、紫香楽宮の造営時期が少なくとも2段階あることが分かったことの意義は大きい。紫香楽宮は初め離宮として造営されたが、途中から宮に変更されたことを語るのか。

 昨年の調査では、宮町遺跡の南1kmにある新宮神社遺跡で、幅8.5m、長さ9.5mある奈良時代の橋跡が見つかった。さらにここから南1kmには国分寺跡の国史跡「紫香楽宮跡」がある。3つの遺跡は南北の一直線で結びつき、橋跡は朱雀路とでも言うべき道路が存在した可能性を示唆する。


建物2と塀、門の柱跡

       大仏建立の地に選ばれた紫香楽

 聖武天皇は、天平14年から17年の間に5回、紫香楽宮に滞在している。天平15年7月26日からの4回目にあたる滞在は、これまでの最長2週間の滞在に比べて長く3カ月あまりにおよび、この間の10月15日には「大仏造顕の詔」が出た。19日には、寺地を開き、行基が弟子を率いて工事に駆けつけている。

 その年の末には恭仁京の造営が中止された。年が改まって、都は恭仁か難波のどちらが良いかという異例のアンケート!が百官と市人に対して実施された末に、閏1月11日には難波宮へ遷都している。しかし、聖武天皇は2月24日またもや紫香楽宮に行幸して、結局翌年の5月に平城京に還都するまで居座ることになる。この間、難波宮には元正太上天皇と左大臣の橘諸兄が居留して、皇都のシンボルである大盾槍が立てられる一方、紫香楽宮には聖武天皇(たぶん光明皇后も)が滞在するという異常な状態が続く。

 聖武天皇は何故これほども紫香楽宮の滞在にこだわったのか。
 おそらく、大仏建立と関係があるのだろう。続日本紀の11月13日の条に次の記事が載る。「甲賀寺に初めて盧舎那仏の像の体骨柱を建つ。天皇、親ら臨みて手らその縄を引きたまふ。」
 11月17日には、元正太上天皇も紫香楽宮に移る。翌天平17年の正月には、新京と称されて紫香楽宮に大盾槍が立つ。しかし、紫香楽宮遷都には支配層の間にあっても反発する勢力があったのだろう。宮の周囲の山に放火と見られる火事があいついで、5月5日、天皇は紫香楽宮を出て平城宮に戻るのである。

 「史跡紫香楽宮跡」の国分寺跡は、大仏の体骨柱を立てた甲賀寺を引き継いでいると想定されているが、その確証となるようなものはまだ見つかっていない。甲賀寺の発掘調査もこれから期待される。

 聖武天皇は、なぜ大仏建立を発願したのか? 大仏建立の地に紫香楽を選んだのはなぜなのか? 現地を尋ねると謎はますます深まるようで興味は尽きない。



宮町遺跡第29次調査遺構配置図(現地説明会資料より)
●参考 「続日本紀」岩波書店 「宮町遺跡第29次発掘調査現地説明会資料」信楽町教育委員会 栄原永遠男著「今よみがえる紫香楽宮改訂版」信楽町教育委員会
遺跡全景・宮町盆地パノラマ
現地説明会資料(信楽町教育委員会)
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