奈良歴史漫歩 No.013  飛鳥寺から始まる日本の寺院  橋川紀夫   


     
蘇我氏全盛期の威信をかけた寺

 日本最初の本格的寺院として名高い飛鳥寺(元興寺、法興寺とも呼ぶ)も、かつてはあの金銅丈六釈迦像が雨ざらしにされるような零落の時期が長らくあった。今も尋ねていけば、狭い境内に小さなお堂がひとつあるだけの「田舎のお寺」なのであるが、ここをビッグな観光寺院に押し上げるに力があったのは、歴史の教科書に必ず載る飛鳥大仏の写真と約50年前の発掘調査の成果であるかも知れない。

 奈良文化財研究所による飛鳥寺の発掘調査は1956年3月から翌年の8月まで3次にわたって行われた。そして、文献だけでは全く想像もつかなかった伽藍の実態が明らかになったのである。当時も大きな反響を呼んだらしいが、もし今に置き換えたら現地説明会に何万人もの見学者が押し寄せるほどの発見が相次いだのである。

 飛鳥寺が『日本書紀』に初めて登場するのは、587年(崇峻即位前紀)に、蘇我馬子が物部守屋との戦闘の最中に「勝利できたならば、寺を建て三宝をひろめる」と諸天王と大神王に誓願したことを嚆矢とする。

 物部氏を滅ぼし朝廷随一の実力者となった馬子は、588年から明日香真神原で寺の造営を開始した。そのため、百済から僧、舎利、寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工を招来している。590年には「山に入りて寺の材を切った」こと、592年には「仏堂と歩廊を立てた」ことが記録される。593年には、心柱の礎石に舎利を埋納して仏塔を建立しはじめた。

 596年(推古4年)に飛鳥寺は一応完成したらしい。工事を始めて8年目であるが、この後も伽藍造営工事は続いたと見られる。馬子の長男の善徳が寺司(寺院経営の長官)に就いている。高麗の僧であり聖徳太子の師でもある慧慈、百済の僧の慧聡が「三宝の棟梁」として寺に入った。

 605年(推古13年)、推古天皇、聖徳太子、馬子等が発願して銅と繍の丈六仏像を各一体、鞍作鳥(くらつくりのとり)に作ることを命じている。これを聞いて、高句麗の大興王が黄金300両を献上した。
 『書紀』では翌年に仏像が完成したことになっているが、他の資料との照合によって判断すれば4年後の609年に完成したらしい。この時、銅像を金堂内に搬入しようとしたところ、像が高すぎて戸口を通らない。あわや扉を壊さなければならないという段になって、鞍作鳥が指図するとすんなりと通って堂内に安置できたというエピソードもある。

 今、飛鳥大仏として知られる丈六釈迦像がこの時の銅像だと見られる。しかし、今見る仏像は後世の補修を受けていて、元の姿というのは右手の一部と目から上の頭部だけといわれる。満身創痍のお姿ではあるが、後世の慣れ親しんだ仏様のお顔とは大きく異なる面長の異貌は、法隆寺金堂のもっとも初期の仏像とも共通した印象があって、なるほど草創期の仏様であると納得させられる。それは、また石舞台古墳や猿石や亀石などのユニークな形象と一脈通じていて、飛鳥という時代のイメージをえる手がかりとなるのである。

首塚より飛鳥寺を見る

     古代史の政治の舞台となる

 飛鳥寺は古代史の政変の舞台としてもよく登場する。
 飛鳥寺の西側に蘇我入鹿の首塚という伝承のある五輪塔がある。このあたりが、「飛鳥寺の槻の木の広場」があった所だとされ、ここで中臣鎌足は中大兄皇子と劇的な出会いをした。645年の乙巳のクーデターの際、入鹿を殺害した中大兄皇子はただちに飛鳥寺に軍営を敷き、甘樫丘に拠った蝦夷と対抗している。蘇我氏の後ろ盾を失った古人大兄皇子は皇位を辞退して出家するが、髪を剃り袈裟を着てみせたのは飛鳥寺仏殿と塔の間であった。皇位を継いだ孝徳天皇が、群臣を集めて忠誠を誓わせたのも「大槻の下」であった。

 672年の壬申の乱でも飛鳥寺は両軍の攻防の舞台となった。近江朝廷側は飛鳥古京を守るために飛鳥寺の西に軍営をかまえたが、大海人皇子側についた大伴吹負(ふけい)の急襲を受けて壊滅した。

 蘇我本宗家が絶えた後、飛鳥寺は官寺として処遇されていたようだ。天武天皇が行幸し、3大寺(大官大寺、飛鳥寺、川原寺)、4大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、弘福寺)として事あるごとに斎会が執り行われている。

 都が平城京に移り、飛鳥寺も平城京に移ったのは718年(養老2年)である。この時、飛鳥寺の伽藍の一部は壊されて、平城京の元興寺の資材に充てられたようだ。しかし、飛鳥寺は本元興寺として存続し、15大寺のひとつとして平安時代を通じて頻繁に斎会が催されている。

 1197年(建久9年)、落雷のため堂塔が消失、その後復興されることはなく、田舎の破れ寺のようにひっそり生きながらえてきた。ふたたび表舞台に登場するのは、昭和の発掘調査まで待たなければならなかった。

    1塔3金堂の伽藍配置様式の驚き

 発掘調査でわかったことの何より筆頭にあげなければならないのは、1塔3金堂の伽藍配置様式である。飛鳥寺様式とも名づけられた伽藍配置は、塔を中心にして北と東西に金堂を置き、日本では他に類例を見ない。しかし、高句麗の清岩里廃寺が同じ様式であり、この影響を受けたと考えられる。

 塔と金堂が一直線に並ぶ四天王寺様式は飛鳥寺様式から東西の金堂を取り去ったものであり、金堂と塔が東西に並ぶ法隆寺様式は同じく中金堂と西金堂を取り去ったというふうに考えられる。飛鳥寺以後に建ったお寺の伽藍配置は、飛鳥寺様式のバリエーションなのである。

 時代が下がるにつれ金堂が寺院の中心を占めるようになるが、飛鳥寺では塔が中心であったことが明確にわかる。ストゥバから発展した木造の塔は舎利(釈迦の遺骨)を納める墳墓でもあるが、初期の寺院は舎利へのこだわりが核心にあった。飛鳥寺の塔跡から発掘された心礎(心柱を載せる礎石)は地中3mの深さにあって、東西2.6m、南北2.4mの花崗岩である。中央に約30cm四方の穴を穿ち、さらに穴の東側面に龕(がん)状の穴を設けて、ここに舎利容器が納めてあったと推定される。

 1197年の焼失の後、寺僧により塔の基壇が掘り返されて舎利や荘厳具も取り上げられたのであるが、再び新しい石の容器に納めて埋納された。これら舎利埋納物には、勾玉、管玉、小玉、金環、銀環、金銀の延べ板・小粒、金銅製飾金具、青銅製馬鈴、蛇行状鉄器、挂甲、刀子などがあった。同時代の古墳の埋納物とまったく変わらず、当時の人々の意識がうかがえる。

 中金堂は現在の飛鳥寺本堂と同じ位置にあったことが確認された。基壇は東西21.2m、南北17.5mの切石積基壇であり、山田寺金堂や法隆寺西院金堂の基壇とほとんど同じ大きさであった。金堂本尊の丈六釈迦如来座像は石造台座に据えられているが、この竜山石の台座は創建時のままの位置を保っていることもわかった。

 塔を中心にして東西の対照的な位置を占める東西金堂は2重基壇であり、上成基壇は玉石積、下成基壇には小礎石があるなど、中金堂とは異なる様式を示す。特に下成基壇の小礎石は類例がなく、どのような建物の構造であったか定見は得られていない。

 塔と金堂を囲んで梁行1間の回廊がめぐっていた。東西112m、南北90mの規模があり、中門(正面、奥行き共に3間)が取りつく。

飛鳥寺本堂

     道照の「東南禅院」跡も出土

 中門から南へ7mほどの距離に南門が見つかった。正面3間、奥行き2間の8脚門である。中門より一回り小さい。南門より東西に基底部幅1.5mの築地塀が伸びる。

 講堂は回廊の北側にあって、中門、塔、中金堂と中心軸を共にする。基壇は東西幅が43m、南北幅が26mとなる。建物は正面8間、奥行き4間となる。講堂は寺僧の学問した場であると普通説明されるが、今見る講堂は金堂と同じように堂内を仏像が占めていてもっぱら礼拝する場である。飛鳥寺の講堂が正面8間であったことから、中央に大きな仏像が安置されるようなことはなく、講堂本来の使われ方をしていたのではないかと言われる。

 飛鳥寺の寺域は南門に取りつく築地塀と東西及び北で発掘された掘立柱塀に囲まれた区画だとすると、東西215m、南北293mとなる。当時の単位で2町、3町の規模となるが、区画外にも広がっていた形跡があり、確定しているわけではない。いずれにしろ、寺域は伽藍の北側と東側に大きく広がっていたことは確かである。

 寺域の南東に接する部分で7世紀後半の建物群が見つかった。『続日本紀』に日本法相宗の祖といわれる道照が飛鳥寺の東南に禅院を建てて教えを広めたことが出てくる。建物跡はこの「東南禅院」だと見られる。道照は入唐して玄奘三蔵法師について学び、帰国後は教学と共に民間事業や布教にも功績があったという。また日本で最初に火葬された(700年)人物としても記録される。

 飛鳥寺を語るときに欠かせないのが、瓦である。日本で最初の瓦葺きの建築物であるから、その瓦は古瓦による編年の原点として重要視される。飛鳥寺の瓦を焼いた瓦窯がすぐ近くの丘陵(飛鳥池工房の置かれた丘陵)の斜面から発見されている。

 何事につけ「日本最初」という冠がつく飛鳥寺、したがってその遺跡での出土物、出土事例がつねに熱い注目を浴びるのも当然だろう。

飛鳥マップ
●参考 『日本書紀』岩波文庫 『飛鳥寺』飛鳥資料館 坪井清足著『飛鳥の寺と国分寺』岩波書店
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