奈良歴史漫歩 No.016  お水取りの魅力   橋川紀夫   

 
 
●お松明の壮大な光景

 お水取りは、別名「お松明」とも呼ばれる。
 言うまでもなく、 初夜上堂に用いられた松明が二月堂の舞台から火の粉をまき散らす連夜のパフォーマンスをさす言葉だろう。お水取りの一連の行事の中で一番よく知られて、また一番華やかな場面である。連日境内を埋める何万人の人もほとんどは、このお松明のシーンが目当てだと思う。

 この松明は、初夜の勤行のため参籠所から上堂する練行衆の足下を照らす。上堂松明と言われ、太い竹の一端に松の板と杉の葉を束ねて大きな玉を作り、藤つるで結わえる。12日に点火される松明は特に大きくて籠松明と呼ばれるが、長さ8m、重さ80kgにもなる。童子が一人でそれを肩に担ぐ。籠松明には特に竹の根元がつくが、担いだとき、もう一方の点火部分の重量とバランスを取るためらしい。

 練行衆は11人であるのに、上堂松明が10本であるのは、平衆の処世界が初夜勤行の準備のために先に上堂しているためである。しかし、12日には処世界も改めて上堂作法に加わるために、籠松明は11本となる。

 足下を照らす明かりを取るだけなら、小さな手松明でも十分用を果たすだろう。当初から今のような松明があったとは考えにくいが、では何時から使われたのだろうか。残念ながら、寡聞にして確かめるすべはないが、17世紀後半の「二月堂お水取り絵巻」には、華やかな初夜上堂作法の場面が登場して、今と同じ形の松明が描かれている。気になるのは、松明の大きさが小さくて、童子も縦にして肩に担ぐのではなく、横にして両手に持っていることである。しかし、これは人物をつめて描くという図面構成上の要請からくるデフォルメのように思える。食堂にたてかけた松明も描かれるが、それは屋根の高さを超えるスケールである。
 したがって、今の二月堂が建った17世紀後半にはすでに上堂松明が使用され、大勢の参観者を舞台の下に集めていたことだろう。

 参籠宿所の細殿から現れた松明は、登廊の天井も焦がさんばかりに燃えさかり、しずしず上っていく。舞台に現れると、欄干から突き出された炎はひときわ高く噴きのぼり舞いあがる。松明は欄干を枕にころがされ、火の粉が渦を巻いて飛び散りながら、舞台の端から端へ移動していく。再び舞台から突き出されて激しく揺さぶられ、炎の塊が滝のように流れ落ちる。歓声の中で、竹や木の爆ぜる音が聞こえる。次の松明が舞台の端に現れている。

 何度見てもスペクタクルな光景で、お松明のあとはしばらく放心状態になる。しかも単なるスペクタクルな見せ物には終わらない。火の粉をかぶると、無病息災の霊験があるという言い伝えがあって、舞台下の芝生に落ちた燃えかすを持ち帰り、神棚におまつりしている人も多い。お松明を見るだけでも「ありがたい」気持ちにさせてもらえることも、この行事がかくも人気を呼ぶ理由の1つだろう。

参籠宿所細殿に立てかけた上堂松明

12日の籠松明

 
 
●勧請された十一面観音

 松明のショーアップ効果は二月堂の舞台を抜きにしては考えられない。まるでお松明を行うために舞台をこしらえたように思えるが、もちろん建物が先に存在したのである。

 二月堂の本尊は十一面観音菩薩であり、観音菩薩は南海の補陀楽(ふだらく)浄土に住むとされる。補陀楽浄土は切り立った岩山であるから、観音菩薩をまつるお堂も平地ではなく、岩山斜面に建てることが多くなる。それで、お堂も前面に舞台を設ける懸崖造りと呼ばれる建物となる。二月堂を始め、清水寺や長谷寺の舞台も同じ例である。

 前回にも書いたように、二月堂本尊は内陣に安置される。絶対秘仏であり、練行衆といえども拝することはできない。不思議なことに、本尊は2体あってそれぞれに大観音、小観音と呼ばれる。大観音は、内陣中央の須弥壇上に立つ。小観音は小型の厨子に収まって普段は大観音の前に置かれる。

 2月21日、小観音の厨子は礼堂に出されて清拭したあと、須弥壇の東側、大観音の背後に運び置かれる。3月1日から7日までの上7日の本行では、大観音が本尊となる。7日の日没の行のあと厨子は再び礼堂に運び出される。後夜のあと礼堂から外陣を回り内陣へ後入して、大観音の前に据えられる。14日までの下7日の行で本尊になるのは、小観音である。つまり本行の途中で本尊が交代する。そして、7日の「小観音出御・後入」は上7日のクライマックスでもある。

 このきわめて興味をひく小観音は、お水取り行事の縁起に関わる。
 実忠和尚がお水取りを創始したのは、笠置山の龍穴に入り込んで都率天に至ったことにさかのぼる。和尚はそこで天人が集まり十一面悔過の行法を修めているのを見た。和尚はそれをぜひ人間界にも移したいと願ったが、天上界の1昼夜は人間界の400年に相当して、行法の内容は難しく、本尊には生身の観音を迎えなければならないという。

 しかし、実忠は天界から戻ると行法を起こした。千遍の行道は走って時間を短縮したが、これが「走りの行法」の由来でもある。難波津におもむき補陀楽山に向かって観音の影向(ようごう)を勧請した。100日ばかりして、生身の十一面観音が波間に現れたという。
 この時の補陀楽山から迎えた十一面観音が、小観音なのである。厨子には波の模様も刻まれていて、「小観音出御・後入」の行法は縁起の観音勧請を再現しているといわれる。

 二月堂の舞台に立ち前方に開ける景色を眺める。私がもっとも好きな奈良のパノラマシーンである。大仏殿の大屋根と金色の鴟尾、市街の向こうに広がる平城宮跡と平城山の丘陵、遠景には生駒山の横たわる山なみ。日没となれば生駒山に日が沈み、西方浄土という言葉もふと浮かぶ。

 生駒山を越えれば難波津がある。その海の彼方に観音様のおわす補陀楽浄土があると人は信じた。舞台からはもちろん海は見えない。しかし、観音様がやってこられたのはまさしくこの方角からである。西の空を真っ赤に染めて差す夕日に観音の化身を見ることがあったとしても何ら不思議はないように思える。感傷かも知れないが、二月堂の舞台はこんな思いを誘う場所なのである。

14日のお松明、この日はしりつき松明とも言われて
間隔を置かず上堂して、舞台に松明がそろう。

14日のお松明

 
 
●達陀の謎

 お水取り行事の中でお松明の次に人気があるのは達陀(だったん)であろう。 
 しかし、この行法は12日、13日、14日の後夜の時に行われるから深夜となり、参観できる場所も限られているから、行法を実際に見た人は少ないだろう。かくいう私も南の局からのぞき見た程度である。それでも、その迫力には息をのんだ。

 金襴の施された兜のような帽子をかぶった八天が内陣から正面に走り出てきて、浄火、浄水、ハゼ、牛玉杖(ごおうつえ)を礼堂に向かって投げ散らす。次に、太刀を振り下ろし、金剛鈴、錫杖、法螺を吹き鳴らして加持する。

 この後、達陀松明を抱える火天と灑水器(しゃすいき)を持つ水天が内陣を駆けめぐる。西正面に来ると二天は向かい合って、火天は松明を突きだし、水天は灑水器から水を濯ぐ所作をする。法螺の音とともに跳躍しつつ礼堂に向かって前進し、また退く。ひとしきりこれを繰り返したあと、内陣を一周してまた同じ所作が繰り返される。
 堂内が火の海となり、ユニークな出で立ちをした火天・水天が激しく跳びまわる。鈴や法螺の音が鳴り響く。聴聞者は魂も吸い込まれたようにただただ圧倒されるばかりである。

 達陀という名前のいわれも行法の意味も縁起には載っていない。研究者の間ではいくつかの説がでている。サンスクリットの「焼く」の意味にあたる「タプタ」説。大地を踏みならし霊力を引き出す民俗呪法「ダダ」説。ゾロアスター教起源説。追儺行事関連説。雑部密教教典に拠り所があるという説。しかし、まだ定説と呼べるものはない。

 お水取りは、参観し聴聞するほどにその魅力にはまっていく。仏教行事としてただ厳粛一方だけではなく、私のようなミーハーも虜にする全感覚的なショーとしてまことに巧妙な構成と演出が仕組まれているからだ。それが、現在花盛りのイベント行事では体験できない感動を与えてくれるとしたら、あえて法悦という言葉をあててもいいかも知れない。 

●参考 「東大寺お水取り」小学館 「お水取り」保育社 「南都仏教52号」東大寺
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