奈良歴史漫歩 No.018   エキゾチックな頭塔     橋川紀夫   

  ●玄肪の首塚伝説

 奈良市高畑町に所在する頭塔(ずとう)は、奈良時代の高僧、玄肪の首を葬った塚であるという古くから流布した伝説がある。まだ整備復元工事にかかる前の20年ほど前、頭塔の南側を通る道から人家の屋根越しに見上げると、小山のような隆起があり、木が生い茂っていた。鍵のかかったフェンスから覗くと、古い石仏らしきものが草の間に隠れて、それはいかにも気味の悪い曰わくありげな場所に見えた。

 玄肪は717年、吉備真備とともに入唐留学。法相宗を智周に学び、時の玄宗皇帝からも重んじられたという。5000巻の一切経を携えて、735年に帰国。2年後には僧正に任命され、橘諸兄のもとで真備とともに力をふるった。しかし、旧来の勢力の反発もあり、740年に玄肪等の排除を要求する藤原広嗣の乱が起きた。745年に太宰府の観世音寺に左遷され、翌年に死去した。

 伝説では、玄肪は広嗣の怨霊に八つ裂きにされ、頭部の落下した地がすなわち頭塔であるという。平安時代末の旅行記である大江親道の「七大寺巡礼私記」に載る記事が初見である。江戸時代には頭塔=玄肪の首塚は定説化していたようだ。

 頭塔から東に700m行くと新薬師寺があるが、その隣にある鏡神社は藤原広嗣を祭神にする。何時から広嗣を祀るようになったか明らかでないが、頭塔=玄肪首塚伝説の影響を感じる。また鏡神社の南西に広がる奈良教育大学の構内には、吉備真備のお墓だという吉備塚があり、これを動かすと必ず祟りがあると地元の人の間に言い伝えられてきた。

 関わりの深い三者の霊が狭い地域に呼び寄せられ祀られているのもきわめて面白い。怨霊信仰の強い磁場がかつてこの土地に渦巻いていたのだろうか。

  ●実忠和上が築造した土塔

 頭塔が767年(神護景雲元年)に東大寺の高僧、実忠和上(じっちゅうかしょう)の造った「土塔(どとう)」にあたるという説が唱えられたのは、昭和に入ってである。板橋倫行(1929年)と福山敏男(1932年)は東大寺要録の「実忠二十九箇条事」の記事を引いて新説を提唱したのであるが、これはすぐに学界の認めるところとなった。

 「どとう」がなまって「ずとう」となり、玄肪の首塚伝説と一体になって「頭塔」と称されるようになったとも推測される。

 実忠和上は東大寺二月堂の修二会を創始した人物であるが、東大寺初代別当良弁の片腕として実務の才を発揮した。また卓抜な土木・建築技術の持ち主であったといわれる。

 頭塔は国の史跡となり、奈良時代の製作と確認された石仏は重要文化財に指定されたが、いわゆる観光コースからも外れ、首塚伝説の雰囲気を残すまま長らくあった。

 奈良県教育委員会が頭塔の復元整備の方針を立てるとともに、奈良文化財研究所による発掘調査が1986年から始まった。調査は12年間に9次にわたり行われ、頭塔のほぼ全貌が突きとめられた。そこには予想外の新知見も含まれていて、頭塔への関心がさらに呼び覚まされる。奈良文化財研究所が刊行した浩瀚な「史跡頭塔発掘調査報告書」(2001年)から、内容のほんのひとつまみであるが、そのさわりを紹介したい。


復元された頭塔東面


復元された頭塔北面

  ●上層頭塔と下層頭塔

 発掘成果の中でももっとも予想外であったのは、頭塔が短期間のうちに全面的に築造し直されていたことである。最初に築造された頭塔は下層頭塔と名づけられ、今現在、復元されている上層頭塔の姿とはかなり異にする。

 下層頭塔は、一辺約32m、高さ約1.4mの方形基壇に版築を積み上げ3重の塔身であったと推定される。発掘では第1段と第2段の石積が発見された。東面第1段中央に大きな仏龕(ぶつがん)があった。

 基壇、塔身ともに平面が正方形ではなく台形状で、それぞれの振れが逆方向を示す。塔身の各辺は直線ではなく屈曲する。基壇上面が水平ではなく勾配がある。このような点で、土木工事としてはずさんであった。また石積も大きな隙間があって裏ごめもなく、高さも2mを越えていたから、かなり崩れやすかったと見られる。

 上層頭塔は、下層頭塔の基壇をかさ上げし、下層頭塔を芯にして一回り大きな7段の塔身を築く。高さは約8mで、全面に石積と石敷きが施されていた。

 奇数壇には仏龕が安置してあった。各面の第1段には5体、第3段には3体、第5段には2体、第7段には1体があり、東西南北4面で合計44体となる。

 奇数壇の上面は幅が狭くて急傾斜であり、偶数壇の上面は反対に広くて傾斜も緩やかである。このことから、奇数壇上面には瓦が葺かれ、偶数壇はテラス状になって石仏に参拝できるように考慮されていたのではないかと見られる。

 多量の瓦が出土したが、軒瓦はすべて東大寺創建期の笵(瓦の原型)を使用した瓦であった。

 頂上の地中深く礎石が一基出土した。心柱を据えた礎石と見られ、相輪を飾る木造瓦葺き一重塔が建っていたと推定される。したがって、上層頭塔は全体として5重の仏塔として復元される。

  ●古墳の上に造営した頭塔

 下層頭塔の築造時期を推定する決め手となったのが、頭塔の下から出現した横穴式の古墳である。古墳石室の上半部は破壊されていたが、6世紀に築造された。

 正倉院文書の中に「東大寺の南で行われていた工事でお墓を破壊したので、その供養のために写経する」という記事の文書があった。その日付が天平宝字4年(760年)である。古墳とこの文書の対照により、下層頭塔の築造時期は760年頃と推定されるに至った。

 神護景雲元年(767年)に実忠和上が造営した土塔は、したがって上層頭塔である。


頭塔断面模式図 3月17日現地説明会資料


北面第1段西端の仏龕 弥勒菩薩と善財童子

 誰しもが知りたく思うのは、他に例をあまり見ない土塔が何故建設されたのかという理由だろう。これも推定を重ねるしかないが、「報告書」では次のような理由が挙げられている。

 760年は光明皇太后が病に臥し亡くなった年であるが、病快癒を祈って、娘の孝謙上皇が発願したのではないか。

 頭塔の位置は、東大寺の南北線と新薬師寺の東西線の交点にあたり、平城京四条大路の延長線上にある。両寺とも皇太后に縁の深い寺であり、また高台の端にあって目立つ場所である。

 土塔のアイデアは、遣唐使がもたらした中国のせん塔の見聞にあり、当時の中国崇拝の風潮に乗ったという。

 767年の再築造は、恵美押勝の乱を平定して重祚した称徳天皇が国家安穏を祈願して、百万塔の造像などと並んで行った。

 この造りかえで、下層頭塔の構造的な欠陥が修整されるとともに、土塔に込められた教学的な構想も大きく変わった。

 仏龕は44体に増えたが、それには仏が刻まれ、華厳経の世界を表す立体マンダラであるという。北面に弥勒如来、東面に多宝如来、南面に釈迦如来、西面に阿弥陀如来を配して、7段目には4面ともに盧遮那仏を置く。

 現存する仏龕は、発掘された14体を加えて27体、他に大和郡山城の石垣に転用された1体が知られている。

  ●復元された頭塔のエキゾチシズム

 土塔が損傷を受け、本来の意味が忘れられるのは早かった。

 8世紀の末には、頂上の木造塔は落雷して焼失。実忠和上が築造した石積も欠陥があって長くはもたなかった。同時に瓦屋根も崩落しただろう。
 「7大寺巡礼私記」には「十三重の大墓」と記されるが、木造の塔が焼失した後、石造の六角屋蓋十三重塔が建立されたことが、発掘調査からも確認された。この十三重の塔もいつしか崩壊し、江戸時代に作られた五輪塔が今も頂上部に立つ。

 11世紀以後、頭塔は興福寺の管理のもとにあったが、18世紀前半に日蓮宗常徳寺の手に渡った。南西部分が削平されて、小さなお堂が建てられたという。また南面に並ぶ墓石はこの頃のものである。明治に入り、国の管理となった。

 頭塔の復元整備は2000年に完成した。北側半分が7段の塔身に復元され、石積と石敷きで覆われる。出土した石を戻し、不足の分は新たに補ったという。仏龕の上には保護を兼ねて瓦が葺かれる。

 まったく他に見かけない形態の構築物である。木造の堂塔を見慣れた目には、荒々しく異国的にも映る。報告書では関連を否定されているが、ジャワのボロブドールをイメージさせられるのも無理はない。

 日本の土塔は他には、大阪府堺市の大野寺土塔と岡山県熊山町の熊山遺跡が残るにすぎない。木造の仏塔は好まれても、土塔が受け容れられなかったのは何故か。「報告書」では触れていなかった疑問が湧いてくる。


東面第1段中央の仏龕 多宝如来と二菩薩


上層頭塔の復元立面図 3月17日現地説明会資料

●参考 「史跡頭塔発掘調査報告書」奈良文化財研究所
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