奈良歴史漫歩 No.020   春日大社の原像    橋川紀夫   

   ●勧請された春日四所大神

 世界遺産にも指定された春日大社(奈良市春日野町)は、もちろん知らない人とてない有名な神社であるが、その祭神となると神社の名前ほどは知られていない。

 本殿向かって右の第一殿には武甕槌命(たけみかづちのみこと)、第二殿には経津主命(ふつぬしのみこと)、第三殿には天児屋根命(あめのこやねのみこと)、第四殿には比売神(ひめがめ)を祀る。これらの神々は春日四所大神とも春日明神とも称される。

 記紀神話に登場するビッグネームの神様であるとはいえ、一般的には、たとえば天神さんや八幡さん、お稲荷さんや恵比須さんのような親しみはもちろん、知名度もない。

 それもそのはず、高天原の雲の上におられる偉い神様なのである。天照大神が、御子孫の天孫降臨にあたって出雲の大国主命に国土を譲るように談判されたとき、その遣いとなって交渉を成功させたのが、武甕槌命と経津主命である。天児屋根命は、これまた天照大神が天岩戸にお隠れになったとき祝詞を奏して大神のお出ましを願った神様であり、比売神はその后神とされる。

 四神とも春日に元からおられた神ではなく、他所から勧請された。武甕槌命は常陸国(茨城県)鹿島神宮、経津主命は下総国(千葉県)香取神宮、天児屋根命と比売神は河内国(大阪府)枚岡神社に祀る。

 春日大社に残る最古(鎌倉時代初期)の由緒記である「古社記」には、神社の創建を神護景雲2年(768)とする。これは、現在見るような四所神殿が建立された時期であろうと言われるが、公式的にもこの年をもって創建されたとする。

 神護景雲といえば、奈良時代も後期であり、称徳天皇のもと道鏡が力をふるい、藤原北家の永手が左大臣であった。

 四神を勧請した神殿が建立されるとともに、神社は藤原氏の氏神としての性格を鮮明にする。天児屋根命はもともとが藤原氏の出自である中臣氏の祖であり、武甕槌命と経津主命は藤原氏の氏神として取り込まれていく。神話時代の国土平定の功労者とのつながりを強調することは、藤原氏の立場を強化する意味があったのだろう。

 春日大社はその後、藤原氏の氏寺の興福寺と一体化し、藤原氏の伸張と軌を一にして繁栄する。中世には、興福寺の実質的な支配を受けて独特の神仏習合を展開する。興福寺大衆が京に上って強訴するとき、その先頭にはつねに春日神人に担がれた動座神木があった。明治維新の廃仏毀釈で廃寺となった興福寺の 高僧が還俗して、春日大社の神官に転向するという歴史の一幕もあった。

●春日大社回廊の釣灯籠

   ●御蓋山の神祀り

 春日大社の創建は公式的には神護景雲2年とされるのだが、それ以前から同地で神祀りの行われていたことは確かである。

 「続日本紀」の養老元年(718)に、「遣唐使、神祇を御蓋山(みかさやま)の南に祀る」という記事がある。都が平城京にあった時代を通じ、遣唐使派遣に際して御蓋山の下で神祀りするという習慣があったらしい。「青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌で有名な阿倍仲麻呂も養老元年の遣唐使の一員であり、「御蓋山の南での遙拝」に加わっていたと想像すると、この歌がさらに生々しく感じられる。

 正倉院宝物の「東大寺四至図」は天平勝宝8歳(756)の春日山周辺の状況を伝える。
「御蓋山」と書いた山の西麓、ちょうど今の社殿が建つあたりに方形の区画があり、そこに「神地」と書き込まれている。御蓋山を遙拝して西面する形であったことがわかる。東大寺の大仏殿や法華堂などは建物が描かれているが、神地とある場所には建物はない。したがってこの頃には、まだ社殿と呼べるような建物はなかったと推測できる。神事の毎に神籬(ひもろぎ)のたつ聖域が設けられていたのだろうか。

 平城遷都の詔に「平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮をなす」とある。平城京が当時の風水思想を意識して選地されたことがこれによりわかるが、東の青龍たる春日山および御蓋山が京の条里割りを決める基準点となったのではないだろうか。古代の三条大路を踏襲する奈良のメインストリート三条通りは春日大社の参道に接続して、その延長上に御蓋山がくる。三条通りは西の京外で南西方向に向かう暗峠越え奈良街道に接続する。すなわち西の白虎たる生駒山と東の御蓋山が一本の大路で結ばれているのだ。

 余談であるが、御蓋山は地元の者にとっても三笠山(若草山)とよく間違えられる。1月の山焼き行事で知られる三笠山は全山が青芝で覆われて、標高341.8m、観光地として名高くなったのは近世以降である。その南に広がる樹海が春日山で、ピークは498m。世界遺産にも登録された原生林が残る。御蓋山は春日山の西側に位置して円錐体の山容をなす。297mの山頂には本宮(ほんぐう)神社が鎮座する。後背の春日山に溶け込んで見分けにくいが、南から眺めるとピラミッド型の秀麗な山容を拝することができる。

 万葉集で御蓋山をおりこむ歌は16首、春日山や春日野を含む歌が43首を数えるらしいが(犬養孝著「万葉の旅・上」)、この数は平城京の住人にとってこの地が如何に重要であったかの例証となろう。

 春日山中からは佐保川、水谷川、能登川が流れ出る。その水源として、秀麗な円錐体の独立峰である御蓋山は、平城遷都のはるか昔から信仰を集めていたのだろうか。神社境内と周辺に散在する磐座(いわくら)の跡は、神社前史とも言うべき古来の素朴な祈りの姿を彷彿させる。

 古墳時代の奈良盆地東北部に盤踞した豪族は和爾氏と言われる。その支族である春日氏が6世紀以降に春日の地域に進出したが、彼らが御蓋山を神体山とする祭祀を取り仕切ったのだろうか。

●中央の円錐型の山が御蓋山、背後が春日山、飛火野から遠望

   ●神地を囲む築地

 平城遷都によって、御蓋山は一地域の神奈備から都を鎮護する役割を負う国家の祭祀場に昇格したと思われる。当然、祭神や祭祀の主宰者、祭祀の方法に変化があっただろう。

 今から25年前(1977年)に、神社境内で奈良時代の築地遺構が発見された。御蓋山の西麓にとりついて、社殿を北から西、南とコの字型に囲むように設けられていた。総延長600mにおよぶ。2カ所で発掘調査が行われた。基底部の幅は2.45m〜2.9m、版築地業が施され、瓦が多量に出土した。奈良時代初期の築造と見られる。また奈良時代の土馬が出土して、水に関する祭祀が行われていたことも明らかになった。平城宮を囲む築地に匹敵する大構築物は、もちろん国家の事業として進められたのだろう。

 御蓋山の南麓に摂社の紀伊神社がある。その東側から山頂へ上っていく石敷き遺構が発見されたのも築地遺構の発見と同じ頃である。石敷きの幅は最大37mで一定しないが、段を整えて両縁は石を組み、その間に人頭大の石を全面に敷く。石敷きは山頂の東側を通り、北に向かって下りていく。

 この遺構の目的については、聖域(磐境)を区画する施設、あるいは神の通り道といった説があって決着しないが、奈良時代以前のものだろうという見方をする専門家が多い。

 それにしても、こんな大がかりな施設がまったく記録に残らず、伝説さえなく、つい最近に発見されたということは驚くしかない。われわれが歴史について知っていることはまさしく断片にすぎないということを改めて思い知る。

 「古社記」には、武甕槌命の勧請の道程を記している。鹿島神宮から馬代わりに鹿に乗ってこられた命は、神護景雲元年6月21日に伊賀国名張郡夏美郷(三重県名張市)に着く。そのあと伊賀国薦生山に移り、同年12月7日、大和国城上郡阿倍山(奈良県桜井市)に至る。翌年の1月9日、御蓋山に降りられた。称徳天皇に託宣され、山の中心に南を向いて鎮座したいと言われ、同年11月9日に御殿が築造された。

 本社回廊の南西角に祀られる摂社榎本神社は春日の地主神とされるが、ここに鎮座するようになった経緯について興味深い話が「古社記」で語られる。阿倍山におられた武甕槌命のもとに榎本の神が来られて、自分が長年住んでいた御蓋山は武甕槌命にもっともふさわしい所だと、土地の交換を申し出た。こうして、武甕槌命は御蓋山へ、榎本の神は阿倍山に住まわれることになった。ところが、あとで阿倍山は参詣人が少なく困っていると榎本の神が武甕槌命に訴えた。それなら社の瑞垣のきわに住めばいいと言われて、できたのが榎本神社だという。

 春日文化研究所長の大東延和氏は、春日の神の勧請以前に御蓋山で神祀りしていたのは阿倍氏であると推測される。土地交換説話はこれを物語る一例ということになる。阿倍氏は春日氏と同族であり、7世紀には春日氏に取って代わったらしい。

 武甕槌命が勧請されたのは神護景雲2年と「古社記」にあって、他の有力な史料が出てこない限り、あえて異を唱えるのは難しい。鹿島神宮は朝廷の東国計略の拠点として国土平定の功労者、武甕槌命を祀ったらしいが、平城京の青龍、御蓋山にこの神が勧請されたのは、東国経営が為政者に重視されていたからであるだろう。

 遣唐使派遣に際して春日山の祭祀が行われたのは、春日の神が水の神でもあり、道中の航海安全を祈ったのだろうという説がある。しかしそれだけでは消極的な気がする。遣唐使派遣は当時の国家的大事業であり、戦にも匹敵する使命を帯びて遣唐使たちは派遣されたはずだ。

 万葉集に次のような詞書きをもつ歌がある。「春日にして神を祭るの日、藤原太后御作1首、即ち入唐大使藤原清河に賜ふ」「大船に真楫繁貫きこの吾子を韓国へ遣る斎へ神たち」。天平勝宝4年(752)、光明皇后が甥の遣唐大使藤原清河に贈った歌である。ヒロイックで挑むような高揚感がある。この高揚感をぶつけるのは、やはり単身敵地に乗り込んで「偉業」を成し遂げた神がふさわしいように思う。だから、武甕槌命は奈良時代初期に勧請されていたと私は考えたい。

●水谷神社社殿下の磐座、漆喰を塗る

●本社回廊内に鎮座する紀伊神社

   ●南面する神殿

 神護景雲2年の神殿は南面するが、それまでは「東大寺四至図」にあるように神地は西面して御蓋山を遙拝していたのだろう。山頂の本宮神社の前には8m四方の平地があって、周囲を段積みした石で囲む。神が降臨される磐境だろうか。「古社記」には、武甕槌命が最初に山頂に降臨されたことを伝える。万葉集に頻出するように、御蓋山が特別視されたのは三輪山と同じように神体山であったからだろう。

 しかし、武甕槌命が山頂から降りて麓の南面する神殿に鎮座されるようになると、御蓋山は遙拝の対象でなくなる。実際、現地に立って本殿を拝するとき、御蓋山が意識されることはない。今、御蓋山と三笠山が混同されるのも理由のないことではない。

 神殿が南面するのは天子南面の思想によると説明されるようだ。さらに、この時、枚岡神社から天児屋根命が勧請されて、武甕槌命と同格の本殿が設けられたことを理由に加えたい。枚岡神社は河内側の生駒の麓に鎮座する。暗峠越え奈良街道が脇を通る。春日大社とは三条大路をはさんで東西に位置する形だ。西面の神殿では礼拝者は枚岡神社に背を向けることになる。それを避けるために、南面の神殿が選ばれたというのが推測である。なにしろ、藤原氏の本来の氏神である。春日四神の氏神化を図る藤原氏が天児屋根命を優遇するのも当然だろう。

 神護景雲2年を境にして春日大社がその性格を変えるのは事実のようだ。長大な築地も山中の石敷きも崩壊のままに忘却の彼方に押し流す、何者かの意図が働いているかのようだ。

●参考 「春日大社のご由緒」春日大社 「春日大社」角川書店 「春日文化No1〜5」春日大社
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