奈良歴史漫歩 No.021   春日御塔、春の夜の夢のごと    橋川紀夫   

    芝生に残る礎石の列

 松の大木と青芝が美しい奈良国立博物館の敷地の一角に、土俵のように盛り上がった方形の壇が2カ所ある。芝で覆われて、所々に大きな石の平たい面がのぞいている。周囲は低い柵で囲まれていて、見過ごしがちであるが、説明の標識板もある。

 この方形の壇は、かつての五重塔の基壇である。平安時代の末から室町時代にかけて、2基の五重塔が東西に並び建っていた。西の塔は、永久4年(1116)に関白藤原忠実(ただざね)の発願で建立されて、春日西塔あるいは殿下御塔と呼ばれる。東の塔は、保延6年(1140)に建った鳥羽上皇発願による春日東塔あるいは院御塔である。

 塔の建った場所は、春日大社一の鳥居と参道に接して当時は春日社の境内であり、塔は春日四所明神に奉納された。神社であるのに仏塔を建てるとは、これ如何に?と言いたいところだが、本地垂迹思想が常識となった当時では、何ら矛盾はなかった。

 春日四所明神の本地仏は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が不空羂索観音または釈迦如来、経津主命(ふつぬしのみこと)は薬師如来、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が地蔵菩薩、比売神(ひめがめ)は十一面観音菩薩である。仏はそれぞれの神様に身をやつしてこの世に現れ、衆生を救ってくださるという。春日西塔には、忠実自筆の不空羂索経が納めてあったというのも、このような思想に基づいてである。

 東塔、西塔ともに治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ちによって炎上した。東塔は建保5年(1217)、西塔はそれよりかなり遅れて再建された。しかし、応永18年(1411)の落雷によって両塔とも再び炎上、ついに再建はならなかった。

 春日御塔は春日宮曼陀羅にも描かれているので、在りし日の姿をしのぶことができる。興福寺五重塔がモデルになったというから、高さは50mほどであろうか。ただし、東塔には裳階(もこし)があった。それぞれの塔の周囲には南には復廊、東西北には築地をめぐらす。南の回廊には二階建ての楼門をかまえた。

 それにしてもこの時代、12世紀の奈良の町を想像するに、大寺の堂塔伽藍がつくる壮麗な景観が浮かんでくる。東大寺には100m近い2基の七重塔が聳えていたし、元興寺にも五重塔があった。もちろん興福寺の五重塔もあり、この狭い空間に塔がきびすを接して林立する風景は、壮観と言おうか、宗教都市にふさわしいムードを醸し出していたことだろう。

●春日宮曼陀羅に描かれた春日御塔

    春日宮曼陀羅にも描かれたペアの御塔

 春日御塔跡の発掘調査は昭和40年(1965)に実施されている。調査結果の概略を見ておこう。

 西塔は礎石もよく残る。3間4方で、初層の規模は一辺8.7m、中央には四天柱の礎石と心礎も動かずにある。基壇の一辺は16.8m、基壇外装は創建時が凝灰岩、再建時が花崗岩切石の壇上積みであったらしい。四方に階段を設け、周囲に犬走りと雨落ち溝がめぐらしてあった。創建時は木瓦葺き、再建時は瓦葺きであり、これは東塔も変わりない。

 塔の南には復廊の礎石が割合よく残る。基壇の幅は7.1m、東西復元長は74mである。中央正面に間口3間、奥行き2間の楼門と見られる礎石もある。西、北、東には幅約3mの築地の跡が検出できた。三面築地にはそれぞれ四脚門と見られる門が開いていたようだ。南回廊と北築地との距離は82.4m。回廊、築地ともに創建時から瓦葺きと見られる。

 東塔は礎石を半分近く失う。方5間の裳階は一辺が14.4m、裳階を除いた初層の一辺は8.64mである。基壇の一辺は18.5mあり、基壇外装は凝灰岩切石の壇上積みであるが、良質薄手と粗質厚手の石があり、前者が創建時に使われていたという。周囲には西塔のような犬走りはなく、基壇外装の地覆石のすぐ外に雨落ち溝があったと見られる。四方に階段を設ける。

 南には基壇幅9mの復廊があり、正面には3間×2間の楼門がくる。回廊の東西幅は73.6mとなる。東西北には築地がめぐり、西門の跡が確認された。南回廊と北築地間の距離は82.4mである。こちらの回廊と築地も、創建時から瓦葺きであった。

 2つの塔とそれぞれの回廊・築地は、東西180m、南北100mの範囲に収まる。2つのよく似た50m級の塔がツインタワーのようにそれだけで並び建っている。もし今残っていたら、超有名な観光ポイントになったことは間違いない。一体どうしてこんな塔が建てられたのだろう。その事情を時代背景に探ろう。

●春日西塔跡

    若宮社も創建した忠実

 春日西塔を発願した藤原忠実(1078−1162)は、藤原道長から5代目の氏長者にあたる。堀河天皇と鳥羽天皇を輔弼(ほひつ)して摂政関白となる。その時期は白河上皇の院政期にあたる。道長が「この世をば我が世と思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」と歌った摂関家の全盛期も過ぎて、その政治力には陰りが見えていた。忠実の生涯は摂関家再興を願って奮闘した波乱の多いものであった。

 昨年(2001)の5月、春日大社若宮社の社殿の修理中に、神宝の毛抜形太刀が見つかって大きく報じられた。記録によれば、長承4年(1135)の若宮社社殿の建立の年に、忠実が奉納したものである。同時期に奉納された矢を入れる容器である平胡(やな)ぐいの模様と技法が共通しており、国宝に指定された。銀板に文様を透かし彫りして黒漆を埋め込むという特殊な技法が使われ、世界中でこの2例しか知られていないという。

 若宮社は師走に行われる「若宮おん祭」でよく知られるが、若宮社の創建は興福寺による春日大社支配の完成を意味すると言われる。その創建に忠実が大きく与っているのは明らかだ。

 忠実の邸宅は「富家殿」と呼ばれたらしいが、もし当時長者番付があったとすれば、文句なくその筆頭を占めたことだろう。摂関家の所領は分散されて相続されていたが、忠実はこれらを1つにまとめて自ら引き継いだ。さらに所領の拡大に努めている。忠実の気前の良さに、彼の莫大な資産がうかがえる。

 経済的な基盤を強化した忠実は、摂関家の権威を高めて政治力の増大を図る。春日西塔の建立や若宮社の創建には、摂関家の精神的支柱でありシンボルである興福寺=春日大社と一体化して聖俗の世界で覇権を求める野望が見えてくる。

●春日東塔跡

    保元の乱の一因となった摂関家の内紛

 忠実は子女の入内で白河上皇と対立し、関白を退く。長男の忠通(ただみち)に関白と氏長者を譲り、宇治に籠居する。10年後に白河上皇は亡くなり、鳥羽上皇が院政を敷く段になって、忠実は政界に復権する。しかし、この籠居はよほど屈辱だったようで、以後の忠実の野望は我執じみて屈折した印象を与える。

 天皇の文書を取り次ぐ内覧に補任された忠実は鳥羽上皇との親密度を深める。そのため上皇の歓心を買うようなことも行っている。御所や釈迦堂を寄進したり、所領の荘園を献上までしている。

 春日東塔が建立されたのはまさしく両者の蜜月期にあたる。おそらく忠実が勧誘しお膳立てしたのだろう。費用も負担したかもしれない。鳥羽上皇は塔が完成した翌年に出家しているから、信仰心は篤かったのだろう。そのようなお気持ちを知っての忠実の企てであろうが、上皇をたてて、裳階付きの塔にするといった気遣いもしている。1つは院御塔と呼ばれ、もう一つは殿下御塔と呼ばれたペアの塔が並ぶ光景は、世間の人々に権力の所在を誇示し見せつけたことだろう。

 忠実は次男の頼長(よりなが)を溺愛した。頼長は「日本一の大学生」と称せられたほどの秀才で大変な読書家であったらしい。しかし妥協のない性格であったらしく、のち政治をとることになって、多くの敵を作り、失脚の種をまいている。忠実は頼長を自分の後継者とすべく、忠通の関白職を弟に譲るように強要するのだが、忠通は拒む。そのため家人を遣って氏長者のシンボルを実力で奪い返すことまでしている。

 鳥羽上皇の愛息近衛天皇が亡くなったとき、死因は忠実頼長父子が呪詛したためだと告げ口するものがあった。政敵忠通の陣営に与した藤原信西(しんぜい)が仕組んだ謀略である。それを信じた上皇は父子を遠ざけ憎む。2人は誤解を解こうと神仏に祈り必死に手を尽くすが、解ける間もなく上皇は亡くなる。保元元年(1156)7月のことである。

 鳥羽の死とともに乱は勃発する。孤立した頼長は、鳥羽上皇に疎んじられた崇徳上皇と組み反撃に出るが、忠通や後白河天皇の側の先制を受けあっけなく敗退する。いわゆる保元の乱である。頼長の敗北を知った忠実は宇治を発って興福寺一条院に身を隠す。瀕死の傷を負った頼長は奈良まで逃げてきて父に助けを求めるのだが、忠実は会うことさえ拒み、頼長は寂しい最後を迎える。頼長37歳、忠実78歳であった。忠実は罪を免れて6年後に没するが、その晩年の胸中は如何であっただろうか。

 保元の乱は、摂関家、天皇家、新興の源氏・平氏の武家が親子兄弟親戚あいわかれて戦い、古代からの支配層が没落、武士の時代の幕開けとなったエポックであると、歴史の授業でも教えられた。忠実の摂関家再興の野望が迂遠曲折を経て保元の乱を引き起こす一因になったとも言える。摂関家の衰退を速めたのみならず、自らが拠り所とする体制に終止符を打つひきがねを引いたのだ。

 塔跡の芝生に腰を下ろすと、目の前で鹿が草をはみ、親子連れが鹿と戯れる。のどかなるかな。850年前のドラマに思いをはせる。夢のようでもあり、昨日の出来事のようにも思える。聞こえてくるのは、平家物語冒頭、有名なあの一節だ。「……奢れるものは久しからず、ただ春の夜の夢のごとし……」
 

●春日西塔回廊跡

興福寺五重塔と東金堂

●参考 「春日西塔・東塔跡の発掘」奈良国立博物館 竹内理三著「日本の歴史6武士の登場」中央公論社 下向井龍彦著「日本の歴史7武士の成長と院政」講談社
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