奈良歴史漫歩 No.022    論争・見瀬丸山古墳     

   最大規模の横穴式石室をもつ巨大前方後円墳

 奈良県橿原市にある見瀬丸山古墳は墳丘の全長が310mと、奈良県下では最大規模、全国では6位の前方後円墳である。後円部にある横穴式石室は28.4m(石舞台古墳20.5m)を測り全国最長である。玄室長8.3m(同7.6m)、玄室奥壁幅4.1m(同3.4m)、羨道が20.1m(同12.9m)と格段に長い。

 後円部は陵墓参考地に指定されているため立ち入ることはできないが、前方部は橿原市が公園化を進めていて自由に散策できる。木を刈り払った平坦な台地の前方部に立つと、まるで巨大タンカーの甲板を歩いているような連想が浮かぶ。

 興味深いのは、丸山古墳という名前が語るように長らく円墳だと思われていたことだ。ここが前方後円墳であると明確に認識されたのは、航空写真を見てからだという。今から思うと不思議なのだが、末永雅雄氏が昭和30年頃に取ったその写真を見ると、後円部の森を残して段々畑がびっしり覆い尽くしている。方形の区画をもつ田がその周りをきれいに囲んでいて、周庭帯をもつ前方後円墳であることは一目瞭然のように思える。

 あまりに巨大すぎて気づかなかったのか? 葺石や埴輪がまったく出土していないことも見瀬丸山古墳の特長にあげられるが、このことも古墳の広がりに気づけなかった理由かもしれない。

北東方向からみた見瀬丸山古墳

 見瀬丸山古墳の石室内部は絵図に描かれて江戸時代にたびたび刊行されている。長大な石室と2つの石棺は共通しているが、寸法が絵図によって異なるのは、石室内に水がたまり計測が難しかったためのようだ。しかし、2つの石棺があることから天武・持統の合葬陵、桧隈大内陵とされて、明治初年の陵墓決定にも引き継がれた。

 しかし、明治13年(1880)に発見された鎌倉時代の天武陵盗掘事件の調書「阿不幾乃山陵記(あふきのさんりょうき)」から、野口王墓山古墳が真の天武・持統合葬陵であることが判明。見瀬丸山古墳は被葬者不明の陵墓参考地に格下げされた。

 その後、見瀬丸山古墳の被葬者は、森浩一氏が欽明天皇陵説(1665)、斎藤忠氏が蘇我稲目墓説(1966)、和田萃氏が宣化天皇陵説(1973)を提示したが、なにしろ調査不能の陵墓であるから、机上の案にとどまるしかなかった。

   脚光を浴びた見瀬丸山古墳=欽明天皇陵説

 1991年5月、古墳近くに住む会社員が子供と遊んでいて、たまたま石室入り口が開いているのを発見、石室内に入って、コンパクトカメラで内部を写した。それがマスコミに公表されたことで、大きな反響を呼んだ。宮内庁も無視できず、改めて石室内部を測量し、図面や写真とともにその結果を発表するという異例の対応をとったのである。

 資料に限界はあったが、2つの石棺と石室の特長から製造時期が探られた。

 石棺は、玄室入り口近く向かって右側の側壁に沿ってひとつ、玄室奥の奥壁に沿ってひとつ、どちらも大型の家形石棺が置かれていた。蓋近くまで泥で埋まっていたが、蓋に付く縄掛け突起の特長などから、多くの研究者によって、手前の石棺は刳抜式で6世紀の第3四半世紀、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀の製造時期がそれぞれ推定された。

 石室は、100トンを越えるような巨石も使われていて、その石積の特長から6世紀末から7世紀初めの構築が有力視される。

 石棺の年代観から、まず6世紀前半にあたる宣化天皇陵説が消え、俄然浮上してきたのが、欽明天皇陵説である。

 欽明天皇は571年に亡くなり、桧隈坂合陵(ひのくまのさかひのみささぎ)に葬られたと「日本書紀」は記す。延喜諸陵式によれば、「桧隈坂合陵 磯城嶋金刺宮御宇欽明天皇。在大和国高市郡。兆域東西4町、南北4町。陵戸5烟」とある。

 推古20年(612)2月、欽明天皇皇太夫人の堅塩媛(きたしひめ)を桧隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬したことを「書紀」は記す。この時、軽のちまたで死者をしのぶ盛大な誄(しのびごと)儀礼が行われた。

 堅塩媛は蘇我稲目の女子であり、時の最大権力者、蘇我馬子とは兄弟にして、推古天皇の生母である。欽明天皇の葬られた桧隈大陵への堅塩媛の合葬は、蘇我氏の権勢を誇示する意味を含むと見られる。

 さらに、推古28年(620)10月条に、「砂礫をもって桧隈陵の上にしく。域外に土を積みて山をなす。氏毎におおせて、大柱を土の山の上に建てしむ」という記事がある。2人の合葬陵を壮大に飾り立てたというわけである。

 前棺は6世紀後半に亡くなった欽明天皇のものとする。堅塩媛の没年は不明であるが、改葬の年から奥棺に葬られたとする。

見瀬丸山古墳平面図

前方部から見た見瀬丸山古墳

 石室も改葬の際に造築し直され、その時、石棺が置き換わり、前にあるものが古くて、奥に据えたものが新しいものになったという。
 編年のものさしでは、石室が古墳より新しく、奥棺が前棺より新しい時期を示す。それをどう解釈するかが考古学者を悩ませているのだが、改葬=改築説によってとりあえず1つの説明が与えられる。しかし、これは発掘調査で確認されたことではなく、また他にそのような事例も見つかっていない。

 見瀬丸山古墳は、前方後円墳が終焉を迎える6世紀後半にあって、異常なほど巨大である。石室の規模も群を抜く。在位が40年間におよび後世に系列の天皇を輩出した欽明は、このようなスケールの陵墓の主として、たしかにふさわしいように思える。

 しかし、欽明天皇陵説では説明できないことが多く出てくる。

 推古28年に砂礫をもって陵を葺き周囲に土を盛ったことが出てくるが、見瀬丸山古墳にはその痕跡が見つからない。
 桧隈という地名は明日香の西南にひろがる地域を指すが、見瀬丸山古墳は桧隈の範囲からそれる。
 皇極(斉明)天皇の母であり、天智・天武の祖母にあたる吉備姫王の墓が、桧隈陵の陵域内にあり、その場所は真弓の丘でもあると史料は伝える。しかし、見瀬丸山古墳の近くにそのようなお墓はなく、真弓の岡からも遠い。

見瀬丸山古墳石室 宮内庁発表資料より

   見瀬丸山古墳=蘇我稲目墓説の台頭

 現在、欽明天皇陵は、明日香村平田にある梅山古墳が指定される。見瀬丸山古墳から南へ約700mの位置にあって、全長140mの西面する前方後円墳である。

 見瀬丸山古墳を欽明天皇陵とするなら、梅山古墳の被葬者が新たな難問になるだろう。 しかも、梅山古墳は、史料が伝える欽明天皇陵の条件に一致するのである。

 梅山古墳は「石山」と称せられるほど夥しい葺き石があり、周辺に人工的な土盛りの形跡もある。
 梅山古墳の所在地は明らかに桧隈である。
 周囲には陪塚と見られる古墳が多数存在する。「鬼の雪隠・俎古墳」もその一つだ。ただし、現在指定を受ける、梅山古墳前方部向かいの猿石を並べた吉備姫王墓は古墳ではないそうだ。 

 梅山古墳=欽明天皇陵を支持する研究者は多い。

 見瀬丸山古墳の被葬者を欽明以外の天皇に求めると、史料からは宣化天皇ぐらいしか浮かばない。しかし、石棺・石室の年代観から該当しないことは先ほど述べた。

 天皇以外の被葬者を探ると、一番に浮かぶのが、蘇我稲目である。稲目の死去は560年である。前棺の年代観にちょうど一致する。それでは、奥棺の主は誰か。やはり、堅塩姫だという。奈良文化財研究所の小澤毅氏は次のように書いておられる。

 「堅塩姫の没年は不詳で、改装前に彼女がどこに葬られていたかについても、史料は明記しない。しかし、それが五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)であった可能性はきわめて高いと思う。堅塩姫の父は蘇我稲目その人であり、夫の陵に葬られなかった彼女が、父の墓に追葬されるのは、ごく自然ななりゆきだからである。この場合、天皇の妃となった彼女の棺を、稲目の棺より奥に設置することは、当然ありえたであろう。」(明日香風82『五条野丸山古墳は誰の墓か』)

 堅塩姫は改葬されて、桧隈坂合陵である梅山古墳に欽明天皇とともに落ち着いたというわけである。

 推古20年の改葬で誄儀礼を行った「軽のちまた」は、見瀬丸山古墳のすぐ北側の地点だ。6世紀以降、この周辺に蘇我本宗家の居宅が次々に構えられた。いわば、蘇我氏の本拠地となった地域であり、この時期、ここに巨大なお墓を造営できるのは、蘇我氏を措いて考えにくいという事情も、見瀬丸山古墳=蘇我稲目墓説を導きだす。

 ただ、引っかかるのは、蘇我氏の権勢がいかに強かったとはいえ、天皇陵をはるかに凌ぐお墓が造れたかということだ。まさにそれは、1つの固定観念を揺さぶる。

 今のところ、見瀬丸山古墳の被葬者探しは、石棺と石室の年代観を主な手がかりとする。この年代観も研究者によって微妙に異なるようである。たとえば、四半世紀ずれれば、推論内容はまったく異なってしまう。実際、2つの石棺ともに7世紀初期のものとして、古墳の造営もこの時期とする関川尚功氏の論もある。

 見瀬丸山古墳と梅山古墳は明日香に存在するたった2つの前方後円墳であり、しかも機内前方後円墳の終末期を代表する古墳だ。2つともに宮内庁の管理にあって、調査はままならないが、古代史探究の重要な手がかりを秘めていることは確かだろう。

見瀬丸山古墳の石棺 上が奥棺 下が前棺 宮内庁資料より

●見瀬丸山古墳前方部 遠景の山は畝傍山

●参考 「季刊考古学 見瀬丸山古墳と天皇陵」雄山閣 「古代を考える57 見瀬丸山古墳の検討」 小澤毅「見瀬丸山古墳は誰の墓か」(「明日香風82」) 関川尚功「見瀬丸山古墳と欽明天皇陵古墳」(「橿原考古学研究所論集13」) 和田萃「見瀬丸山古墳の被葬者」(「日本古代の儀礼と祭祀・信仰上」塙書房)
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