奈良歴史漫歩 No.023   志貴皇子の歌と生涯

      ●天武の時代を生きた天智の皇子

 志貴皇子は天智天皇の皇子で光仁天皇の父であり、万葉の歌人としても名高い。

   石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも(巻8─1422)

 「巻8春雑歌」の冒頭を占める皇子のこの歌は、一読忘れがたい。まことに春を迎えた喜びがいっきにほとばしるような歌である。
 皇子という生まれながらの高貴な身分にありながら、このような歌を残した人への興味が募る。一体どのような人であったのだろう。「日本書紀」と「続日本紀」にも皇子の記事は散見するので、その人生と事跡を時代背景の中でたどってみよう。

 志貴皇子の母は釆女であった。釆女は後宮の女官で、地方の豪族が服属の証に朝廷に差し出したという。天智には、早死にした1人を除いて3人の皇子がいたが、その母はすべて釆女であった。母の身分が低い故に、皇子といえども皇位に就ける可能性は低い。志貴皇子の兄である大友皇子は、父天智の強引な策によって皇位を継いだが、壬申の乱の原因もまた大友の敗因も、ひとつは皇位の正統性への疑いがあるのだろう。

 皇子の生誕年はわからない。しかし、天武8年(679)には、20歳を越えていたと推測でき、すぐ次の兄の川嶋皇子が657年生まれであるから、658年から660年の間にくると思って間違いはないだろう。

 明日香にあった斉明天皇の「後岡本宮」が産土の地である。だが、天智天皇の大津宮への遷都にしたがって、少年時代を琵琶湖のほとりで送ることになる。そして、人生を一変させただろう673年の壬申の乱。時代は天智から天武の世となり、天智の皇子である志貴皇子の微妙な立場が想像される。それは彼の青春期の入り口にあたる。

●奈良市の東の山中にある志貴皇子が眠る田原西陵

 天武8年5月に、天武は皇后と6人の皇子を伴い吉野に行幸する。壬申の乱の起点となった思い出の地で、皇子たちに将来の協力を誓わせる。天武には腹違いの多くの皇子たちがいたが、この時は、天智系も含めて、成人した皇子たちが集ったらしい。草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子(志貴皇子)という序列で「書紀」には出てくる。河嶋も志貴と同じく天智系である。「書紀」には、草壁が一番に誓いの言葉を述べて、後に諸皇子たちが続き、天皇が襟を開いて6人を抱いたとある。

 7年後の大津皇子の謀反と賜死の伏線となるこの儀式を、若い志貴皇子はどのような思いで受けとめていたのだろう。志貴に皇位がめぐってくる可能性は100パーセントなかったが、天武の皇子たちの間で交わされていた確執とも無縁でいられなかったはずだ。

 川嶋皇子は大津皇子と仲が良かったというが、謀反が発覚したのは河嶋の密告によるという。それが本当なら、持統天皇の側からの誘いに乗った保身行為のように思える。

 高市皇子が亡くなった後、諸皇子が集まり誰を皇太子にするかで意見が分かれた。大友皇子の遺児である葛野王は、持統天皇の孫、軽皇子を強く推して決定づけた。葛野王はこの功績によって出世したと「懐風藻」にある。

 河嶋皇子も葛野王も皇族の間ではもっとも弱い立場にあって、権力を握る主流派にすり寄ることが処世術でもあったのだろう。

 こういう視点で、志貴皇子の事跡をたどると色々な想像が湧いてくる。
 大宝3年(703)、持統天皇の殯宮のあと、志貴皇子は造御竈長官に任命され、火葬設備の造営をつかさどった。持統は天皇としては初めて荼毘にふされ、天武が眠る明日香の大内山稜に合葬された。奈良時代の貴族の間では火葬がブームとなったが、持統の火葬はその走りである。この功績によるのか、翌年には封100戸を増益されている。

 慶雲4年(707)、文武天皇の崩御に際して、志貴皇子は「殯宮のことに供奉」している。翌年には、三品に昇進した。

 政治的な派手な動きはないが、地味ながら重要な役を着実にこなして、時の主流派に貢献するという印象がある。自分の立場をよくわきまえて、賢明に時流に処していった人であっただろうか。

●田原西陵から東に約2キロの光仁天皇田原東陵 

    ●天智系への皇位の中継ぎとなる

 この想像は、歌の印象を裏切らない。犬養孝氏は、志貴皇子の歌を「完璧でスキがない」という。そして、このような歌をよむ人はまわりに非常に気を遣って生きているといわれる。感じやすく、よく気を遣えば、当然、悩みも深く鬱屈することも多いはずだ。冒頭に引いた春の歌の喜びも、抑えられていた命が一遍に解き放たれるような趣である。

  釆女の袖吹きかへす明日香風京を遠みいたずらに吹く(巻1−51)

 持統8年(694)に藤原京に遷都した。都が移った後の明日香の寂寥感が迫る。志貴皇子が生きた時代はまさに律令国家が確立されようとする激動の時期である。京も後岡本、大津、御浄原、藤原、平城と遷都を繰り返したが、皇子はすべてにかかわった。

  葦辺行く鴨の羽交に霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(巻1−64)

 慶雲3年(706)、文武天皇の難波行幸にお供したおりの歌である。この行幸は、遷都先の下見を兼ねていたといわれる。遷都の諮問がみことのりされるのが、翌年の正月であった。そんな歴史的背景を念頭に読むと、歌の陰影がさらに深まるように感じる。

 平城京に都が移った後、志貴皇子の離宮が奈良市街の東の高円山麓にあったという。高円山は万葉集にもよく登場し、貴族たちの野遊びの場でもあった。この山にはムササビがたくさんいたらしい。

  むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟夫(さつお)にあひにけるかも(巻3−267)

 実際に目撃した光景かもしれないが、寓意が込められたようにも読める。ましてや、志貴皇子がよんだとなると、さらにその印象が強まる。木末つまり権力をめざした末に没落する者たちを多く見てきたであろう人の述懐のようでもある。

 志貴皇子は、晩年には二品を授かり、霊亀2年(716)に薨去した。60年に満たない生涯であったが、まことに濃密な人生であったにちがいない。

●太安万侶の墓誌が出土した場所は田原西陵の近くである。

 皇子は、万葉集に不滅の名歌を残したが、日本の歴史を刻むもう一つの偉業をなした。称徳天皇亡き後、62歳の白壁王が即位した。光仁天皇である。皇統は天武系から天智系に交代して今に至るが、志貴皇子はそのリングをつなぐ役を果たしたのである。

 天武系の皇子が政争に巻き込まれて次々に倒れていくなかで、白壁王は災いを避けるためお酒におぼれた振りをしたと「続日本紀」は記録する。白壁も父親譲りの賢明さと細心さを持ち備えていた。

 高円山の麓にある白豪寺は五色椿と萩の花で名高いが、志貴皇子離宮跡の伝承ももつ。笠金村が皇子を悼んだ歌の碑が境内に建つ。

  高円の野辺の秋萩いたずらに咲きか散るらむ見る人なくに(巻1─231)

 この歌の前にある長歌では、皇子の葬儀の光景がドラマチックに歌われて強い感動がある。
 高円山のすそ野を東へ越えると田原の里だ。白豪寺からは約5km離れた静かな里に皇子は葬られた。皇子は後に春日宮天皇と追尊される。お墓は田原西陵として今、宮内庁の管理のもとにある。茶畑の中の小さな円墳であるが、よく手入れがゆきとどいている。田原西陵の約2km東に田原東陵があり、光仁天皇を葬る。その中間に、太安万侶の墓誌の出土した場所があり、国の史跡に指定されている。このあたりは、奈良時代の皇族、貴族の奥津城だったのだろう。(2002年11月記)

●奈良時代の貴族の奥津城であった田原の里風景

●参考 「日本書紀」岩波文庫 「続日本紀」岩波新日本古典文学大系 「万葉集」角川文庫 「志貴皇子とその生涯」犬養孝 「古代国家の成立」直木孝次郎
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