奈良歴史漫歩 No.024   復元された朱雀門

           

   ●朱雀門は「復元」されたのか

 平城宮朱雀門は1998年に復元されて、130ヘクタールにおよぶ宮跡のシンボルとして、また新たな観光名所として、その堂々たる偉観を古都の空に放つ。

 奈良文化財研究所による平城宮の発掘調査はすでに約40年におよぶが、同時に宮跡の復元も並行して進行する。内裏や兵部省、式部省の柱跡の表示、第二次太極殿の基壇造成などいわば平面的な復元に対して、朱雀門、宮内庁建物、東院庭園、大垣などは立体的な復元といえよう。その集大成とも言える第一次太極殿の復元が2010年の完成をめざして、朱雀門の北側で進んでいる。

 復元という言葉が、「元にあった通りの状態を再現する」という意味であるなら、「朱雀門や東院庭園、太極殿を復元した」というのは、はばかれるかもしれない。

 なぜなら、古代の建造物が、発掘調査や文献記録によって判明する部分はほんの一部であるからだ。復元推定図ならともかく、実際に建てるとなると、細部の隅々までその材料、構造、形態、意匠のすべてに渡ってひとつの答を決めていかなければならない。本物が不明であるから、多くは類推と想像に頼ることになる。選択された答は近似値であるが、中にはまったく外れているケースがあるかもしれない。しかし、答のひとつひとつに根拠があって、それは、建築史、古代史、考古学を始めとして学際的な専門分野を結集した成果なのである。

 朱雀門の復元過程をたどることで、知的ゲームにも似た遺跡・遺構復元の一端に触れてみよう。

   ●国家行事の舞台

 朱雀門を改めて説明すると、平城京の中央を南北に走るメインストリート、朱雀大路の北の起点にあたり、宮の南正面中央に建つ門である。朱雀とは南の方位を守護する想像上の鳥のことであるが、平城京建設のモデルとなった唐の長安にも同じものがあった。

 「続日本紀」には、霊亀元年(715)の朝賀で、朱雀門の左右に騎兵の整列した記事が見える。天平6年(734)には、聖武天皇が朱雀門に出御して盛大な歌垣がとりおこなわれ、京中の男女が観覧した。

 「延喜式」には、重要行事である大祓を朱雀門で行うことが明記される。朱雀門の前を東西に走る二条大路の門に近い側溝から、祓いに用いたと思われる木製人形が多数出土しており、奈良時代においても大祓が行われていた可能性が強い。

 朱雀大路は両側溝間距離が74メートル、2番目に広かった二条大路が同じく36メートルもあった。道路というよりも広場というにふさわしい空間が広がっていて、朝廷の威儀を正す華やかな式典の舞台になったのだろうか。

●平城宮朱雀門 右下の人物と大きさを比較してください

   ●発掘で分かった門の規模

 平安末期の「伴大納言絵巻」には、平安京の朱雀門が描かれる。入母屋造り、重層、梁間2間、間口7間で両脇を除く5間に扉が開く。柱、扉、欄間は朱塗りである。

 平城宮朱雀門は絵巻にはもちろん、言葉としてもその形態は伝わっていない。発掘調査で得られたデータが、復元のための第一の手がかりとなる。

 数次の調査で明らかになったのは、次のようなことである。

 朱雀門の基壇の範囲には、地山を1.5メートルほど削る掘り込み地業が実施され、その範囲は東西31.9メートル、南北16.6メートルあった。砂と粘土を交互に踏み固める版築によって築かれた基壇に、礎石の一部と礎石の下の根石が検出された。

 これにより、間口5間、梁間2間の規模であることが確かめられた。柱間はすべて等間隔で17尺(5.015メートル)あった。したがって朱雀門の平面規模は間口85尺(25.075メートル)、梁間34尺(10.03メートル)となる。

 礎石は花崗岩で、柱が直接当たっていたと見られる平坦面以外は手を加えない自然石であった。石質は藤原宮周辺で出土する花崗岩に近く、藤原宮から運び込まれた可能性が高い。

 瓦は多量に出土した。軒丸と軒平瓦の意匠はいずれも藤原宮式瓦の特徴と一致して、瓦も藤原宮の宮殿を解体して再利用したことが推測できる。

●西から見る 2層目は飾りで登れない

   ●モデルは現存する古代寺院

 建物の平面規模と礎石と瓦については確証が得られたが、立体的な建物の復元はもちろんこれだけでは不可能である。そこで採られた方法は、今に残る同時代の建物と遺物をモデルにして不明部分に解答を与えていくことである。

 同時代の門建築として現存するのは、少し時代がさかのぼる法隆寺の中門と8世紀半ばの東大寺転害門である。法隆寺中門は間口4間梁間2間の入母屋造り重層門、東大寺転害門は間口3間梁間2間の切妻造りの一重門とタイプは異なる。

 「伴大納言絵巻」に描かれた平安宮の朱雀門を根拠にして、平城宮の朱雀門も入母屋造り重層門、5間3戸(中央の3間に扉を設ける)、木部は朱塗りにまず決められた。そこで、初重と二重とのバランスは法隆寺中門にならった。しかし、柱間は転害門に近いため、初重柱の太さは転害門と同じ2.4尺(70.8センチ)、柱の高さはそれに釣り合う18尺(5.3メートル)となる。

 寺院、宮殿は深く張り出した軒に特徴があるが、軒の形式と軒を支える組み物は、薬師寺東塔の白鳳様式が選ばれた。二軒繁垂木、地円飛角の総軒の出は15尺(4.425メートル)。組み物は和様三手先、尾垂木付き、丸桁から壁までは小天井を張る。

 軒の反りは、海竜王寺に伝わる天平時代の五重小塔にならった。

 建物の高さは鴟尾を含めて21.983メートルにされた。

   ●意匠のモデルも古代寺院

 朱雀門の全体の構造はこのようにして決まったが、細部の意匠も各地の先例が手本になった。

 重厚な本瓦葺きの屋根に目立つのが、金色の青銅製鴟尾である。唐招提寺金堂の鴟尾がモデルになった。軒の四隅に吊り下がって、風の強い日にはカラカラと鳴る風鐸は、四天王寺の出土品が参考にされた。両者が実際に存在したという証拠は全くない。復元した朱雀門のショーアップ効果を狙って付け加えたという面が強いようだ。

 2階手すりの高欄の下部に「人」字形の束があるが、法隆寺西院の金堂、中門に同じものを見た記憶をお持ちの方もおられるだろう。高欄中部の連字窓を横にしたような横連字は、海竜王寺の五重小塔に使われる。

 側面・妻飾りのいのこ叉首(さす)組は法隆寺金堂、扉構えの金物は法隆寺諸建物の実例から採られている。

   ●中世と現代の工法で補強

 法隆寺を始め現存する古代建築はいずれも後世の補修を受けて、創建当時の構造とは大きく変わっている。朱雀門も奈良時代の工法のみで建てれば、早い時期での倒壊は免れないという。特に門建築は、間口に対して梁間が2間と奥行きがなく、深い軒を支えるのに構造的な難しさがある。そこで採られた方針は、「奈良時代建立の朱雀門が後世まで存続していたと仮定したとき、中古で採られたであろう補強」を朱雀門にも施すことである。これの参考にされたのが、またもや法隆寺の慶長度修理である。

 初重梁行の飛貫(ひぬき)、天井桁上の大梁、2重屋内の角柱と貫、丸桁桔木(はねき)と木負桔木などが新たに補強された。

 だが、これでもまだ現代の建築基準法のレベルでは不十分なため、さらに最新の補強が加わった。初重の壁はステンレス材を用いた耐震壁となる。小屋裏には綱板とボルトで接合した筋交いを入れる。また礎石に接着したアンカーをダボにして、柱底を落とし込む。
朱雀門の建築中に阪神大震災が発生したため、地震対策には特に念入りなようだ。

●薬師寺東塔をモデルにした三手先組物

●海竜王寺五重小塔 軒の反りと高欄が参考にされた

   ●300年後の解体修理

 直径70センチの初重柱は吉野産の樹齢400年の檜が中心で、一部は木曽檜もある。切り出した木の径は1メートルもあったという。他に秋田ヒバやケヤキも使われるが、すべて国産材である。

 基壇は鉄骨鉄筋コンクリート造りで高さ1.858メートル。500年は保つとされる高耐久性コンクリートが使われている。基壇外面は凝灰岩切石によって敷きつめられる。これには、石川県小松市の「竜ヶ原石」が用いられる。礎石の花崗岩は、岡山市の犬島産である。

 朱雀門にとりつく大垣と脇門も完成し、周辺の大路も整備された。
 基壇に立って見上げると、門の思いのほかのスケールの大きさに驚く。
 平成の世に復元された奈良時代の朱雀門、次に解体修理されるのは300年か400年先になるという。
 周囲から独立して立つ門はいつ来ても風のあたりが強い。
 開いた扉をくぐり抜けているのは、日常とは異なる時間の流れだろうか。
                       (2003年2月20日記)

   宮跡に復元したる朱雀門勢い増して北風抜ける

●山焼きを終えたばかりの若草山と春日山を平城宮跡から望む

●参考 「平城宮朱雀門の復原的研究」奈良文化財研究所 太田博太郎著「奈良の寺々」岩波書店 「平城宮朱雀門」奈良文化財研究所
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