奈良歴史漫歩 No.027   夏見廃寺、または大伯皇女の後日談

   ●弟を悼む皇女の歌

 大伯皇女(おおくのひめみこ)は父を天武天皇、母を大田皇女にして、同父母の大津皇子は2歳年下である。天武亡き後、大津皇子は謀反の嫌疑を受け自害に至らしめられたが、その時の、弟を悼む挽歌は万葉集の中にあってもよく知られる。収録された6首を順番に挙げよう。

 686年9月、天武の忌中にあって、大津皇子は大伯皇女が斎宮として仕えていた伊勢神宮に姉を密かに訪ねる。大津は身に迫る運命を予感して、姉に別れを告げたかったのだろうか。陰謀渦巻く明日香に弟が戻るのを見送ったときの歌。

 我が背子を大和へやるとさ夜更けてあかとき露に我が立ち濡れし(105)
 ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(106)

 大津皇子が死を賜ったのはそれから7日後である。さらに、約1カ月後、大伯皇女は斎宮を解任され、明日香に戻る。

 神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに(163)
 見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに(164)

 大津の屍は二上山に改葬されたという。

 うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟背と我れ見む(165)
 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言わなくに(166)

 まことに選ばれし者ゆえの悲劇ではあるが、彼女の肺腑をえぐるような悲しみは、歌を読むたびに鮮烈に伝わってくる。このような体験を経た女性のその後の人生が気になるのも当然だろう。

●夏見廃寺マップ

    ●夏見廃寺の特異な形態を示す伽藍

 「奈良歴史漫歩」No.4・5で、大津皇子の二上山山頂にあるお墓が信憑性に乏しく、山麓の鳥谷口古墳が皇子のお墓である可能性が高いことを書いた。1300年の歳月を経てこのようなお墓が出現したことに、因縁めいた不思議を感じるのは、私だけではないだろう。

 実は、大伯皇女の場合も、大津皇子と似た後日談があるのだ。
 長和4年(1015)頃に書かれた大和薬師寺縁起の中に次のような一文がある。

 「大伯皇女は最初は斎宮なり。神亀2年(725)をもって、浄原天皇(天武天皇)のおんために昌福寺を建立したまう。夏見と字す。もと伊賀の国名張郡にあり。」

 三重県名張市夏見の雑木林に古い瓦が散在する場所があった。昭和21年に、京都大学考古学教室がここを発掘調査したところ、寺院の金堂、塔、講堂跡と見られる礎石、瓦、せん仏などが出土した。これらの遺物から、寺院は7世紀後半に創建され、10世紀後半に火災によって廃絶したことがわかった。

 地名から夏見廃寺と名づけられたこの寺が、薬師寺縁起にある昌福寺に当たるのではないかと注目を浴びるようになったのである。

 昭和59年から名張市教育委員会によって再び調査が行われた。この調査によって、遺跡の詳細が明らかにされ、平成2年には国史跡の指定を受けた。現在、寺院跡は遺跡が出現した状態のままで保存され、自由に見学できる。また、出土遺物や復原したせん仏を見せる展示館も設けられている。

 調査結果のあらましをまとめておこう。
 堂塔の建立は大きくは2期にまたがる。金堂が建った7世紀末と塔や講堂が建て増しされた8世紀の前半から中頃にかけてである。

 金堂は正面8.72m、奥行き6.79mと同時代の寺院の中でも小規模である。柱間は内側の身舎(もや)と外側の庇部分の桁行が同じく3間、梁行も同じく2間という特異な構造である。現存する建物にはこのような構造はなく、過去の建物として、飛鳥山田寺金堂と近江穴太廃寺再建金堂が類例として知られているのにすぎない。

 礎石は不整形な自然石である。近くの名張川の河原石を積み上げた化粧基壇が残る。

 金堂跡からは多量のせん仏が出土した。せん仏は堂内の壁面を飾るレリーフである。粘土板の半肉彫りに浮き出た5尊仏、3尊仏、独尊仏である。5尊仏の須弥壇には、「甲午」と読める干支が刻まれていた。この期間の甲午は694年に当たる。したがって金堂の完成時期は694年を基準に取ることができるだろう。これは出土瓦の編年観に矛盾しない。

●北から見た夏見廃寺の堂塔跡、手前が金堂、右奥が講堂、左奥が僧坊(?)

 この時期の建物としては、金堂の南東方向に掘っ建て柱の建物跡が見つかっている。梁行2間、桁行は出土したのが4間分であるが、さらに伸びるものと見られる。また、この建物と向かい合う形で、西側に掘っ建て柱跡が2カ所出土した。いずれも、金堂の規模に見合う大きさの建物だ。

 これらの建物をひとつに囲む掘っ建て柱塀も巡らされていた。

 それから約30〜50年して建立されたのが、講堂と塔である。

 塔は、金堂の東隣に3間(5.3m)四方の規模で建っていた。3重の塔のようだ。心礎と他の礎石が同じレベルにあって、柱間隔も等間隔の天平の国分寺と共通するスタイルだという。

 講堂は、金堂の西南に建つ。変則的な位置であるのは、寺の立地が丘陵の斜面にあって、金堂の背後に寺域を拡げる余地がなかったからと見られる。梁行4間(11.4m)と桁行7間(17.5m)の南北方向を棟通りにして、東側から西に向かって礼拝することになる。金堂とは不釣り合いに規模は大きい。中央部には須弥壇の下部と考えられる土壇が築かれていた。また塑像のカケラも出土している。

 これらの堂塔を囲む築地塀が北と東西の3方向に築かれた。南には掘っ建て柱塀が設けられた。塀で囲まれた寺域は、東西約84m、南北約75mとなる。

 堂塔はいずれも火災にあった跡が残り、出土する土器は10世紀末を最後とする。寺は約300年存続して、一度に焼失したことになる。

●夏見廃寺伽藍配置図

   ●夏見廃寺の創建は皇女が生きた694年?

 夏見廃寺の考古学的な事実と薬師寺縁起の一文とはどのように結びつくのか。縁起の一文は簡潔であり、他に文献資料もないので、細部については想像による解釈が入る余地が大きい。

 地方の小さな古代寺院も、悲劇の主人公である大伯皇女と結びつくことで、特別な存在となりドラマ性を帯びることになる。名張市が建てた展示館もそのようなドラマを暗示する展示になっているようだ。私もまた物語への嗜好が強くあることは認めておこう。
 
 長和2年の薬師寺縁起は、夏見廃寺が焼尽して間もない頃に著されたことになるが、名張郡夏見にあった昌福寺が夏見廃寺にあたることは誰しも否定できないだろう。既になき寺の所在を正確に記録した文章であるから、その寺の由緒についても一応信頼できるのではないだろうか。もちろん寺自らが残す由緒に虚飾の多いことはよく知られたことではある。現に、大伯皇女は「大宝元年(701)、40歳にて亡くなっている(続日本紀」)。したがって、縁起の創建年である神亀2年(725)には皇女は存在せず、そのままの形では理解できない。しかし、そういうことを含めても、夏見廃寺と大伯皇女との関係を想定することは、それを否定する明らかな証拠がない限り合理的ではないだろうか。

 夏見廃寺と大伯皇女のつながりを示唆する状況証拠は幾つもある。

 「甲午」の干支が認められるせん仏が出土したことで、寺の創建は694年前後と考えられるが、686年の大津皇子の謀反事件から皇女が亡くなった701年のわずか15年の時期と一致する。694年は藤原京遷都のあった年でもある。

 寺は名張川を南に望む丘の斜面に建つが、飛鳥京と伊勢神宮を結ぶ古代の街道が渡河した地点に近接するという。皇女が13歳で斎宮となり伊勢へ赴いたときも、13年後、伊勢から飛鳥へ戻るときも通った街道だ。また伊賀国名張郡は、大和と伊勢の中間地点である。このような立地条件は、大伯皇女との関わりを想像させる。

 遺跡に立つと、金堂の礎石のみすぼらしさや敷地の狭さが逆に強い印象を与える。当時の寺院が天皇や有力氏族、地方豪族が施主となり、彼らの世俗的な権威を誇示するためスケールを追求した中で、それらとは異なった性格の寺のように思える。内親王が個人的な動機によって、出家・修行した寺と考えれば、それに相応しい規模のようにも思える。

 大津、大伯の母親たる大田皇女は、持統天皇の実の姉である。父親の天智譲りの冷徹さを備えた持統ではあったが、一方、温情家の顔も持つという。若死にした姉が残した子を哀れむ十二分な理由が、持統にはあった。大伯皇女が寺を持てたとすれば、もちろん持統の支援によるのだろう。

 皇女が建てたお寺は小さな金堂と自らが住む僧坊と周りを囲む掘っ建て柱塀しかなかった。皇女亡き後、おそらく地元の郡司層である夏見氏が内親王の権威を引き継ぐ形で、寺の施主となり、堂塔を建て増しして寺観を整えたのだろう。だから、丘の斜面という不利な条件を変えず、金堂を中心に寺域を拡大して変則的な位置に講堂が建てられたのではないだろうか。

 薬師寺は天武天皇が創建した。天武の娘である大伯皇女が父のために昌福寺を創建したと薬師寺縁起が記録するのも、天武との関わりで両寺が密接な関係も持ち続けていたなればこそだろう。そういう意味では根拠のある史料なのだ。

 大津皇子の鳥谷口古墳と比較すれば、大伯皇女の夏見廃寺はその信憑性が高いと言えるようだ。                      (03年10月24日記)

●参考 「夏見廃寺」・「史跡夏見廃寺跡」名張市教育委員会 「夏見廃寺の研究」山田猛
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