奈良歴史漫歩 No.029   豊臣期大坂城の三の丸

    ● 障子堀の堀が出土する

 昨年(2003)の12月13日、大阪府文化財センターによって発掘調査されていた大阪城の大手門西側の一角で現地説明会があった。新聞でも大きく報道されたからご存知の方も多いだろうが、検出された遺構は、豊臣秀吉が築いた大坂城のお堀であった。慶長19年(1614)の冬の陣の和平直後に埋められた堀は、戦の生々しい状況を伝える遺物も多量に出土して、400年前の歴史の現場に立ち会うかのようだった。

 堀は石垣を伴わない素堀、かつ水のない空堀で、地表面の幅は約25m、底の幅は約12mあり、深さ約6mに掘り下げられていた。特異なのは、堀の底が凹凸状になって、歩き難いようにしてあることだ。障子の桟に似ていることから、障子堀とも呼ばれる。発掘担当者の説明では、東国の城に多く見られ、天正18年(1590)に秀吉が攻め落とした小田原城にも障子堀があったという。

 出土物には、豊臣期の大坂城を飾った金箔瓦がたくさんあった。また「子孫繁栄」を祈祷した御札には、慶長13年(1608)の年号が書かれていた。戦闘の様相を伝えるものには、切り落とされた頭蓋骨、鉄砲玉が食い込んだ板、多量の牛馬の骨、柵に用いられたと見られる杭などがある。

 堀を埋める際に埋葬されたらしい老女の人骨は、膝を折って筵にくるまれ、お腹に六文の銭を載せた漆器椀を抱き、手には数珠が巻かれていた。一体、どのような事情でここに葬られたのだろうか。

●障子堀の堀の底

    ● 本丸地下の石垣

 現在見られる大阪城は、夏の陣の直後に徳川方によって再建された城である。徳川氏は、元の城跡に厚く土盛りをして、新たな縄張りで、壱から壕を掘り石垣を積み上げて城を築いた。そのため元和6年(1620)から10年かけて、西国の外様大名を動員する大がかりな天下普請が行われた。旧政権のお膝元に、新たな支配者の権力を誇示するためにも、元の城を上回るスケールの石垣と堀が築かれたことだろう。

 今の城は、まさしく徳川氏の大坂城なのであるが、それが何時しか秀吉の築いた大坂城であるかのように思われ、ヒーロー・秀吉を語る最大の史跡となったのは何とも皮肉である。

 昭和34年(1959)、大阪城の学術調査が行われ、本丸のボーリングで地下の石垣が発見された。発掘調査により、地面から7.3mのところで、30〜60cmの自然石を野面(のづら)積みにした高さ4m以上の石垣が出土。これをきっかけに本丸の内外で地下の石垣が突きとめられるようになった。石垣は、大坂城に先行する石山本願寺のものではないかという説も調査初期には出たという。

 しかし、同時に実施された現石垣の刻印調査から、残る家紋はすべて関ヶ原の戦い以降の大名のものであることが判明、徳川期再建の決定的な証拠となる。そして、地下の石垣が豊臣期大坂城のものであることも明らかになったのである。

●鉄砲玉の食い込んだ板

    ● 豊臣期大坂城の縄張り

 豊臣期大坂城の姿は、数ある大坂の陣の絵図によってうかがえる。徳川期大坂城の本丸と二の丸は、豊臣期大坂城の布陣を引き継ぎ、ほぼ同じ位置に設けられた。しかし、豊臣期大坂城にあった三の丸と惣構えは造らず、その代わり10mほど土を盛り石垣と堀を大きくして、防備を固めたのである。

 なお、昭和6年に復原された天守閣は、絵図を参考にするから外観は秀吉の天守閣を一応しのべるのであるが、その位置や規模はもちろん当時と異なっている。

 惣構えとは、戦時の防御線であり、いざというとき塀や櫓をこしらえて防御にあたる。大坂城の惣構えは、北は大川、西は東横堀川、南は空堀、東は猫間川(現JR環状線軌道)の範囲に敷かれていた。冬の陣では、攻め寄せる20万の徳川方を相手にして、10万の豊臣方は惣構えから1歩も引かず1カ月戦ったという。

 三の丸は、秀吉の晩年、慶長3年(1598)から築造された。しかし、三の丸の位置と範囲については今もって定説はない。大坂の陣によって徹底的に破却された上に、徳川氏再建の大坂城には設けられなかったからでもある。

 今回の調査地の北側でも、平成2・3年に豊臣期の堀が出土しており、つなげてみると、大手門の虎口を逆コの字型に囲む馬出曲輪(うまだしくるわ)となる。大坂城の絵図にも大手門の西側に逆コの字型に描かれた堀があり、出土した堀の形とよく似ている。絵図のひとつである「僊台武鑑」には、堀に囲まれた区画を三の丸と書き込む。岡本良一氏は、三の丸を惣構えと二の丸の中間地点に想定されているが、出土した区画はそれから比較するとかなり狭い。もっとも豊臣期大坂城の大手門も二の丸も現在のそれとは異なっているから、この馬出曲輪=三の丸も現在の城郭の配置から評価するべきではないだろう。


●金箔軒丸瓦


●発掘調査地の全景 南側の大阪歴史博物館より見下ろす

    ● 堀の底から出た通路

 冬の陣で、豊臣方と徳川方は和解して停戦する。和解条件は、惣構えを徳川方が破却し、三の丸と二の丸の堀を豊臣方が埋めるというものであった。しかし、わずか3日で惣構えを壊した徳川方は、その勢いで三の丸と二の丸の堀も埋め戻しに掛かる。豊臣方の抗議に「埋め戻しが終わらなければ国許に帰れないし、どうせ埋めるのだから手伝ってやるのだ」と取り合わない。豊臣方も自分たちで埋めるのだから手加減できると思っていた節があり、そもそも埋め戻しに同意したという弱みがある。それに武力を持って阻止するという余力もなかっただろう。「狸おやじ」家康の面目躍如である。

 家康はこの時、「三歳の子供でも歩けるように埋めもどせ」と家臣に命令したらしい。城門、櫓、塀を壊すことはもちろん、石垣も崩して平に均してしまうのである。豊臣方の復旧意思を見透かしての徹底的な破壊である。ということで、埋め戻しには1カ月近く要している。

 400年ぶりに掘り返された底から、埋め戻す時に設けられたらしい通路が出てきた。瓦と土のうを積んで固めた上に板を敷いて、堀を横断するように伸びていた。堀の隅角に近く、内側には隅櫓のあった場所である。この通路を渡って櫓にとりつき壊しにかかったのだろうか。

 家康は、豊臣方に復旧の猶予も与えず、4カ月後の夏の陣、両軍がぶつかってわずか3日で大坂城は落ちた。秀頼、淀君も燃えさかる炎の中で露と消えたのである。

             ●
 久しぶりに大阪城を訪ねました。10年ほど前に訪ねたときは運動場であった東側外堀に、水が満々と湛えられていました。堀と石垣越しに抜きん出た天守閣が望め、視野には高層ビルもなく、江戸時代もかくやと思える風景を堪能しました。
 大阪城は何度訪ねても、あの堀と石垣のスケールと美しさに圧倒されます。今のような動力機械のない、頼るものといえば人力と簡単な道具しかなかった時代に、このような土木工事がどのように行われたのか、想像するだけで溜息が出てきます。
 しかし、これほどの強大な権力の在りどころを誇示する徳川期大坂城の最後はまことにあっけないものでした。慶応4年(1968)1月、鳥羽伏見の戦いで敗れた幕軍は大坂城へ逃げ帰ります。しかし、将軍、慶喜は闇に乗じて逃亡し、それを知った幕軍は四散。城内は大混乱の中で略奪を受け、長州軍の放った大砲で火災が発生、城内の建物はこの時にほとんど焼失しました。考えようによっては、無益な戦闘が回避され、大坂の町も戦災を免れたことは、不幸中の幸いだったかもしれません。

●近世の大阪城に言及するときは「大坂城」、近代以降の大阪城を指すときは「大阪城」と表記しました。

●左下が豊臣期大坂城の堀が出土した調査地、右に大坂城外堀と
大手門土橋が見える。大阪歴史博物館より北を見る

●復元した東側外堀

●参考 現地説明会資料「大坂城跡の調査」(財)大阪府文化財センター 岡本良一「大坂城」岩波書店 岡本良一「大坂冬の陣大坂夏の陣」創元社 「秀吉と大阪城」大阪城天守閣
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