奈良歴史漫歩 No.034    直径86m=最大規模の円墳、富雄丸山古墳 

      

 大和の古墳は、盆地東南部の三輪山麓に巨大な前方後円墳として出現したものを始まりとする。3世紀中頃といわれる。その周辺に大中小の古墳が次々に築かれていったが、4世紀の後半に突如、築造の中心エリアは盆地北部に移動する。佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の西群と呼ばれる、五社神古墳(神功皇后陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)と宝来山古墳(垂仁天皇陵)など200mを越える前方後円墳が、この頃に築かれた。この時期は、古墳時代の前期後半に区分されるが、古墳の移動の理由についてはいまだ定説はない。

 盆地北西部の南北に走る矢田丘陵の裾に位置する富雄丸山古墳も、この時期に築造された。富雄丸山古墳は一般にはあまり知られていないが、墳丘直径86mという国内最大を誇る円墳であり、舶載三角縁神獣鏡4面をはじめ豪華な副葬品の出土で研究者の間ではよく知られる。


東から見た丸山古墳(左)と茶臼山古墳(右)全景
 
    
●周到な工事を行った粘土槨

 丸山古墳のある場所は富雄川の中流域にあたり、一帯は矢田丘陵と西の京丘陵にはさまれて南北に伸びる狭い谷である。富雄川下流域の小泉や斑鳩には多数の古墳が集中するが、丸山古墳の周辺には他に目立つ古墳はなく、いわば単独で存在する大型円墳として特異性が際だっている。

 古墳は、宅地開発による事前調査で昭和47年(1972)に発掘調査された。

 墳丘は、矢田丘陵から東に派生した尾根の独立丘を利用して整形してあり、測量調査によって、半径43m、高さ10mの規模と推定できる。裾部には、葺き石や埴輪が見つかっている。

 埋葬施設は南北を軸にした粘土槨であり、2段に掘り込まれた墓壙(ぼこう)内に設けられていた。墓壙の1段目は、墳丘頂上部を平坦にしたのち、南北長10.6m東西幅6.4〜6.35m、深さ1.35mまで掘り込む。2段目の堀方は周囲1mの壇(犬走り)を残して、南北長8.2m、東西幅3.98〜3.9m、深さ2.1mを掘る。墓壙の深さは、現在の表土から3.6mとなる。

 墓壙の底は、壙壁に沿って四周に溝がめぐらされる。溝幅は70〜26cm、深さ40〜36cmで、緩やかな勾配によって、水は東南隅に設けられた集水口から墳丘
外に排水されるようになっていた。

 拳大の丸い石が墓壙底面に21〜13cmの厚みで敷かれる。その上に、灰白色の粘土を敷きつめ粘土床とする。しかし、墓壙壁と接する四周、排水溝のすぐ上は粘土を置かず、丸石を積み上げて、排水効果を考えた工事が施されていた。

 棺は残っていなかったが、粘土床の窪み跡などから見て、割竹形木棺が据えられていたと想定される。木棺は長さ6.9mに近い長大なものであった。

  


●西から見た丸山古墳(右)と茶臼山古墳(左)全景、手前の家並みが丸山町のニュータウン、左に見える高架の道が第二阪奈道路


●丸山古墳の測量図

    ●盗掘された副葬品と出土遺物

 盗掘がひどくて、出土した副葬品などの遺物は、攪乱した土中にあったものがほとんどだったが、木棺の東西から原位置をとどめる副葬品が出土した。東からは、鑓の柄の痕跡と鑓に付属する石突き状の金具が見つかった。西からは、9本の銅鏃が出土したが、状況から胡禄が壁に立てかけられていたと見られる。

 攪乱土中から検出した遺物は次の通りである。

 玉・石製品は管玉、鏃形石製品、鍬形石片などがあった。
 武器・武具類としては破片であったが、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、鉄鑓、短甲などである。
 農耕具・漁具では斧、ヤリガンナ、鋸形鉄製品、錐・鑿形鉄製品、鍬先、鎌、刀子、ヤスである。
 銅製品では巴形銅器、筒形銅製品、銅鏃である。
 埴輪は墳頂上に配置されていたと思われる。家形、盾形、草摺形、蓋、円筒等の各埴輪の細片が見つかっている。

 京都国立博物館に、丸山古墳出土を伝承する遺物が保管され、重要文化財の指定も受けていた。古墳が盗掘されたのは、明治12、3年と言われるが、古物商や好事家の手を経て博物館へ回ってきたらしい。

 その中に、角の欠けた碧玉製鍬形石もあったが、古墳から出土したカケラがその欠損部にピッタリ合ったのである。伝承は事実となった。

 博物館が保管する遺物は玉・石製品が多い。碧玉製鍬形石、碧玉製管玉、碧玉製臼玉、碧玉製合子、琴柱形石製品(滑石と碧玉)、刀子形石製品(滑石)、ヤリガンナ形石製品(滑石)、鑿形石製品(滑石)、斧頭形石製品(滑石)である。金属製品である有鉤釧形銅製品、銅板もある。

 盗掘者が目をつけただけあって、見応えのあるものが並ぶ。ペンダントトップになったという琴柱形石製品は、複数のタイプを含んで多量に出土しており、「丸山型」タイプの指標にもなる。

 丸山古墳出土を伝承する遺物には、天理参考館と地元の弥勒寺が所蔵する三角縁神獣鏡4面がある。いずれも舶載鏡で、天理参考館にはその配布が比較的古い吾作四神四獣鏡、椿井大塚山に同笵鏡がある画文帯五神四獣鏡、画像文帯盤龍鏡、弥勒寺には吾作二神二獣鏡である。




●副葬品の合子


●副葬品の石製模造品、刀子、斧、鑿、ヤリガンナ
   ●2号墳、3号墳、茶臼山古墳

 粘土槨は竪穴式石室の省略化といわれ、前方後円墳の前方部埋葬施設や円・方墳の多くで採用された。したがって、竪穴式石室よりランクが下と見られる。丸山古墳の粘土槨は同時期の天理に築かれた前方後円墳の東大寺山古墳の粘土槨とほぼ同一規模で同じ構造を持つ。

 古墳はその形態や規模、施設、副葬品などに規制があり、被葬者が中央の王権との関係で占める政治的なバックボーンを表すといわれる。円墳で粘土槨の丸山古墳はその意味で中央王権からの隔たりを示すと思われるが、一方、Aクラスの副葬品と墳丘の規模は古墳の主の並々ならぬ権勢を誇示しているようにも見える。

 「報告書」では、神武紀にある長随彦と鳥見邑伝承をヒントに、ヤマト政権にかつて抵抗した物部氏と結びつけてその被葬者を考察している。興味あるテーマである。

 丸山古墳の東に伸びる尾根にも小さな古墳が2つある。2号墳は直径15m、高さ2.5mの円墳で、横穴式石室が築かれる。石室は全長5.3m、玄室長3.09m、奥壁幅1.35m、奥壁高さ1.94mとなる。花崗岩の自然石を乱石積みにし、間隙には小石を詰める。3壁とも内に持ち送り横長の天井石を架構するが、盗掘により天井石は落ち込んでいた。6世紀前半からなかばにかけて築造されたらしい。

 3号墳は直径9.5m、高さ1mの円墳である。盗掘がひどくて埋葬施設も残っていなかったが、木棺直葬であったと推定される。築造は6世紀前半である。

 2号墳、3号墳の被葬者は丸山古墳につながる一族なのか、或いは断絶があるのか。この1世紀以上に渡る空白をどう考えればいいのか。

 丸山古墳の北、約200mの場所に茶臼山古墳と呼ばれる小高い築山がある。開発地から逸れて調査はされていないが、裾周りが最近土取りされて、モヒカン刈りのようになる。この古墳の調査に謎を解く手がかりが秘められているかもしれない。

鍬形石製品、赤く塗った部分が発掘で出土し、
京都国立博所蔵のものとつながった。



●茶臼山古墳全景、裾の土が取りさられてむきだしになる
    ○追記○

 富雄丸山古墳は筆者の自宅の近く、歩いて15分ぐらいの場所です。そのため個人的な思い入れがあります。32年前の発掘調査では、調査が終わったばかりの無人の古墳の上を歩き回った思い出があります。新聞の地方欄に現地説明会の小さな記事を読んで、初めて古墳の所在を知ったのですが、残念ながらその時の現説には行けませんでした。伐採されて裸山になった古墳の浅いお椀を伏せたような稜線と頂上の深い穴や散乱した石が印象に残っています。しかしそれも、あの日の晩夏の日差しや乾いた山土とともに淡い記憶となりました。

 80年代に周辺はニュータウンに変貌を遂げました。しかし、新たに丸山町という地名が誕生し、幸いに古墳も残されました。この稿を書くにあたって、久しぶりに古墳を訪ねました。ニュータウンの家々の庭はずいぶん濃い緑に茂っていましたが、それ以上に古墳は鬱蒼とした緑に覆われてツクツクボウシの鳴き声が充満し、立ち入ることも拒むようでした。スポーツ公園となった隣から、夏休みのサッカー少年の元気な声が聞こえていました。

 古墳からは、鉄製の鍬、斧、ヤリガンナ、鋸、錐、鑿、鎌、ヤスが出土しています。1500年前の昔、この地に住み着いた人たちは、このような道具で森を開き田を均し、また川で魚を捕ったのかと思うと、写真ではあるがついつい見入ってしまいます。

 古墳のある場所はかつては典型的な谷津田であって、私は幼児の頃にこの近くの桃畑で土筆を摘んで採りきれなかったという幸せな思い出があります。本格的な河川を利用しての灌漑は後世のもので、初期の頃は棚田のような土地の高低差に頼った農業が主流であったという説を読んだことがあります。棚田を見たときに浮かぶ郷愁も、実はこのような祖先の営みに根ざしているのかもしれません。

 古墳の築造も祭祀や威信の意味だけでなく、土地開発の機能を持ったという説があります。それが正しいなら、丸山古墳を造った労働力は同時にこの土地を谷津谷に変える端緒を開いたのでしょうか。

 奈良市西郊のこのあたりは、谷津谷は丘陵もろともことこどく住宅地に変貌しました。それは奈良盆地全域、いや日本全土に及んで止まらぬ流れです。丸山古墳の調査も開発と引き替えでした。新たな考古学的事実が次々に発見され、豊富になる歴史の知識に触れるのは、この上ない喜びですが、つねに喪失の感覚がつきまとうようです。32年前の晩夏の丸山古墳を歩き回った思い出にも、一抹の寂しさが離れません。
  

●琴柱形石製品、下2段の6個が丸山形のタイプに分類される
●参考「奈良県文化財調査報告書第19集 富雄丸山古墳」奈良県教委 「政権交代古墳時代前期後半のヤマト」橿原考古学研究所附属博物館
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