奈良歴史漫歩 No.035   2重基壇だった唐招提寺金堂 
      

 唐招提寺金堂は現在、解体修理の最中である。終了予定は平成21年(2009)、準備も含めると10年以上に及ぶ大工事となる。奈良時代に創建されて唯一残る金堂であるが、これまで鎌倉、江戸、明治と4度の大きな修理を経ている(*注1)。

 今回の修理は、屋根の重量によって生じた組み物の変形・破損、柱の傾きが進行してかなり危険な状態であったことによる(*注2)。奈良の寺院の主要な古代建築は、昭和になって次々と大きな修理を受けているが、唐招提寺金堂は最後に残った“大物”である。

 鑑真が、新田部親王の邸宅跡を譲り受けて唐招提寺を創建したのが、天平宝字3年(759)。しかし、伽藍の完成には約50年を要し、金堂が建てられた時期は宝亀年間(770−780)が有力であるが、確証はない。解体によって、建設時期の確かな手がかりが得られることへの期待もある。


見学会風景 中央盛り上がった部分が須弥壇穴は工事足場の柱跡、左手前に土こね場の跡がある 
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●現在よりも広かった創建当初の基壇

 建物の解体はすでに終了し、今年に入って、建物基壇の発掘調査が奈良県立橿原考古学研究所によって行われていたが、その見学説明会がこの9月に実施された。

 普段は、廬舎那仏、薬師如来、千手観音がおわす聖なる空間である。それが今は、床の漆喰がはがされて柱穴がむき出しになり、須弥壇も深く裁ち割られて、仏がお立ちになっていた足下がえぐられている。まさに非日常的でスリリングな光景である。思わず興奮した。発掘調査の現地説明会に共通する特権的な一回性の体験であるが、その醍醐味を今回も存分に味わったのである。

 今回調査の一番大きな収穫は、現在の基壇の外側にあった創建当初の基壇石組みの発見である。調査できなかった南面を除いて、現基壇石組みから60cm(2尺)の間隔をたもって出土した。一列に敷いた磚(せん=瓦製レンガ)の上に、凝灰岩を組む。凝灰岩の大きさは、大きなもので高さ約35cm、奥行き約30cm、幅約60cmあるが、大半の奥行きは20cmほどである。出土したのは一段であるが、後世の削平を経てかろうじて残ったものと見られる。

 しかし、不揃いの石の形状や、石の奥行きが薄いことから、現在のような壇上積みではなく、二重基壇の下部であった可能性が強い。創建当初の基壇の平面規模は現在よりも東西南北1.2mひろがり、東西36.4m、南北23mとなる。ちなみに、現在の壇上積み外装は花崗岩製で、近世の修理でなった。しかし、二重基壇から一重基壇への改造はさらに時代を遡るかもしれない。

 基壇石組みの裏込め土から多量の凝灰岩切石が出土している。創建当初の石と考えられるので、ここから最初の基壇の具体的な復元の手がかりが得られることを期待したい。

 基壇本体は版築により造成されるが、創建当初のままで礎石位置も変更のないことが確認できた。須弥壇の位置や規模にも変更はないが、中世には本体が築き直され、花崗岩の磚に改装されている。千手観音は地震のため転倒したこともあるらしいが、そのため観音の足下だけ須弥壇を掘り窪めて井桁を組み、内側から固定できるような工夫がしてあった。

 階段の土盛りも基壇と一体で創建期を引き継ぐ。金堂と中門を結ぶ回廊のあったことが知られているが、金堂にとりつく回廊の石組みが検出できたのも大きな成果であった。これによれば、梁間2間の復廊で、金堂南側の2間に柱筋を揃えてとりついていたことがわかった。

 また、基壇上面には足場を組んだ多数の柱穴や土こね場の跡も見つかり、近世と明治期の修理の様相を浮かばしめた。

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●創建当初の基壇石組、北東角。左上の漆喰は現在の石組位置

●解体中の金堂、地垂木と飛燕垂木の接合が作るカーブがよくわかる
   ●堂外から拝観する仏像

 ここで、唐招提寺金堂について改めておさらいしておこう。

 桁行7間、梁行4間、南側正面1間通りを吹き放しとした単層寄せ棟造り。唐招提寺は鑑真の私寺のため官寺に比べると規模は小さいが、金堂は興福寺や大安寺、西大寺に次ぐ大きさがあった。

 正面5間と背面中央1間は戸口であり、他の柱間はすべて連字窓となる。非常に開放的な堂内空間を構成するが、これは堂外から仏像を拝礼することを考慮した結果だろうか。正面の柱間距離は、中央が16尺、その左右隣が15尺あり、須弥壇の廬舎那仏、薬師如来、千手観音は各々柱間の真ん中にお立ちになっている。

 中秋の名月の際には、扉をすべて開け諸尊に献灯する観月賛仏会が開かれる。黄金色に輝く堂内の仏像を中庭から柱越しに拝する。まさに荘厳という言葉がぴたりとはまる。

 おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ

 会津八一のこの有名な歌が観月賛仏会に想を得たものかどうかはわからないが、歌にある「まろきはしら」、すなわち、吹き放しの柱列は、唐招提寺金堂のイメージを決定するものだろう。

 三手先組物の完成したスタイルとしてひとつの指標になるなど、奈良時代後半の建築を代表する貴重な建物であることは間違いないが、しかし、奈良時代の建築様式がそのまま今ある金堂に引き継がれているわけではない。




●金堂屋根の西側の鴟尾、創建当初のもので現役最古

      ●後世の修理によって改造される

 昭和30年に再建された南大門をくぐると、金堂の急傾斜で重量感のある屋根がまず目に飛び込んでくる。この屋根が現在の金堂の印象を決定する重要な要素であるが、創建時はこれとはかなり異なる姿であった。元禄の修理の際に、桔木(はねき)を入れて野小屋を造り屋根を高くしたのである。創建時よりも、2.5mは高くなったという。 創建時の金堂はおそらく今よりも軽快な印象を与えたことだろう。

 なお、現在の桔木は明治の修理の際に新調され、30cmの松材を2段に重ねる。また、この時に小屋組も三角形を組み合わせる洋式のトラス構造に改造されている。大仏殿も明治の修理でトラス構造に改造されたから、洋式の取り入れはこの頃のブームであったようだ。

 時代を経た建築は、長い歳月の中で修理を受けた時代の趣向と技術を取り込んできている。現代の修理は創建当初の姿に近づけるという大方針があるようだが、唐招提寺金堂が平成の修理でどのような姿に甦るのか、興味津々といったところである。
 

(*1)鎌倉時代の文永7年(1270)、元享3年(1323)、江戸時代の元禄7年(1694)、そして明治32年(1999)の修理である。
(*2)柱の内倒れは、側柱の上端で121mm、入り側柱の上端で115mmも生じる。
   

金堂の鬼瓦、左が江戸時代のもの、徳川家の葵の紋がつく。右は明治の修理の際に新調された。創建当初のデザインを採用



唐招提寺の所在地地図
●参考 「国宝唐招提寺金堂現地説明会資料」奈良県教育委員会 「唐招提寺金堂と講堂」岩波書店 太田博太郎著「奈良の寺々」岩波書店
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