奈良歴史漫歩 No.037   東朝集殿を再生した唐招提寺講堂

      

 唐招提寺講堂は間口9間、奥行き4間、入母屋造り、本瓦葺きの堂々たる風格を持ち、講堂としては法隆寺東院の伝法堂とともに最古の歴史を誇る。元の建物が平城宮の東朝集殿であり、移築して仏堂に仕立て直されたのである。もちろん長い年月の内に何度も改築されて、元の建築とは大きく変わっているが、現存する平城宮の唯一の宮殿遺構である。

    ●講堂を優先した唐招提寺

 講堂が平城宮朝集殿を移築したものであったことは、承和2年(835)の「唐招提寺建立縁起」に「講堂1宇、平城朝集殿を施入す」の記載から知られていた。

 朝集殿は東西2棟の南北建物で、平城宮壬生門の真北に位置する第2次朝堂院の南に建つ。朝賀などの儀式の際、高官が朝堂院に入堂する前に待機する建物として使われた。藤原宮においてすでに存在し、平安宮にも引き継がれた。

 明治の講堂の解体修理の際に、蟇股(かえるまた)という部材に古い番付の墨書が見つかった。番付は建物を解体するときの一種の覚え書きで、それには「東一条四」や「西三条九」などとあり、元の建物が西を正面とする南北建物、すなわち東朝集殿であることが裏づけられたのである。
 


唐招提寺講堂
鑑真大和上が右京五条二坊にあった故新田部親王の旧宅を賜い、唐招提寺を創建したのは天平宝字3年(759)である。

 天平宝字7年(763)に鑑真は入寂するが、「唐大和上東征伝」には「宝字七年春、弟子僧忍基が夢に講堂の棟梁の摧(くだ)け折れるのを見」て、和上の遷化の近きことを知り御影を模したことが記される。これは、鑑真の生前に講堂はあっても、金堂はなかった証になるという説がある。字際、金堂が創建されるのはかなり後になる。

 また、天平宝字5年には平城宮改作のために近江の保良宮に宮を一時移す詔が出ているので、この前後の期間に平城宮の宮殿も大幅に建て直しされたらしい。

 これらの資料から、朝集殿が移築されたのは鑑真生前の唐招提寺創建期とされてきた。現在も通説として、多くの解説書や報告書に採用される。

    
●再建の痕跡なき東朝集殿

 昭和43年に行われた平城宮東朝集殿跡の調査では、東西約18m、南北約38.5mの版築基壇が検出された。幅約4mの階段が東西に3基ずつ、計6基とりつく壇上積み基壇である。

 講堂の調査から復元される東朝集殿は、桁行9間(34.77m)、梁行4間(13.55m)の切妻造りである。基壇上部が削平を受けるため柱跡は残っていなかったが、基壇の規模は推定の東朝集殿にふさわしいものであった。


●講堂西側面
   出土した瓦は、軒丸瓦6255型式と軒平瓦6663型式のセットが大半を占める。このセットは唐招提寺境内でも出土するので、これも移築を裏づける証拠になる。

 問題なのは、東朝集殿が建て直された痕跡が見つからないことである。先の瓦のセットの編年は天平後半を示し、通説に述べる天平宝字年間の改作を示す瓦は出土しない。
移築された後、784年の長岡遷都まで20年間も東朝集殿がないまま推移したとは考えにくい。
 これから考えられるのは、長岡遷都以降に他の多くの宮殿建築とともに、東朝集殿も解体移築され唐招提寺講堂によみがえったということである。

 唐招提寺金堂の創建時期もいくつかの説があり、定説にまで至っていないが、最新の年輪年代法では金堂の垂木材が781年を示す。この年代に加えて、出土瓦や金堂創建者の如宝のキャリアなどの条件を総合すると、延暦年間(782−806)説が有力となる。

 唐招提寺の中心を占める伽藍配置は、金堂を中心にして回廊、門、講堂、僧房、食堂などが緊密な秩序を構成する。1つの設計図のもと、これらの諸堂は計画的に建てられ配置されたと思われる。講堂もそのとき(延暦年間)に、今ある位置に建てられたと見るのが自然ではないだろうか。再解体、再配置の可能性もあるが、講堂のような巨大な建物ならその痕跡は残るはずだ。今のところ、そのような報告はない。


●興福寺旧一乗院宸殿を移築した御影堂

    ●「解歇九間屋」の問題

 もちろん「唐大和上東征伝」で講堂の梁が折れるのを忍基が夢に見たように、鑑真の生前に講堂の存在したことは間違いない。

 戒律を学べる道場を目指したお寺に必要な建物はまず講堂と僧坊であり、金堂が後回しにされたことは、鑑真が唐招提寺にこめた意図と理想を語るものとして例に出される。

 しかし、鑑真の生前の講堂が東朝集殿でなければ、どのような建物であったのか?新田部親王の旧宅、或いは他から移した建物を転用したのか。それとも新築したのか。

 東朝集殿=延暦移転説にネックとなるのが、鑑真の高弟、思託が延暦7年(788)に著した『延暦僧録』にある「沙門釈浄三菩薩伝」の一節である。

   これによれば、文屋浄三は唐招提寺の別当となり、平城宮の「解歇(げけつ?)九間屋」を施入して講堂にした。その縁で鑑真から菩薩戒を受け弟子になったということだ。

   「解歇」とは「解体して保存した」という意味になる。浄三は宝亀元年(770)に没したため、この記事は、東朝集殿=天平宝字移転説の有力な証拠にされる。

 「解歇九間屋」が東朝集殿とは別の建物であるという解釈もあるが、もう一つ釈然としない。こういうわけで、東朝集殿が唐招提寺講堂に再生した時期はまだ確定しないが、通説が揺らいでいることは確かだろう。


「天平の甍」。解体修理中の金堂の屋根からおろされたしゃちほこ



唐招提寺マップ
●参考 『奈良六大寺大観・唐招提寺』岩波書店 『唐招提寺講堂修理工事報告書』奈良県教育委員会 『昭和43年度平城宮発掘調査概宝』奈良文化財研究所 他
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