奈良歴史漫歩 No.038  春日山の水神信仰   

      

    ●式内大社 鳴雷神社

 春日大社の末社・鳴雷神社は春日奥山に鎮座して、一般には目に触れる機会はないだろう。ここが水を司る神として朝廷や民衆から厚い信仰をかつて寄せられたことも、今ではすっかり忘れられてしまったが、しかし、春日信仰の源を探る上で重要な神社である。

 柳生街道が能登川沿いの渓谷をぬって春日山石窟仏にさしかかる付近は、鬱蒼たる杉山である。柳生街道とほぼ並行して開かれた春日山遊歩道は、このあたりで北側に向かうが、少し歩くと、道沿いに春日造りの小社がある。春日大社末社の高山(こうせん)神社で、祭神は春日四座、若宮、祓戸、水谷である。社の前は湿地となり、石舟が置かれている。銘文に「東金堂施入高山水船也 正和四年乙卯五月日置之」とある。正和四年(1315)、興福寺東金堂衆が雨乞いのため据え付けた水船とわかる。

 高山神社の前を横切って山中50mほど登ると、左手に竜王池と呼ばれる直径10mほどの丸い池があり、満々と水をたたえる。その東に、池を見下ろすかのように西面して建つ流れ造り・桧皮葺の小さな社が鳴雷神社である。祭神は天水分神(あめのみくまりのかみ)。「延喜式」神名帳の大和国添上郡三十七座の筆頭にくる「鳴雷神社 大/月次/新嘗」に擬される。二月の祈年祭、十一月の新嘗祭には中央から中臣氏の官人が差し遣わされた格の高い神社であり、この由緒により、現在も春日の摂末社の中で唯一新嘗祭が行われている。

 水分りとは、山から流れ出る水が分岐する場所をいう。春日山を水源として北流する佐保川と南流する能登川の水分りに位置して、水の分配を司る神をまつる。社名の鳴雷も雨をもたらし稲を生育させる雷をそのまま神格化したものだ。要するに、この神社が水の神をまつることは明白だろう。

●禁足地にある鳴雷神社

    ●竜王池に奉納された塔婆

 鳴雷神社は明治の初年まで「高山(香山)竜王社」と呼ばれた。社名は、眼前の竜王池にかかわる。池の岸は堅固な石積みであるが、東岸に池底へ下りる階段が設けられる。春日大社の大東延和氏によれば、「社にまつる神が水に潜って竜に化身、昇天して雷雲を呼ぶ、そのための石段」ということだ。竜もまた中国の思想と仏教思想が混交して、水を司る竜神としてあがめられ、中世以降広くまつられるようになった。

 大正12年、竜王池から石製塔婆(経筒)が発見されたが、そこには正安3年(1301)の祈雨神事の銘文があった。

 「相当此年炎干過去之間、為国土豊穣、於断食七箇日参籠高山社、仍結日降法雨、然間為果宿願、於春日社壇、奉転読法花妙典一千部、成現当二世悉地仍注結縁衆交名、奉納塔婆内而己、正安三年辛丑九月日勧進沙門西念 敬白」

 西念が塔婆を奉納した正安三年は、東金堂衆が水船を高山社に奉納した正和四年に近い。また、西念が参籠したのも高山社とある。高山社も鳴雷社も水にかかわる神をまつるが、近世には春日山中にある他の神社、神野社、上水谷社、本宮社を含めた五社を春日の神官が巡拝登山して祈雨神事を行った記録が残る。

 地元の農家を始め、市内各所の地区から登山して雨乞い祈願する「香山参り」の慣習がかつてあったことも報告されている。



春日遊歩道脇の高山神社
    ●天平の絵図に描いた井戸

 雨乞い祈願と言えば、名高い室生の竜穴神社には興味深い伝説が伝わる。「室生の竜穴にすむ善女竜王は興福寺の猿沢池にいたが、釆女の入水を嫌って、香山春日山の南に移り住んだ。そこにも死体が捨てられるようになって、室生の竜穴に移った…」というものだ。

 鎌倉時代初期の文献に出ているが、興福寺=春日社と室生寺の一体性を強調した政治的な狙いを感じるが、根も葉もないことではない。室生寺を創建したのも、のちに朝廷によって非常に重んじられた室生の祈雨神事の開始も興福寺の高僧がかかわっているからである。

 竜が移り住んだ「香山春日山南の地」とは、竜王池であると想定できる。猿沢池も室生の竜穴も良く知られた場所であるのに対し、竜王池を今知るものはまずいないだろう。しかし、この池の存在は猿沢池とともに平城京遷都の時期までさかのぼる可能性がある。


●東金堂衆が奉納した高山神社の水船
 天平勝宝8歳(756)の東大寺山堺四至図には、春日大社の建つ場所は「神地」と書きこまれているが、その東の春日山中に「香山堂」と記入されてお堂が描かれる。そのすぐ東南に四角の図形が描かれ「井」とある。そこから水が流れ出て能登川となる。井のある場所は竜王池の所在地に相当し、井は池の前身だろう。四至図が描かれた時代にもこの井を前にして神事が行われていたのだろうか。

 竜王池のある地は昼なお暗く無数のヤマヒルが地面を這いずる。おそらく今は過去のどの時代よりも訪うもの少なく閑寂だろう。周囲に厚く落ち葉が堆積した小さな池は満水であるが、濁っていて底は見えない。神秘と言うよりも不気味でさえある。観光地となった猿沢池はもちろん室生竜穴神社からも逃れた竜が潜むにふさわしい山に戻ったのかもしれない。 

 


竜王池


春日山の所在地図
●参考 「鳴雷神社とその信仰」大矢良哲 「春日の神々への祈りの歴史」大東延和 「奈良県史5神社」
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