奈良歴史漫歩 No.039  長髄彦の故地 

      
  
 奈良県生駒市の北部に近鉄不動産が開発する白庭台住宅地がひろがる。来年(2006)3月には開通する近鉄「けいはんな線」の沿線となり、住宅地に新設する駅名も「白庭台駅」に決まっている。この「白庭」という地名、じつは古代の神話に登場し千数百年の時間をへて現代に甦った地名である。

    ●東征神話の金鵄伝説

 古代豪族の雄、物部氏の始祖、饒速日命(にぎはやひみこと)が高天原より天の磐船(いわぶね)に乗り天下った地は、河内国川上哮峰(いかるがのみね)であった。饒速日命は大倭国鳥見白庭山に移りここを本拠地とされた。平安時代初期の文書とされる『先代旧事本気(せんだいくじほんき)』が記載する物部氏の伝承である。白庭台は、この鳥見白庭山に由来する。もちろんそれなりの根拠があってのことだが、それを明らかにするには『日本書紀』の神武紀をひも解かなければならない。

 記紀においても、饒速日命の天の磐船は登場する。神武天皇が日向国から東征に出るとき、「東の方に良き国があり、すでに饒速日命が天の磐船を操り天下りしている」と語るのには注目される。

 難波にいたり河内国に上陸した神武は、生駒山を越えて中洲(うちつくに=倭)に入ろうとする。そこは長髄彦(ながすねひこ)が盤踞する地であり、神武の遠征軍に頑強に抵抗する。神武の兄、五瀬命に矢が当たり落命するという損害もこうむり、撤退を余儀なくされるのである。その場所は孔舎衛坂(くさゑのさか)と書かれ、生駒山の西麓、東大阪市の大字日下(くさか)として地名が伝わる。

 大きく迂回して熊野に上陸、八咫烏(やたがらす)に先導され倭に進出した神武は、抵抗しマツロワヌ者たちを攻略していく。最後にふたたび長髄彦と会戦する。ここでも神武は苦戦を強いられるが、このとき日が翳り、黄金色の鵄(とび)が飛来し天皇の弓の先に止まる。鵄は稲妻のごとく光輝いて、長髄彦の軍勢の戦意を喪失させる。

 長髄彦は使者を送り天皇に問いただす。「むかし、天神の子が天の磐船に乗り天下りしました。饒速日命と申し、吾が妹三炊屋姫(みかしきやひめ)と結婚し、子の可美真手命(うましまでのみこと)も生まれました。それゆえ、私は饒速日命を君として仕えてきました。なぜ天神の子が二人もいるのでしょうか。あなたは天神の子と称して、人の地を奪おうとしている」

 長髄彦は饒速日命が天神の子である証として天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を神武に示す。神武もまた同じものを長髄彦に示す。これを見て長髄彦は神武が天神の子であると納得したが、なおも抵抗しつづけたので、饒速日命は長髄彦を殺した。神武は饒速日命の手柄と忠誠心をほめたたえた。

 以上が神武紀の饒速日命と長髄彦にまつわるストーリーの概略だ。神武東征に立ちはだかった長髄彦が互角以上の戦いぶりを見せたことも注目されるが、彼の言葉を書きとどめて人となりを浮き上がらせているのは、他の抵抗者が敵役一色に染められているのと比較して異例のことである。

 「いかにぞさらに天神の子と称して、人の地を奪はむ」とは、天孫神話を以って天皇統治を正当化するイデオロギーへの痛烈な批判のように読めるが、書紀編纂者はどのような意図を持ってこれを書きつけたのだろうか。
白庭台マップ



●白谷にある「鳥見白庭山」碑




●鵄山にある「金鵄発祥之處」碑

    ●鵄邑から鳥見、登美、富雄へ

 もとより神武東征をそのまま歴史的な事実とみなすことはできない。しかし、まったくのつくりごととも言えず、大小さまざまな歴史的な事実が反映されていると考えるべきではないだろうか。饒速日命と長髄彦のエピソードに秘められた歴史的事実を読み取ることは筆者の手に余るが、このエピソードの舞台となった地域については推測ができる。

 書紀の中に次の一説がある。「長髄はこれ邑(むら)の本の号なり。よりてまた以って人の名とす。皇軍の鵄の瑞を得るにいたりて、時の人よりて鵄邑(とびのむら)となづく。今、鳥見(とみ)というはこれ訛るなり。」

 「鳥見」の注として、岩波版日本書紀は次のように記す。「奈良県生駒市の北部から奈良市の西端部にわたる地域。この地は『続日本紀』の和銅7年11月条に登美郷として現われ、以後平安・鎌倉・室町・江戸の各時代を通じて鳥見庄または鳥見谷の名を伝え、その地内を貫流する富雄川も、もと富河または鳥見川と呼ばれていた。」

 物部氏の本貫地は河内国である。物部氏本宗家が蘇我氏らに攻め滅ぼされたのは587年であるが、守屋がたてこもったのは八尾の地である。石切剣箭神社をはじめとして生駒山地の東西に饒速日命をまつる神社は数多い。饒速日命が河内国川上哮峰に天下ったという神話も、この地域に物部氏が勢力を張ったという事実を語るものだろう。

 長髄彦は生駒山地の東側を根城にし、物部氏は生駒山地の西側を支配して、その勢力圏は隣接するとともに、部分的に重なっていたと言えるのではないだろうか。もっとも完全に滅んだはずの長髄彦とその郎党は、今となっては限りなく仮想に近い存在ではあるが。

 



●巨岩をご神体にする磐船神社(大阪府交野市)
   ●石碑とニュータウン「白庭台」

 時代は皇国史観はなやかなりし戦前にさかのぼる。大正の頃に生駒郡北倭村(現在、生駒市)に「金鵄会」が結成され、日本神話に登場する土地を聖蹟として顕彰する立場から、地元の聖蹟を特定して盛んに顕彰に努めた。

 鳥見白庭山、長髄彦本拠地、鵄山(金鵄発祥の地)などが特定されて、石碑も建てられたのである。神話の舞台にこの地域も含まれることは異論はないが、狭いスポットに限定するのは一種の冒険である。手がかりになったのは地名であった。村内に字白谷という十数戸ばかりの集落があった。四方を低い丘陵に囲まれた窪地上の農村であったが、白谷の一字が白庭と一致したことから遺称とされて、白羽の矢が立ったようだ。ここを中心にして周囲に関連する聖蹟が配置されていった。白谷から北北西約3kmの場所に、天の磐船をご神体にしたという磐船神社が所在することも断定の傍証になったことだろう。

 昭和15年(1940)の紀元2600年祭のキャンペーンとして文部省が行った聖蹟地調査にもとづき、鳥見谷は「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰之地」に指定され、大きな石碑が白谷から南へ3kmばかりの富雄川沿いに建てられた。これは、金鵄のエピソードに絞り、地域も鳥見谷という広範囲にわたるが、戦時中とは言え、公認の権威が与えられたことになる。

 今はさすがにこれらの石碑もあまり省みられないようだが、尋ねるとちゃんと残っていることにむしろ感慨がわく。これをもってまず感じるのは時代の移り変わりである。鵄山の石碑「金鵄発祥の地」はヤブ笹と雑木の中である。その不条理性は滑稽ではあるが、お遊びのようにも見えてなかなか面白い。「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰之地」の石碑はその立派さに驚く。石はまだ新しく、時代の熱狂ぶりの余韻がこもっているようで少々不気味であった。

 「長髄彦本拠」と「鳥見白庭山」の石碑は建っていたもとの場所が住宅開発のため、白谷集落の中心地に移されている。わずか十数軒の白谷を囲繞して数百軒の分譲地住宅が整然と建ち並ぶ。神話の地名を冠するニュータウンこそ石碑に代わる、今という時代の無邪気で巨大な記念碑かもしれない。
 

 

●富雄川ほとりに立つ「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰之地」碑


富雄川をまたぐ「けいはんな線」の軌道(2006年3月開通予定)
●参考 岩波文庫「日本書紀」 「生駒市史」 
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