奈良歴史漫歩 No.040  造り替えられた平城京 

      

 和銅3年(710)、奈良盆地北部の菅原の地に開かれた平城京は、南北九条、東西八坊に外京三坊が張り出し、碁盤目に道が交差する計画都市であった。幕末の北浦定政や明治の関野貞らが古文書や古地図、遺構地割などを手がかりに解明した平城京の全体の概略は、半世紀以上にわたる考古学的な調査によって確証されてきた。しかし、平城京の全体像は、遷都当初から確定していたのではなく、建設途上で大きな設計変更が行われていたのである。9月3日に開催された「下三橋遺跡」第一次発掘現地説明会の報告をしたい。

 現場は奈良県大和郡山市下三橋、大型店舗の進出に伴う事前調査として今年(2005)の2月より、大和郡山市教育委員会と元興寺文化財研究所が実施している。調査面積2ヘクタールに及ぶ大規模なもので、調査は来年もつづき、現在は半分終わった段階だという。

 現場の約500m西では、京の正門である羅城門の礎石が佐保川の底から出土している。京の南京極に当たる九条大路の想定コースのすぐ南側で、京域外とされる場所である。見学者はグループになって誘導され、4箇所の発掘サイトで説明を聞いた。コースを回るのに1km以上は歩いただろうか。

下三橋遺跡所在マップ


●羅城の柱穴、右の溝が九条大路南側溝、左の溝が羅城外溝
   ●羅城跡の発見

 XA調査区では、羅城跡が出土した。羅城は都市の周囲をめぐる城壁で、平城京のモデルとなった唐の長安にも築かれていたが、日本の都城には築かれなかったというのが通説であった。今回出土したのは掘立て柱穴であり、南北2列で柱間隔約1.5m、東西の柱間隔約2.5mの穴が合計6個見られる。西側にも穴の一部が見えているので、調査区域外にも柱穴は続いているかもしれない。柱の直径は47cm、穴の大きさは1辺が約1mの正方形である。調査途中なので、これが築地塀なのか門であったのか、また柱穴が埋まった時期も不明である。

 柱穴の北側に溝の遺構があり、幅約3.6mある。九条大路南側溝とされる。柱穴の南側にも幅約4.5mの溝が掘られており、羅城外溝とされた。二つの溝の心間距離は約16mである。溝からは土馬や土師器が見つかっていて、下層は奈良時代後半に埋まり、全体が埋まったのは10世紀前半になるという。

 羅城の明確な痕跡としては初めての発見であり、少なくとも東西1坊分各約520m(合計1km強、平城京は左右対称であることから推測できる)の羅城が建設されていたことになる。また、羅城は外溝を含むと九条大路から約18m張り出す位置に設けられたこともわかる。


●羅城外溝出土遺物、完形の土馬も出土した

    ●十条まであった(?)平城京

 羅城跡の発見は平城京研究史における画期的な発見であったが、それに勝るとも劣らない発見がXC・XD・XEの各調査区においてあった。京域外で条坊道路の跡が広範囲で見つかったのである。

 平城京の地割は、東西南北1800尺(約533m)ごとに大路と呼ばれる基幹道路が設けられた。大路に囲まれた区画は坊と称せられ、450尺(約133m)ごと、すなわち坊を4等分する形で東西南北それぞれ3本の小路がつらぬく。大路と小路、または小路と小路とで囲まれた一区画が坪である。道の左右に側溝が掘られた。

 今回、京域外で見つかったのは、南北方向の小路である東二坊坊間路(道幅8.6m)と東二坊坊間東小路(道幅7m)の延長道路と東西方向の小路である十条条間路(道幅8.6m)と十条条間北小路(道幅7〜5.2m)である。いずれも条坊道路の規格に合った設計である。道の側溝は人為的に埋められた形跡があり、出土遺物から見て奈良時代初期(730年ごろまで)に埋められたようである。

 平城京の造営を開始してまもなく京域の変更があったわけであるが、それが南北十条から九条への縮小であったかどうかは、今のところまだわからない。廃棄された条坊の南限が未確認であるし、広さは変わらぬまま全体が北へ移動したという可能性もある。したがって、十条条間路や十条条間北小路と呼ぶのは便宜的な仮称である。

 左京の九条大路から南へ約400m、3坪分は条坊制が一時施工されたことはほぼ確実となった。条坊道路が破棄されたあと、条里制が敷かれ田園となった。そのため地表面から都の形跡は消滅し、今に至るまで気づかれなかった。しかし、このあたりには「京南辺特殊条里」と呼ばれる特異な条里地割が遺存する。一度は条坊の存在した地域に施工された条里制の可能性が出てきた。

 条坊道路とともに奈良時代の掘立て小屋跡も出ているが、その規模は小さく、数も少ない。土地利用はあまり進んでいなかった。道の交差部では側溝が道を断ち割る形で通してあるが、橋を架けた形跡はない。側溝の幅が狭まっているから、跨いで通行したのだろう。都としては未開発のまま放棄されたことが、ここからも推測できる。

 平城京は、左京の東に張り出した外京や右京の北京極に突き出た北辺坊の存在など、そのプランには未解明な部分が残っている。今回の調査によって、羅城の規模と構造、当初の京域プランと変更の理由などの疑問が加わった。調査が進むほど、謎も広がり深まる。2010年は平城遷都1300年である。


●十条条間北小路、北側(右)の側溝は二つあり時期をたがえて掘られたと推測できる


東二坊坊間東小路と十条条間路の交差部、側溝が道路を横断する

現地説明会資料
● 参考 「現地説明会資料」大和郡山市教育委員会・元興寺文化財研究所 舘野和己「古代都市平城京の世界」山川出版社
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