奈良歴史漫歩 No.041   那富山墓の隼人石
      

 春日奥山を水源として奈良市街の北側を東から西へ巻くように流れる川は佐保川と呼ばれ、万葉集にも詠みこまれた名高い歌枕である。佐保川の北に広がる丘陵は、平城京の奥津城として天皇陵が集中する。元明天皇奈保山東稜、元正天皇奈保山西稜、聖武天皇佐保山南稜、聖武天皇皇后(光明子)佐保山東稜、聖武天皇皇太子那冨山(なほやま)墓が宮内庁の治定を受ける。所在は不明であるが、聖武天皇皇太夫人藤原宮子の佐保山西稜と藤原不比等の墓もこの地区にあったという

     
獣頭人身の石像

 これらの陵・墓が治定されたのは幕末から明治の初期にかけてであり、延喜式に掲載されながらも、中世には祀りも絶えて、その所在は久しく忘れられたままだった。したがって、現在の治定の場所が正しいかどうかは、他の多くの天皇陵同様に明確なことは言えない。ただその中にあっても、那冨山墓はここが当の那富山墓であるかどうかはともかくとして、墓としては比較的に元の位置を保っている可能性は高い。那冨山墓には、江戸時代から多くの国学者や山稜研究家の関心を集めてきた隼人石と呼ばれる石像があり、これらは元の位置を大きくは動いていないと思えるからだ。

 隼人石は獣頭人身像を線刻した4個の自然石で、楕円型の墳丘の四隅に下半部を埋めて立つ。墳丘は東西径11m、南北径6.7m、高さ約1.5mを計る。墳丘を長方形に囲んで石柵が設けられる。さらに周囲の兆域にはコンクリートの柵と有刺鉄線が厳重に張り巡らされているので、隼人石の線刻を肉眼で眺めることはできないが、石そのものは柵越しに確かめることはできる。

 石は奈良の東山で産出する黒色のカナンボ石(両輝石安山岩)である。宮内庁は1998(平成10)年に石の保存修復処理を実施し、その際に行った調査結果が橿原考古学研究所から刊行されている。その報告にもとづいてそれぞれの石を見ていこう。

 北西に立つ第1石は、高さ127cm、横幅50cm、厚さ32cm。線刻はもっとも残りが良くて、両手を胸前で組むのは他の像と共通しているが、杖状の持物をもつ立像である。四像いずれの顔も左の横顔を刻むが、横に寝た耳とやや丸い鼻先はネズミに似る。像の上には行書体の「北」が刻まれる。

 北東にある第2石は、高さ91cm、横幅57cm、厚さ37cm。像は両膝を付けた座像で、頭部から後方へ角のようなものが2本突き出ている。牛のように見える。

 南西にある第3石は、高さ57cm、横幅68cm、厚さ51cm。上半身像で口先が長く伸び、両耳が前方に伸びてやや鋭い目つきは、犬のようでもある。

 南東の第4石は、高さ78cm、横幅43cm、厚さ35cm。両膝つき爪先立つ座像で、両耳は斜め上に伸びる。強いて言えばウサギに似る。像の上には楷書体の「東」と刻む。


那富山墓所在地図



●那富山墓、西の柵越しに見る。中央の丸い石が第3石


●北西に立つ第1石。立像の線刻が見える。
    隼人石は十二支像

 ネズミ(子)、牛(丑)、犬(戌)、ウサギ(卯)は十二支中の動物である。第1石のネズミに「北」、第4石のウサギに「東」と印されていたことからも符合する。第2石の牛は北北東、第3石の犬は北西を指すから、本来は十二支像を刻んだ石があったのかもしれない。

 隼人石が十二支像を表すという説は、1909(明治42)年、柴田常恵によって発表された。統一新羅時代の王陵の腰石に十二支を配置する例と比較して、隼人石への影響が指摘された。これ以来、隼人石=十二支像は定説となり、中国と韓国の十二支像の変遷について精緻な分析も試みられている。

 中国では墓誌に十二支を刻む例は数多くあるが、十二支の石像を立てるケースはない。石像を配するのは統一新羅時代に限ってであり、8世紀が全盛であった。日本で十二支の石像を立てたのは、この那富山墓のみである。

 ところで、隼人石という名称は江戸時代の考証家、藤原貞幹が名づけたものである。それまでは「狐石」と呼ばれていたようだが、貞幹は「延喜式」に載る隼人が宮中に仕えて警固の時に犬吠をするという記述から、獣頭人身像に隼人を連想したようだ。魂魄となった天皇を石像の隼人が守衛していると見たのである。ただし、隼人が犬の仮面をつけたという事実はない。


●北東隅の第2石

    
 お稲荷さんにもなった隼人石

 この着想は同時代の人にまたたくまに受けいられた。しかし、ここが那富山墓とは見られていなかった。元明天皇陵もしくは元明天皇の火葬所と思われていたようだ。また、ここにはお稲荷さんの小さな社が建っていたという。石像を狐と見てのことだろう。神社は、明治12年の那富山墓治定まで存続した。

 江戸時代の記録では隼人石は3個とされている。今あるのは4個であるが、これには面白い話が伝わっている。「奈良町三条の小島屋平右衛門の宅には稲荷の小祠が祀られていて、東の字と狗が刻まれた石像が鎮座していた。家の者が語るには、旧家の土蔵を買い取りて石垣をこぼつと狗石が出てきたので、祀ったという。しかし、事情を良く知る人がいて、それによれば、先代の平右衛門が大黒が芝を開墾して桃畑にしたとき、狗石が出て家に持ち帰り、祀ったという。しかし、祟りがあって、今の平右衛門が元の場所に返した。さらに誰かが運んで、他の狗石と一緒に置かれている」

 隼人石は、明治年間に開かれた奈良博覧会にも出陳され、東大寺大仏殿の回廊に正倉院の宝物とともに並び一般の嘱目に浴している。

    
 聖武天皇の親心

 隼人石が墳丘の四隅に立てられたのは、もちろん那富山墓治定以降の整備によるが、那富山墓に石像を立てたという資料はない。したがって、ここが那富山墓という積極的な証拠もない。元明天皇陵、元正天皇陵、聖武天皇陵を治定したあとに、ここが残ったため那富山墓があてられたという消極的な理由である。

 聖武天皇皇子は、夫人藤原光明氏を母として神亀4年(728)閏9月29日に誕生した。生後わずか33日で皇太子となり、国を挙げての祝福行事がとりおこなわれたが、翌年の9月、満1歳にも満たず病没する。幼くて葬儀は出なかったが、官人と畿内の百姓と全国の郡司は3日間の喪に服し、那富山に葬られた。続日本紀は「天皇甚だ悼み惜しみたまふ」とつけ加える。名前もはっきり残らない皇子であるが、その誕生と死は政治的大事件であり、翌年2月の長屋王の変の引き金ともなった。

 隼人石の拓本を見ると共通した印象がある。カワイイということである。子供のお人形のような可愛らしさとでも言えばよいか。聖武が亡き子を慰めるために与えた玩具のように見えてきてしかたない。


●南西隅の第3石


●北西隅の第1石


●南東隅の第4石
参考 「古代大和の石像物」橿原考古学研究所 「那富山墓の隼人石」福山敏男 「中国・朝鮮・日本における十二支像の変遷について」西嶋定生 「新羅の墓制とそのわが国への影響」斉藤忠 「続日本紀巻2」岩波書店 他
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