奈良歴史漫歩 No.042   長岡宮の楼閣
          
 延暦3年(784)、桓武天皇は平城京から山背国乙訓郡の長岡へ京を移す。皇統は天武系から天智系へ、父、光仁の即位がその序曲であるなら、桓武の即位はその本題の開始である。長岡京遷都は一見唐突に見えながらも実は周到な計画・準備の上で行われたのであった。桓武によって革命とも意識された皇統の転換は、天武系6代5人の天皇が続いた平城京を捨て、新天地に京を求めることを必須とした。

    
回廊の先端に楼閣の遺構
 
 長岡宮の大極殿・朝堂院は副都・後期難波宮の宮殿を淀川の水運を利用して移築された。八堂朝堂は後期難波宮と規模を同じくして、出土瓦も共通する。10年間しか存続しなかった宮であるが、途中で内裏が大極殿院から切り離される形で東側に移っている。これは平安京の内裏の位置と同じであり、その先取りとして注目されている。大極殿に天皇が出御して行う朝政から内裏=紫宸殿に臣下を呼ぶ桓武の政治スタイルの転換が、長岡宮の構造にすでに現われている。

 さらに平安京の先取りと見られる遺構が、最近の調査で出現した。朝堂院南面回廊の楼閣である。平成17年10月30日に実施された現地説明会をリポートしたい。

 平成17年3月の調査で、朝堂院南面回廊は門の両側にのみ回廊がとりつく翼廊形式であることがわかった。今回の調査は、翼廊西端の南側の地区が対象である。その結果、南面回廊は西端で南に折れ曲がり前面に楼閣と推測される建物が付設されることが判明した。

 新たに見つかった回廊は礎石据付穴が3個検出された。柱間隔は東西2.4m、南北3.3m。回廊基壇の地伏石据付溝が西側で、また地伏石抜取跡が東西両側で見つかっており、これらのデータにより梁行き2間の回廊が約20m南へ伸びていたことになる。

 楼閣と見られる建物は、礎石跡が8個確認され、根石が残っていた。柱間隔は東西、南北ともに2.4m〜3.0mである。柱筋ごとに柱がくる総柱建物であることから、重層の楼閣と推定された。回廊東側の地伏石抜取穴が連続して建物を囲むように残る。東西・南北ともに5間、約15m四方となるが、北端の2間は東西3間の逆T字型の建物に復元された。ただ、回廊と建物の柱筋がそろっていないことがやや気になった。

 回廊と建物の周囲には後期難波宮の瓦がびっしり堆積していた。

長岡宮跡所在地図


朝堂院南面回廊西端から南へ伸びる回廊の跡、緑のテープが回廊基壇東側推定外郭ライン、黄のテープが地伏石据付ライン


白いパネルをさした箇所が楼閣の柱跡。左のテープが建物基壇の推定外郭ライン、その左に見えるのが瓦のたい積
    平安宮を先取りするスタイル

 平安宮の古指図には、朝集殿院南門の応天門の翼廊両端から回廊が折れ曲がり、その先に楼閣がとりつく。東は栖鳳楼(せいほうろう)、西は翔鸞楼(しょうらんろう)と呼ばれる。長岡宮には朝集殿院がなく、朝堂院南門が宮中枢施設の最南端にあたるが、今回判明した遺構は、平安宮応天門の構造と非常によく似る。楼閣建物は翔鸞楼に相当することになる。

 平安宮の大極殿には閤門(こうもん)がなく、龍尾壇の上から十二堂朝堂を直接に見下ろす建物配置となる。龍尾壇の両脇には蒼竜楼と白虎楼がそびえ、朝堂院を囲む回廊がとりつく。大極殿と両脇の楼閣を回廊で結ぶような形式は、唐の長安城大明宮の含元殿の模倣だろうか。

 楼閣を伴う門は中国では闕(けつ)と呼ばれ、「皇帝の権威と人への恩徳を示す象徴」と考えられたらしい。闕は平城宮第一次大極殿院の閤門にも採用された。閤門の東西から巨大な柱根が出土していて、そのスケールも想像できる楼閣である。天皇が閤門に出御して歌舞をご覧になった記録もある。

 平安宮応天門の楼閣と瓜二つの長岡宮朝堂院南門の楼閣。両手を突き出したような回廊の先端に楼閣がそびえるスタイルは、長岡宮をもって嚆矢とする。宮の正面であるから否が応にも目だったことだろう。時代に区切りをつけた桓武天皇のこだわりがこんなところにも汲み取れそうだ。



平安京朝堂院、手前の門が応天門、両脇の楼閣が栖鳳楼(右)と翔鸞楼

参考 「長岡宮跡第443〜445次調査現地説明会資料」向日市埋蔵文化財センター 「長岡京研究序説」山中章 他
奈良歴史漫歩トップマガジン奈良歴史漫歩登録・解除テーマ別・時代別・地域別索引ブックハウス・トップ
Copyright(c) ブックハウス 2005 Tel/Fax 0742-45-2046