奈良歴史漫歩 No.047     若草山山焼きの起源
            
 奈良の正月を彩る若草山山焼きは、毎年10万人以上の見物人を呼び寄せる一大観光行事である。地元の私は毎年山焼きの火を遠望するのが習わしであるが、天気に左右されていつも見事に焼けるとは限らない。今年も午前中のにわか雪で湿って、燃え方に勢いがなかったようだ。

    
●鎌倉時代にさかのぼる境界争い

 山焼きの起源は通説では、宝暦10年(1760)、東大寺と興福寺の境界争いを奈良奉行所が調停して、若草山を5万日の預かりにしたことだと言われる。

 しかし、山焼きはそれより前から記録にでてくる。奈良の町医者、村井古道が元文5年(1740)に著した『南都年中行事』には「この山を焼かざる時は牛鬼という妖怪出るという。これより正月丑の日に放火すといえど、近年元旦より三日をへず是を放火す。往古より誰人その事を掌るということもなし。毎春行人など放火すと見えたり。云々」と見える。

 山頂(標高341m)には五世紀の前方後円墳がある。鶯塚とも呼ばれ、全長103m、前方部幅50m、後円部径61mを測る。堀池春峰氏は、古墳はかつて「ウシ墓」と呼ばれ気味悪がられていたことで、「牛鬼」の妖怪譚になったとされる。

 山焼きが文献に最初に表れるのは、『南都年代記』の建長7年(1255)2月12日の条である。「二月十二日東南院入唐僧正房山上房舎為當寺衆徒寺内徒堂令破却 黒葛尾焼く時東大寺公人依令刃傷當寺公人」。若草山は「葛山」「葛尾山」または「九十九山」と表記され、どれも「つづらやま」と呼ぶ。東大寺東南院の僧が葛山山上にお堂を建てたので、興福寺の衆徒がこれを破却した。さらに山を焼くときに両寺の公人たちが衝突して刃傷沙汰に及んだ。

 葛山は、『東大寺山界四支図』にも描かれているように東大寺の境内に含まれる。この絵図では樹木はまだ茂っている。しかし、興福寺がこの地域にも進出を図るようになり、紛争が繰り返された。『南都年代記』の記事がまさにこの事情を伝える。両寺の土地の帰属をめぐる争いが実力行使に及んで、山にもたびたび火が放たれたのだろう。

 山麓の野上神社の囲い柵の外に、花崗岩に線刻された地蔵菩薩像が立つ。それには「天文十九年(1550)六月好渕敬白 南無春日大明神」と刻まれる。明治35年山頂の鶯塚から掘り出されて現在地に安置されたのであるが、戦国時代に興福寺の僧が神仏習合の地蔵菩薩像を山頂に建立したことがわかる。この像は何者かによって谷に落とされたという証言も文献に残るから、東大寺も負けてはいないのである。



水谷神社近くの空き地で僧兵が持つ松明に神火が移される。







山麓の大かがり火と山肌を燃え上る炎
    ●寺社空白地帯の若草山

 葛山が禿げ山になったのは何時からかははっきりしないが、「若草山」「嫩草山」という呼び名が加わったときには、すでに禿げ山であっただろう。天和2年(1682)の『大和名所記』には「若草山」の項目がある。

 芝山になったきっかけを「山麓の焼畑の野火が延焼して山火事になり、それ以来春先の野焼きが恒例化した」とする説がある。しかし、南となりに春日社の御神体とでもいうべき御蓋山、北となりに東大寺の伽藍がひろがる、このような場所で百姓が勝手に野焼きできるとは思えない。

 やはり、きっかけは東大寺と興福寺の争いに伴う山火事と見る方が説得的ではないか。山麓の西側、奈良県新公会堂の建つあたりはかつては野田という地名で、春日社の神官が住居し、興福寺の子院もあったという。興福寺は東側の山も取り込みたかったのだろうが、東大寺も必死に抵抗しただろう。

 山麓を歩くと、春日大社は水谷神社を北限、東大寺は手向山八幡宮を南限として、この間の若草山麓が完全な寺社空白地帯になっていることがわかる。わずかに南側の麓に春日大社末社の野上社・石荒社が存在するが、それ以外の芝草のひろがるエリアはまったく寺社に関わる物は見受けられない。このこと自体、ある意味で不自然であり、人為的な配慮が働いているとしか思えない。両寺の必死の綱引きが、このような緩衝ゾーンを生み出したのだろう。

山裾の野上神社の社と石荒神社の磐座
   ●「若草山放火」の規制

 両寺の勢力争いによる芝山化は思いがけない副産物を奈良の住民にもたらした。ワラビ、ゼンマイが群生し、緑肥や飼料になる草が繁茂するようになったのだ。冬に野焼きすれば若菜はよく育つから、秘かに山に火が放たれ、それが繰り返されて、芝山化は進行していったのではないか。

 『南都年中行事』は、「毎年焼かなければ牛鬼が出るから、正月のうちに誰ともなく火を放った。旅人の仕業だろうか」という趣旨であったが、おもてだって野焼きを公言できない当事者の韜晦であろう。

 しかし、勝手に山焼きされたのでは、伽藍に延焼するおそれがある。宝永6年(1709)に大仏殿を復興した東大寺は、元文3年(1738)、奈良奉行所に「放火の停止」を要請している。制札を立てる、監視人を置く、イザという時は近村から火消し人を動員するといった対策がたてられた。しかし放火はやまず、危険な事態にいたることも幾たびかあった。

 有効な対策がとれなかったのは、東大寺と興福寺の境界争いが再燃したからでもあるが、宝暦10年に至ってようやく一応の解決を見た。一連の経過の中で、両寺と奉行所の三者立ち会いのもとでの山焼きが慣例化していったようだ。

山焼き翌日の平城宮跡から遠望する若草山
    ●夜間開催による観光行事へ

 明治になると若草山は公園化され、県の所有地になり、ここに初めて両寺の紛争から解放される。若草山は奈良のランドマークとなり、観光客が集い憩う場所になった。明治33年(1900)2月17日、初めて山焼きが夜間に開催された。観光イベントとしての山焼きはこの年をもって嚆矢とする。

 山焼きは2月11日(紀元節の日)に行うのが恒例になっていたが、昭和25年(1950)から成人の日の1月15日に変更された。当日の山麓でのアトラクション、点火直前の打ちあげ花火などの演出も戦後に始まる。平成12年(2000)から成人の日が第2月曜日に移行したので、山焼きもその前日の日曜日に行われている。

 点火は午後6時であるが、その前に春日大社の神職、興福寺、東大寺の僧によって神事が挙行される。まず神職の手で運ばれた神火が水谷社近くの空き地でかがり火に点され、松明に移される。その松明を掲げる僧兵を先頭に、一行は野上神社へ向かう。無事を祈る神事が済むと、背丈を超える大松明にさらに火が移されて山麓の大かがり火へと運ばれ点火される。合図の花火が一発上がりラッパが鳴り響くと、全山に待機する奈良市消防団員300人がいっせいに枯れ薄に火を放つ。

 炎は30分から1時間かけて全山を覆い尽くす。しかし、新聞に載るカラー写真のようなスペクタルを期待すると失望するだろう。山が炎に包まれた写真は全プロセスの記録であり、実際に見る山焼きは点か線状に燃え移る炎である。しかも枯草が燃える時の炎は意外と暗い。街灯の光にも負けるだろう。山焼きはそれ自体決して華やかなものではない。神秘にして静かな高揚感が、はるかにうごめく炎によって呼び覚まされる、1年に1度のかけがえのない機会である。

若草山所在地マップ
若草山航空写真
●参考 堀池春峰「山焼き余話」 大東延和「若草山の山焼き」 奈良県『奈良公園史』 『南都年代記』 他
ホーム 総目次 主題別索引 時代別索引 地域別索引 マガジン登録
リンク メール 製本工房 和本工房 つばいちの椿山
Copyright(c) ブックハウス 2006 Tel/Fax 0742-45-2046