奈良歴史漫歩 No.051     平城京羅城と十条大路     橋川紀夫 

 奈良県大和郡山市の下三橋遺跡で見つかった平城京羅城や九条大路の南に伸張する条坊遺構については、『奈良歴史漫歩No.40』でレポートした。発掘調査はその後も継続し、本年(2006)3月12日に第2回の現地説明会が開かれ、さらに新たな事実が明らかになった。

    ●東西1km、掘建柱塀の羅城

 大きな調査成果は、羅城の構造と規模が解明されたことだ。

 羅城と見られる2列の柱穴は、九条大路の南側に東西に伸びて、東一坊大路東側溝の手前で終わっていた。柱穴約1m、柱径約30cm、南北柱間1.8m、東西柱間2.7m。土を積み固めた痕跡はなく、掘建柱塀であった。

 羅城の南北には素堀の東西溝が掘られていて、北側の羅城内濠は幅3.6m、南側の羅城外濠は幅4.5mある。二つの濠の心々間距離は16mである。内濠、外濠も柱列が終わる手前20mで途切れていた。

 瓦も出土していて、奈良時代中期の羅城門の瓦と同じ特徴を示すという。

 東一坊大路西側溝の跡も確認されたが、羅城は埋没した西側溝の上に構築されていた。前回の調査で、九条大路南に広がる条坊遺構は天平初年(730年頃)に埋め戻されたと推定されているので、羅城はそれ以降の建設となる。


羅城柱穴の列。東1坊大路で穴列は終わる。一番奥の溝が東側溝。手前に西側溝跡が出土、羅城は埋もれた西側溝の上に築かれていた。内濠、外濠は写真の手前で行き止りになる。

 東一坊大路東側溝跡からは延暦年間の土器が出土しているので、東側溝は周辺の遺構が壊された後も奈良時代を通して機能していたらしい。

 柱の太さなどから、羅城の高さは3〜4mと見られている。2列の柱で塀の屋根瓦を支えていたことになる。柱に張り付けた板は内外2重であったのだろうか。それとも外側のみに張り付けたのだろうか。

 羅城門跡左右の地割遺構が南に張り出していることから、門の左右に羅城が設けられていたとかねて推測されていた。しかし、その規模は一坪分(133m)ぐらいで、平城宮にめぐらされた築地塀のようなものであると想定された。

 今回の調査により、羅城が一坊分、約520m、門の東西には約1kmあったこと、しかも掘建柱塀であったことが判明した。京の正面という重要な場所に築地塀ではなく、格式が落ちる掘建柱塀を構えたのである。唐長安城を真似て羅城を作ったのではあるが、手抜きの観は否めない。しかし、門に取りつく羅城は築地にして、途中から掘建柱塀にした可能性もある。

    ●京南特殊条里と十条大路、さらに十一条大路の予感

 前回の調査では、十条条間路が検出され、今回はさらに南に一坪隔たる十条条間南小路が確認された。東二坊条間路・東二坊東西小路が南小路と交差してさらに南へ延びているので、十条大路の存在も確実となった。

 今回の調査区も前回と同じように、小規模な掘建柱建物跡がまばらにあるぐらいで、京として利用された痕跡は低かった。側溝の埋め戻しも短期間に一挙に行われたことに変わりなかった。

 東二坊条間路の路面からは、人や動物が往来した痕跡である「波板状凹凸」が検出されたが、埋まった側溝の上にも広がっていたことから、条坊プラン廃棄後も、道路として利用されていたようだ。

東二坊条間路と十条南小路の交差点。路面には、人や動物が往来した痕跡である波板状凹凸があった。

 また、埋めた側溝を再度掘削して水溜に使用し、畑作を行っていた痕跡も見つかった。これらの事実から、条坊プラン廃棄後、条里型の水田に改変されるまではしばらくの期間があったようである。

 左京南京極を起点に南へ約460m幅の地域は、京南特殊条里と言われる水田地割りが敷かれる。奈良盆地一帯に敷かれた大和統一条里は1辺の条里区画(坪または町)が平均109mであるのに対し、106mであり、また坪の名称の付け方も異なっている。

 十条条間南小路から南へ約60m離れた位置に京南特殊条里と大和統一条里の境がくる。さらにその境から南へ約70m行くと、想定の十条大路となる。十条大路と特殊条里の5番目の坪の境は理論的にピタリと重なる。ここから、放棄された1坊(533m)を5等分(坪1辺106m)する形で京南特殊条里が施工されたという仮説も浮かぶ。だが、当初の特殊条里は坪の番号から判断して南北に6坪並んでいた。すなわち、想定の十条大路をさらに南へ越えて特殊条里が広がっていたことになる。このため、京域は十条を越えて十一条が存在した可能性にも及ぶのである。

 当初南北に6坪並んだ特殊条里は、後になって南端1坪半の地域が統一条里に組み込まれてしまう。これによって、京南路東条里1条は南北に6坪完備することになり、平城京の東に広がる京東条里とも1本のラインによって接続することになる。

 大和統一条里の施工年代については複数の説があるが、井上和人氏によれば、7世紀末から平城京遷都までの時期となる。この説が正しければ、統一条里で地割りされたこの地域は、平城遷都によっていったん碁盤目の条坊となるが、すぐに放棄される。しばらくして1辺106mの特殊条里で水田化されるが、南端は元の統一条里に戻されるという推移が描けるだろう。

 特殊条里が見いだされるのは左京南京極外だけであり、右京の南京極外は統一条里の京南路西条里が広がっている。左右対称を基本原則とした古代都市プランは、左右の南京極を揃えて造営されていたはずだ。現在のところ、右京の南京極外には条坊遺構は見つかっていないが、造営工事が行われていた可能性は高い。しかし、そのプランが変更になった後の土地利用のあり方は、左京と右京とではかなり異なっていたことは確かだろう。
 

道路交差点の側溝からは祭祀遺物が多量に出土した。写真はミニチュア携帯かまどセット、こしきとなべが付く。。


下三橋遺跡所在地マップ

現地説明会資料より転載
●参考 大和郡山教育委員会「下三橋遺跡第2回現地説明会資料」 井上和人「平城京羅城門再考」「条里制地割施工年代考」
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