奈良歴史漫歩 No.068    本薬師寺の心礎       橋川紀夫


   同一伽藍配置のふたつの寺       


 夏から秋にかけて橿原市城殿町にある元薬師寺跡は、ホテイアオイの青い花が一面に咲き溢れる。強い日差しを浴びて生命力を謳歌する草花は、礎石のみを残して消え去った寺を荘厳するにふさわしい装置かもしれない。休耕田を利用した田んぼの所有者と橿原市の観光PRをかねた試みであるが、廃墟のロマンを誘う景観となった。

 藤原京の薬師寺は平城遷都とともに寺も移されたが、元の寺も法統を伝えて本薬師寺と呼ばれるようになった。薬師寺の創建については、『日本書紀』の天武9年(680)に天武天皇が皇后菟野讃良の病気平癒を誓って興したことが明記される。天皇在世時には完成せず、持統2年(688)の無遮大会が薬師寺で設けられたとあることから、この頃には金堂ができていたと推測できる。全体が完成したのは、『続日本記』に「薬師寺の構作ほぼおわる。詔して衆僧を寺に住まわしむ」とある文武2年(698)であったと思われる。平城遷都以後の本薬師寺の動向については、『薬師寺縁起』や平安時代の文書にわずかに窺えるぐらいで、詳しい記録は残っていない。

 奈良市西ノ京町にある平城薬師寺は創建の東塔や金銅薬師三尊像も残り、壮麗な伽藍をしのぶことができる。近年は伽藍中枢部の復興を成し遂げて、寺はこれを「白鳳伽藍」の名で呼ぶ。平城京薬師寺の完成は天平に入ってのこととされるので、「天平伽藍」がふさわしいと思われるのだが、こう呼ぶのは白鳳期の本薬師寺の伽藍がそっくり再現されたという考えがあるからだ。

 このように考えられるのも、回廊内に金堂と東西塔を左右対称に配置する伽藍設計(薬師寺式伽藍配置)が、本薬師寺から平城薬師寺に引き継がれたからである。本薬師寺跡の礎石から計測できる金堂と東西塔の規模や位置が、平城薬師寺の金堂と東西塔のそれと同じであり、伽藍配置ばかりでなく建物規模も同一なのである。


   考古学的調査から見た「薬師寺論争」

 明治期以降かわされた「薬師寺論争」も、この事実が出発点となる。薬師寺論争のテーマは大きくはふたつある。建物の移建と仏像の移座であるが、端的に言えば、平城薬師寺の東塔は本薬師寺から移建されたのか新造か、薬師三尊像は移座されたのか新鋳かという問題だ。大方の意見が一致するように、東塔は日本一美しい仏塔であり、薬師三尊像は金銅仏の最高峰である。二つの制作時期がいつであるかは、建築史と日本美術史の大問題となり、真剣な議論がかわされた。

 長和4年(1015)の『薬師寺縁起』は、薬師三尊像を本薬師寺から7日かけて移したという古老の伝えを載せる。しかしながら白鳳期の仏像と比較すると、様式的に完成した本像は時代の下った奈良時代初期の製作であるという説が優勢である。

 建物の移建については、考古学的な調査が進むにつれ多くのことが明らかになった。花谷浩氏の「本薬師寺の発掘調査」から紹介していこう。

 本薬師寺の中門は3間1戸であり、回廊は単廊であった。平城薬師寺の中門は5間3戸、回廊は複廊であり、より壮麗な造りになっている。同じと見られていた建物構成に違いがあった。当然ながら中門と回廊に関しては移建は否定される。

 建物の移建があったかどうか決め手となるのは、出土する創建瓦の異同である。建物が移れば葺いていた瓦も同時に移るはずであるから、瓦を見れば判断できるというわけだ。

 ふたつの薬師寺の発掘調査でおびただしい瓦が出土した。その結果、ふたつの寺の創建瓦に相違が認められたのである。平城薬師寺の瓦は複弁蓮華紋の軒丸瓦と右編行唐草紋の軒平瓦であるが、本薬師寺金堂の軒丸瓦は単弁蓮華門、軒平瓦は変形忍冬唐草紋であった。

 本薬師寺の東塔と中門・回廊では、軒丸瓦は平城薬師寺のそれと同笵であったが、軒平瓦は別笵である。これらの事実から本薬師寺の金堂・東塔・中門・回廊は移建されず、また奈良時代の瓦も少量出土することから、後世にも補修されながら存続したことが明らかである。


   本薬師寺西塔跡出土瓦の謎


 ところが本薬師寺西塔は様相を異にする。出土した瓦に新旧ふたつのセットがあり、数量も拮抗する。ひとつは東塔と同じ古いセットである。もう一つは奈良時代の新しい瓦で平城薬師寺の創建瓦や平城宮馬寮跡から出土した瓦をふくむ。

 本薬師寺の東塔心礎は3孔式で、同心円状に柱座の穴の中央に舎利孔とその蓋受孔があく。ところが西塔心礎は出ほぞ式であり、心柱の底面の穴を出ほぞにセットして柱を固定する。このタイプの塔は舎利がなかった。平城薬師寺は西塔心礎が3孔式、東塔心礎が出ほぞ式であり、本薬師寺とは東西逆になる。

 この事実を受けて石田茂作氏が、本薬師寺の西塔を平城薬師寺に移建し新たに西塔を建立したという説を唱えたのは、半世紀以上も前のことである。3孔式心礎が白鳳期の寺院に多いのに対して出ほぞ式は奈良時代以降流行したという年代観に基づく。

 西塔跡から出土した奈良時代の多量の瓦は、西塔移建説の有力な援護になりそうだ。だが花谷氏は西塔移建説を否定する。平城薬師寺西塔跡から出土した瓦のほとんどが奈良時代のものであったこと、本薬師寺西塔跡の足場穴が1時期しかないこと、再建にしては残った白鳳期の瓦が多すぎることなどの理由からである。

 西塔移建説への反証は花谷氏があげた例の他にもある。うりふたつの3孔式心礎であるが、平城薬師寺の心礎には排水溝が刻まれているのに対し本薬師寺の心礎にはない。ほぼ同時に建立された塔の心礎のこの相違は微妙にして重要だ。


   本薬師寺西塔奈良時代建立説


 花谷氏は調査結果を解釈して、西塔奈良時代建立説を提唱する。残っていた白鳳期の古い瓦に奈良時代の新しい瓦を混ぜて塔を完成させたというものである。この説を擁護するために、山田寺と大官大寺の事例が挙げられる。山田寺では塔が完成するまでに30年以上の歳月を要し、伽藍跡からは新旧ふたつの瓦群が出てきた。大官大寺はまず伽藍南東に巨大な塔を建立したあと南西にも塔を建てる予定であったと推測できるが、これと同じように本薬師寺も東西塔の建設時期がずれた可能性があるという。

 西塔奈良時代建立説を擁護する事例はいずれも特殊なケースである。山田寺は蘇我倉山田氏の氏寺であり、政治的事件に巻き込まれて工事の遅滞を余儀なくされたのが実情である。大官大寺の塔は9重で高さは100m近いという。完成間近にして炎上してしまったが、このような巨塔がふたつ同時に建立されなかったことを他のケースの例証にできるとは思えない。

 先に記したように、『続日本記』の文武2年(698)に「薬師寺の構作ほぼおわる。詔して衆僧を寺に住まわしむ」とあるが、伽藍中枢の塔が未完成の状態でこのように記すのには無理があるのではないか。ましてや薬師寺は本願が天武天皇と持統天皇である。建設は急がれることはあっても、それを妨げる政治的な障害があったとは思えない。堂塔は華美を極めて手間はかかっただろうが、規模の上で問題があったわけではない。こういうわけで西塔奈良時代建立説は疑問である。


   本薬師寺西塔舎利・心礎移動説


 西塔移建説も西塔奈良時代建立説も難点がある。以上述べてきた条件を満たす解釈として、西塔舎利・心礎移動説を新たに提案したい。奈良時代になって本薬師寺西塔を解体して舎利を心礎ごと取り出し平城薬師寺西塔に据えたあと、新しい心礎をもって本薬師寺西塔を再び組み立てたというものだ。移したのは舎利と心礎だけであるが、解体の際に瓦が多量に壊れたために奈良時代の瓦で補修した。西塔跡から新旧ふたつの瓦群が半々に出るのもそのためである。

 平城薬師寺の塔には、釈迦在世時の重要な出来事を示す「釈迦八相」の塑像が安置されていたことが『薬師寺縁起』に記録されている。東塔には釈迦前半生を表す因相、西塔には釈迦後半生を表す果相とわかれていたが、果相は釈迦の遺骨を分ける「分舎利」を含む。このため舎利は西塔にのみ納められた。

 移すことになった3孔式心礎はそのとき手を加えて排水溝を刻んだ。新調の心礎は舎利をもはや収納する必要はなく、奈良時代になって登場した出ほぞ式が採用された。

 1時期の足場跡しか検出できなかったことは次のように考えられる。西塔基壇も発掘調査されたが、基壇版築土の下半と上半3分の1はよく締まっていたが、その上はかなり軟弱であった。これは心礎を移すときに基壇の表面が掘り返されたからではないだろうか。ふたたび版築で固めるという手間が省かれたのだろう。このとき創建時と解体時の足場跡も消えてしまい、再建する時の足場跡のみ残った。

 平城遷都とともに明日香から平城京へ移った寺は、いずれも寺名も寺観も変えている。例外は薬師寺で新旧の連続性にこだわっているように見える。伽藍配置をほぼ同一にしたり、平城薬師寺東塔の擦管に本薬師寺の草創縁起を刻印するということにそれは現れる。天武天皇と持統天皇を顕彰するシンボルであったからだろうか。

 西塔の舎利が移されたとするなら、その理由はまず舎利が簡単に入手できるものではなかったということだろう。さらに薬師寺特別の事情として、寺のシンボルである舎利を移すことによって新旧ふたつの薬師寺の連続性=一体性を強めるという意志が働いたのではないだろうか。


   本薬師寺の舎利

 本薬師寺は平安時代も存続した。万寿2年(1025)11月に源経頼は本薬師寺に宿泊したことを『左経記』に記す。しかし『中右記』の永長元年(1096)9月の記事に、本薬師寺から掘り出された仏舎利を礼拝するため都の貴紳がそろって下向したことが載る。舎利は前年の10月に「発見」され薬師寺に運ばれていたから、この頃には本薬師寺は廃絶していたようだ。

 保延6年(1140)にこの舎利を拝した大江親通は、『七大寺巡礼私記』でその様子を詳しく書きとどめた。薬師寺金堂内の北西隅に高さ3尺ほどの金銅五重塔があった。その中に金銅の六角台と金銅壺が置かれ、壺の中にさらに白瑠璃壺があり、仏舎利3粒が納められていた。舎利は小豆ほどの大きさでみんな白かった。

 今、この舎利も西塔の舎利も行方はわからない。戦国の戦乱で焼失して以来453年目の昭和56年(1981)、平山郁夫画伯が秘蔵した仏舎利を新たに納めて平城薬師寺の西塔は再建され、東塔の沈黙の美とは対照的に饒舌な輝きを大和の空へ放つ。
 (2008/10/15記)
 本薬師寺跡所在地
●参考 花谷浩「本薬師寺の発掘調査」1997(『仏教芸術』235号 毎日新聞社) 石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」1948(『伽藍論攷』養徳社) 大橋一章『薬師寺』1986 保育社
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