原日本人って、何? |
||||||
かつてこの島国を支配し、海を渡ってきた大和民族に滅ぼされた人々、原日本人。でも、史実に照らし合わせてみるとはたしてどうなるでしょう? |
||||||
皇帝の最初は始皇帝 |
||||||
「皇帝」と言う単語、実は秦の始皇帝が作らせた言葉なのです。紀元前二二一年、天下統一を果たした始皇帝が、自分の偉大さにふさわしい新しい称号を求め、生み出したのがこの皇帝という単語でした。その一番目の皇帝だから、「始」皇帝、と言う訳なのです。つまり紀元前二二一年より前には、皇帝という単語はありません。これから考えると原日本人の信奉する神が「闇の皇帝」と名付けられたのも、当然紀元前二二一年以後のこととなります。「闇の皇帝」の名は、始皇帝のカリスマ性や力の凄さにあやかったネーミングと考えられます(ちなみに闇の皇帝の名に始皇帝の方があやかった、というのは考えられません。始皇帝の性格は、新しもの好きでお古には我慢できないのです)。 |
||||||
原日本人が「くぐつ埴輪」とはこれいかに? |
||||||
荒神谷弥生が、復活した「闇の皇帝」の威力を麗夢と円光に見せつけるために呼び出した埴輪型兵士「くぐつ埴輪」。でも埴輪は古墳時代になってから生まれた物で、人型の物は5世紀になってようやく登場します。原日本人と埴輪にはどうも接点が見えてこないのです。 |
||||||
原日本人が日本全土を支配した事はない? |
||||||
原日本人がこの日本列島の正当な主人、と言う彼女達の主張ですが、ある特定の権力集団が日本全土を実行支配したのは、多分源頼朝の武家政権が最初でしょう。例えば大化改新(645年)の時、勝利した権力者達は東国に事の顛末を伝える使者を出しています。つまりこの時、関東地方以北は中央政権にとって「外国」だったのです。その後、坂上田村麻呂や源義家が東北を鎮定しますが、すぐに反乱を繰り返し、結局頼朝が奥州藤原氏を滅ぼさして東北を手中に収めるまでここは「まつろわぬ民」の天下だったのです。従って、それよりもはるか以前の原日本人が、日本全土をその支配下に治めていたとは到底考えられないのです。 |
||||||
原日本人の虐殺はなかった? |
||||||
原日本人が大和民族に虐殺されて滅ぼされた、と言う歴史。これまで日本ではたくさんの遺跡が発掘されていますが、お墓に人骨と折れた剣が入っていたり、首のない人骨だったり、鏃が多数出てきたりというようないわゆる「戦争」を想定させるような物は、弥生時代の遺跡からしか出てこないんだそうです。武器その物も、縄文文化の物と比べ、弥生文化のは重さも鋭さも段違いで、殺傷力が格段に増しています。集落の周囲をガードする環濠(かんごう。つまり堀や土塁)が生まれたのも弥生時代。かつてアメリカインディアンが虐殺されつつも果敢に白人に抵抗した歴史を見ても判るように、虐殺される側が無抵抗にその非道に甘んじる、と言うことはまずあり得ません。そこには必ず争いが生じ、戦いがあるものです。でも、縄文人が弥生人に抵抗し、戦ったことを示唆するような遺物はこれまで何も出ていません。 |
||||||
現日本人は、原日本人や大和民族、その他大勢の混血児 |
||||||
現日本人は、原日本人を滅ぼした大和民族の末裔、と語れるほど、単純で均質な民族ではありません。最近の遺伝子研究などで日本人がヨーロッパの白人達よりも遺伝的にはるかに雑多な集団だと言うことが判明し、縄文人や弥生人その他の遺伝子を受け継いでいるそうです。また、縄文人についても、貝塚に埋まっていた人骨から抽出されたDNAを元にした研究などから、幾つかのタイプに分けられる多様性を持つことが判っています。どうやら現日本人は、大陸の南北あちこちから次々と訪れた人々が複雑に交わって生まれた混血児らしいのです。そう。原日本人は大和民族に滅ぼされたのではなく、たくさんの渡来人達に呑み込まれてしまったのです。 |
||||||
じゃあ一体彼女達の「記憶」は? |
||||||
|
||||||
|
|
|||||