智盛は幾つで麗夢と出会ったのでしょう?

 
 もとより架空の人物の年齢などとってつけようと思えばいくらでも設定できるのですが、智盛の場合、前提条件を考慮すると、結構絞ることが出来そうです。
 前提条件とは、もちろん智盛が清盛の末子である、と言うことです。
 実際の清盛には長男重盛以下男子7人、女子8人、計15人の子宝に恵まれました。従って、前提条件に従えば智盛は16番目の子供、八男坊と言うことになります。ただ、この時代は、天皇の后になるなどの余程のことがなければ、生年月日はおろか、名前すら伝わらないのが女子の扱いでした。清盛の娘で名が知れているのは高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んだ建礼門院徳子と、五摂家の一、近衛家を興した藤原基実の正室となった盛子の二人だけです。それ以外はあまりに情報が乏しいので、ここでは男子だけを対象に、智盛の年齢を推測してみようと思います。
 さて、長男重盛は清盛20才(満年齢)の、西暦1138年に誕生、以下、次男基盛1139年、三男宗盛1147年、四男知盛1152年、五男重衡(しげひら)は1157年生まれ、建礼門院徳子は知盛と重衡の間で、一説に1156年とも言われています。しかし、六男知度(とものり)、七男清房は残念ながらいつ生まれたのか、判りません。
 生まれた年は判りませんが、この二人がどんな歴史を歩んだかは、少しだけ記録が残っています。
 知度は1179年に尾張守となり、1180年の富士川合戦に副将として参加しています。重衡が満6才で尾張守に就いた前例はありますが、いくら何でも元服前の幼児を将軍に据えて出征させる事はなかったでしょう。ここで参考事例を探してみますと、一ノ谷の合戦で重盛の末子、備中守師盛が数え14才で戦死していると言うのがあります。満年齢なら13才です。清盛の元服は数え12才ですから、大体その辺りに大人と子供の分かれ目があったといえそうです。そこで知度も初陣は13才、つまり1167年生まれと取りあえず推測します。その弟清房は1179年淡路守就任、1181年の第1次北陸遠征軍に参加しています。そこで、一応知度の年子で1168年生まれとしておきましょう。ではその弟になる智盛は、更に年子として1169年生まれ。麗夢と出会った年は1180年と判っていますから、あの時馬上麗夢と睦みあっていた智盛は、なんと
11才??・・・。これはちょっと前提を考え直さないといけませんね。

 この問題は、正室の子と側室の子の差ということを考えれば解けるかも知れません。二人がそれぞれ国守に任官した1179年という年を振り返りますと、実は大変な年だったことが判ります。長男重盛の死でたががはずれた清盛が、ついに後白河法皇を幽閉、関白、太政大臣以下朝廷の主立った43人の貴族を更迭、追放した年なのです。つまり官職に大量の空席が生じた年で、それを清盛は自分の息がかかった人物で埋めていきました。知度、清房の二人については、側室の子として冷遇され、結構年も食ったのにこれまでろくに官職にも就けなかった。それがこの清盛暴走のおかげで、ようやく国守の地位にありついた、ということにしてはどうでしょうか? これなら年齢をもう少し高く見積もれるでしょう。
 それでも、重衡誕生の翌年、1158年に清盛は太宰府へ出向し、翌59年は平治の乱の勃発で戦争に明け暮れ、どちらも子作りどころではなかったことでしょう。清盛の身辺が落ち着いたのは1160年。平治の乱平定を賞されてついに念願の公卿、正三位参議の地位に就き、その後の異例の出世の第一歩を踏みだした年のことです。側室を迎え、次の子供達を生んだのはこの辺りが妥当なのではないでしょうか。つまり、知度は1160年生まれ、清房は年子として61年、そして肝心要の智盛は、更にもう一年遅れとして1162年生まれ。即ち麗夢と出会った時は満18才の時だった、というのが、かっこうの一番目の推測です。

 では次は2番目の推測。
 前提条件は先の末子に加え、智盛の「智」の字が特別の意味を持っていること、更に智盛が草薙の剣を持っていたことを考慮します。そこから導き出される結論は、智盛は清盛の正室時子が生んだ最後の子供である、ということです。これには、側室の子は冗員として「末子」と言う場合の数に入れない、と言う前提が必要ですが、それについてまず説明しましょう。
 正室と側室の差というのは歴然としています。宗盛〜重衡は生没年がはっきりし、平家物語でも重要な役割を割り振られてたびたび登場しているのに対し、知度、清房は生まれた年が判らず、物語でもほんの一瞬出てくるだけです。長男重盛も母親が違いますが、さすがに長男として存命中はそれなりに扱ってもらえました。しかしその死後息子達は宗盛以下一族から冷たくあしらわれ、不遇の生涯を余儀なくされました。このような例から考えれば、平家正嫡としての清盛の末子は、時子の子であらねばならない、という乱暴な物言いも許されるでしょう。
 では何故智盛が正妻時子の息子だと推測できるのでしょうか。
 その理由の1つが智盛の名前、次が神剣草薙の剣です。
 名前については既に紹介しているので省き、草薙の剣について説明します。預けられたかはたまた勝手に持ち出したかは分かりませんが、とにかくそれが手に出来る近さに智盛がいたのは間違いありません。草薙の剣は宮家三種の神器として安徳帝の玉体と共にありましたから、その近くとは他ならぬ帝の近くということになります。当時帝の側は宗盛以下時子の子供達で占められていましたから、そこに席を設けるには、智盛もまた正室時子の子であるほうが自然です。
 そうなると、問題は時子の年齢ですが、時子は一説に1126年生まれと言われています。つまり史実における最後の出産は31才の時になります。これは当時としては相当な高齢出産と言えるでしょう。智盛が時子の子とするためには、そこから少なくとも2、3年以内で生まないと無理があります。
 父親の清盛は1158、9年は忙しい身で東奔西走していましたから、智盛誕生は最大限の見積もりで1160年、となります。この記念すべき年に生まれた正妻の子供を清盛が溺愛するのは当然でしょう。元服後、正史での最愛の息子知盛を超える名前、「智盛」を与えたとしても不思議じゃありません。そこで2番目の推測は智盛1160年生まれ。麗夢との出会いは20の春のことでした、というわけです。

 まあ、どちらにしても屋上屋を重ねる暴論です。ご意見、ご非難、いろいろあるでしょうが、あくまでもこれはかっこうが小説を書くためにこねくり回したお遊びだということでお許し願いましょう。第一智盛の年齢が18だろうと20だろうと、はたまた全く違う年でも本編にはさほど影響ありませんし、関係者も当然あずかり知らぬ事ですので、念のため書き添えておきます。
  それでは長丁場のお付き合い、ありがとうございました。

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